31話『積み重なる憤激の種』
《サファイア》
少し離れた場所から、平和な世では聞きなれない強烈な爆発音が聞こえた。無音の夜陰だからか、その鳴動はよく轟いた。そして、その轟音の正体も察しがついた。
恐らく裕仁とあの男の闘諍で、何かが起きたのだろう。それを理解した瞬間、不安や心配が海音の心中を侵食した。怪我はしてないだろうか、やられてはいないだろうか。そういった感情が海音を覆い尽くす。
だが雪乃は、地鳴りのした方へ振り向くことはなかった。
それは彼女が感情のない辛辣で冷徹な女性だからではない。きっと裕仁を信じているからこそ、自身は目の前の敵に集中しているのだろう。
海音も逸らした視線をすぐさま敵へと戻した。雪乃が信じているのだ。海音も信じなくてどうするのだ、と強く自身に語りかけた。それに、敵前での余所見は即刻に敗北へと繋がる。殺してくれと敵に言っているのと同等の、愚劣な行為だ。その事は海音もよく知っている。
「おーおー。あっちは派手にやってるねぇ。」
警戒する雪乃や海音とは真反対に、その女性は愉快そうに笑っていた。まるで海音達が眼中にないかのように、こちらを見てすらいない。
……それほど彼女は、余裕なのだ。
彼女は、かなり強力な異能を持っている。
ただ、それは攻撃タイプではない。きっと海音と同じ逃走系統の異能だろう。逃走系統の異能は攻撃には転じないが、それなりに強大な影響力を持っている。それに加えて、彼女の異能には恐らく、雪乃の言っていた“過大解釈の力”も含まれているだろう。でなければ、この光景は恐怖を抱くに値する。
先程まで突起物一つない平坦だったアスファルトは、四方を壁に囲まれた部分から何重にも隆起し、そこから突き上がるように大きな段差が幾数にも出現した。段の一つ一つは高さが異なり、数十センチ程度のものもあれば、数メートル級のものも存在していた。まるで突如出現したアスレチックステージだ。この大通りは最早、自動車も走ることができない凹凸の激しい遊戯舞台と化してしまった。
その屹立する天柱の頂きに、彼女は悠々と座している。
しかし、どのルートを辿ってもあの女の元へは辿り着けない。延々とその周りを巡り続けるだけだ。既に海音達は八方塞がりとなっていた。
そんな海音達を見下ろしている女性は、滑稽だと言わんばかりに呵々と笑う。
「どうしたのー? さっきから一向に攻撃してこないけど。もしかしてやっぱり威勢がいいのは口だけなのかしら?」
海音の隣に佇む雪乃は、盛大に舌打ちをした。高い位置から物見遊山でもするように見下ろす彼女に、少なからず苛立ちを覚えているようだ。彼女は何をしてくるでもなく、ただただ必死に段差を登り続ける海音達を嘲笑うだけだ。その隙に逃げたくとも、四方が壁に囲まれている所為で遁走できない。そしてその原因でもあるあの女に指一本触れられない。雪乃が腹を立てる理由も海音は理解できる。実際、海音も煮え繰り返るような憎悪を抱いていた。彼女の発する揶揄や嘲謔に、精神は敏感に反応するのだ。あの女はどうやら人を小馬鹿にするのに長けているらしい。
ただ、ここであの女のペースに呑み込まれるわけにはいかない。雪乃と海音は自然と“アンガーマネジメント”を繰り返していた。
六秒だ。憤激を覚えた瞬間から六秒を脳内で数える。そのたった六秒の行為によっていきり立った精神は鎮静し、冷静に敵と向き合うことができる。コントロールの効かない怒りに突き動かされると、碌なことが起こらない。
それでも鬱憤の種は着実に二人に溜まっていく。普段は何とも感じないような安い挑発でさえ、過剰な反応を起こす。緊迫した状況だからこそ、心身共に逸りだす。
「……そんな所で能書き垂れてないで、さっさと降りて来なさいよ。」
雪乃は怒りを発散するように言い返す。
だが逆を言えば、奴もそういった精神的な斬り込み以外に、攻撃手段を持ち合わせてはいないのだろう。折角優位な位置に立っているのだ。そこから海音達を愚弄するばかりで、攻撃を仕掛けないと言うことは、そういうことなのだろう。彼女の『宝石の力』も、この段を生み出す以外に用途は無いのかもしれない。
ならばこちらの方が断然有利だ。
その筈なのだが。
どういう訳か、雪乃から「今は宝石の力を使うな」と囁くように言われた。状況が状況だ。長話出来るわけもなく、理由は教えてもらってはいない。雪乃には、何か策があるのかもしれない。
海音の持つ『サファイア』の力ーー『角度を操る』力を使えば、あの女性を天頂から引きずり落とすことができる。なのに雪乃は、一段ずつ慎重に登り続けている。その様が滑稽だと女に笑われているのに、一切『宝石の力』を使う気配が見られない。隠して何の得があるのだろうか。
一体雪乃がどういうつもりなのか、海音には全く理解できなかった。
そうこう考えている内に、雪乃は再び動き出した。
段差から段差へと器用に飛び移り、徐々に彼女との距離を詰め始めた。海音も回り込むように反対側から段を乗り越えて進み始めた。若さを感じさせる軽やかな跳躍は、数十センチの段も難なく飛び越え、着実に高度を増していく。
その様を女性は、またもや笑い飛ばす。最初のような堪える失笑ではなく、今ではただの大爆笑だ。そこには緊張感もまるで無い。あるのは余裕綽々な態度と、海音達を見下す嘲弄だけだ。
「無駄よ無駄。貴女達は逃げられないし、私の元へ辿り着くこともできない。同じような無駄な足掻きを何度も見てると、流石にこっちも飽きてくるのよ。ほら、もっと間抜けに踊りなさいよ。」
雪乃は一度立ち止まると、嗤笑する女に怒気を孕んだ目線を投げかけた。
「……貴女の目的は私達の宝石じゃないの?」
そのような質問に、女性は何を今更、と言いたげな目で返答を返した。
「あくまで“足止め”よ。“息の根を止める”つもりはないわ。貴女が私を楽しませて、大人しくしていればの話だけど。」
彼女がそう言うと、雪乃の目は先程と打って変わって光を灯した。まるで勝利を確信したような目だ。思わず女性は、額から冷や汗を浮かべた。
「そう……。」
だったら、と雪乃と海音は小さな声で呟いた。その言葉を女性は聞き逃さなかった。
二人は口を揃えて、高らかと宣言した。
「てめぇに“私達の足”は止められねぇよ。」




