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26話『とある故人』



《ペリドット》



「…疲れた。」



裕仁は伸びと欠伸をした後、ふと溜息と共に呟いた。七時間にも及ぶ退屈な授業を乗り越えたというのに、達成感はまるでない。ただただ面倒で、疲労感だけが重く積み上がっていた。開ける事はなく机の端へ追いやった教科書を机の中に仕舞い、これまた使うことのなかったシャープペンシルと消しゴムを筆箱の中へ閉じ込めた。そしてもう一度大きな欠伸をする。


その仕草に「最近お前疲れてるなぁ」と、席が近所の友達は苦笑を浮かべた。確かにここ最近、体も気力も怠い。裕仁も特に否定することなく「そうなんだよ」と笑って答えた。それから二、三言他愛のない話をすると、友達は裕仁を気遣うように「適当に頑張れ」と言い残して帰って行った。



例の殺人ゲームが開催されてから既に二ヶ月が経った。疲労もそりゃあ溜まるさ、と裕仁は声に出さないように毒吐き、小さな厭世観に苛まれていた。これだけ経って、犠牲者が出ていない筈がない。一体、この時点で何人の人が命を落としたのだろうか。そう考える度、溜息が溢れるように出てくるのだ。しかしその感情を抱いているのは裕仁だけでは無かった。


裕仁は、ちらりと雪乃の方を見た。


何時も明るく振舞っている彼女だが、矢張り最近元気がない。この宝石争奪戦が開かれてから、雪乃の表情は日に日に貼り付けたようなものになっていくのが伺えた。確かに、何度も襲撃を受け、何度も宝石を巡って戦った。その疲労感は常人には計り知れないだろう。それでも裕仁は、同じ境遇に身を置くものとして、彼女の疲労具合には何か違和感を抱いていた。


そんなことを考えていると、雪乃は席を立ち上がった。机の上に置かれた鞄を肩に掛け、そのまま教室から出て行った。そのふらりとした足取りには、何時ものような覇気が無かった。


ーー雪乃らしくないな。


そう思った裕仁は、雪乃のあとを追いかけた。






「なぁ……雪乃。」



裕仁は、雪乃が校門を通り抜けた所で話しかけた。雪乃はこちらに振り向くと、なんだ裕仁か、と言ったような微妙な表情を浮かべた。その顔に文句を言ってやりたいところだが、今はそんな事を言いに来たのではない。裕仁はぐっと堪えた。



「……どうしたのよ。珍しいわね、貴方がそんな深刻そうな声を発するなんて。」



雪乃のも裕仁の真剣な表情に気付いたのか、戯けるような態度は取らなかった。それでも雪乃はいつもと変わらない態度で、口調で、裕仁に微笑みかけた。


そう、その表情が不気味なんだ。裕仁は心の中でそう言い放った。確かに付き合いの短い人達ならば、それで誤魔化せるのかもしれない。だが、裕仁の目は騙せなかった。裕仁は静かな口調で雪乃に告げた。



「………お前、無理してるだろ?」



雪乃は暫し俯いて口を閉じた。二人の間に沈黙が訪れ、その間空気の読めない烏の鳴き声だけが木霊してきた。気がつけば、もう夕日が沈み始めている。今日は陽が落ちるのが早い。



「………そう見える?」



雪乃は小さく、そして力ない声で聞き返してきた。哀愁の漂う夕陽が雪乃の長い髪を照らす。その分、顔には深い陰翳が浮かび上がっていた。



「……あぁ。」



裕仁も少し俯いて答えた。途端に雪乃の顔から面が剥がれたかのように、暗く、寂しいような……そんな表情が顔を見せた。だが、裕仁には分からなかった。



「………どうしてお前がそんなに落ち込んでるのか、思いつめているのかは分からねぇ。何故最初に俺に襲撃を仕掛けたのかも、別に問い詰めるつもりはねぇ。」



でも、と裕仁は言葉を繋げるも、少し次の台詞を紡ぐのに躊躇した。それは言ってもいいのか分からなかったからだ。だが、裕仁は思い切ったかのように言った。



「今のお前……。あいつが……友絵ともえが死んだ時と同じ顔してるぞ。」



裕仁がそう告げた瞬間、雪乃の顔は強張った。それから雪乃は、敵意を示したような視線で裕仁を睨み付けた。しかし彼女は直ぐに落ち着き、申し訳なさそうに顔を伏せた。


松濤友絵まつなみともえ。それは中学の頃、雪乃と親しかった友人の名だ。何時も活発で陽気で、天真爛漫な少女だった。それこそ裏表がなく、どちらかと言えば男勝りな性格だった。そして、誰よりも強かった。別に喧嘩が強く暴力的というわけではない。彼女は精神的に強かったのだ。悪い事は悪いとはっきりと告げ、善行には進んで賛成した。当然、そんな性格だ。人から妬まれたりする事も少なくは無かっただろう。だが、いくら憎まれ口を叩かれようが、まるで気にも留めていないかのように彼女は何時も元気に過ごしていた。


そんな友絵は中学二年の頃、突如としてこの世から居なくなってしまった。余りにも突然なお別れで、裕仁は実感が湧かなかった。交通事故だったと聞くが、噂では誰かに殺されただとか、そんな根も葉もない推論が近所では飛び交っていた。当時、彼女と仲の良かった雪乃は笑顔を絶やさなかった。それは彼女が非情だからではない。周りの人々に心配をかけないようにだ。だが、そんな彼女が時折見せる顔は、深く絶望した抜け殻のような……そんな顔だった。



「……そう。」



雪乃は悲しげに言葉を漏らした。



「悪いな……思い出させちまって。」



自分で言い出したものの、やはり言わない方が良かったのかもしれない。罪悪感に呑まれながら、裕仁は謝罪した。



「いいのよ、忘れた事ないし。」



雪乃は小さく溜息をつき、夕陽を見上げた。空は既に茜色に蚕食され、水色との境界線も曖昧となっていた。それ程までに色濃く、そして美しかった。



「何があったかを深く抉るように聞くつもりもないし、無責任に偉そうに説教垂れる気もないけど……。ただ、無茶だけはしないでくれ。……その、なんだ。心配になる。」



裕仁は不器用に慣れない言葉を連ねた。言葉尻に行くほど声も小さくなっていった。そんな裕仁の姿に、雪乃は苦笑した。



「……そうね。ありがとう。」



雪乃は普段の貼り付けたような笑顔ではなく、心からの笑顔を見せた。裕仁は何だかその笑みを懐かしく感じた。ここ数週間は見ていない、心の靄が晴れていくような健やかな笑みだった。正直なところ、説得できた気はしないし、上手く慰める事もできなかったと思う。何故彼女が急に笑顔を取り戻したのか、裕仁には分からなかった。ただ、彼女の表情からは、何か吹っ切れたような感情が垣間見えた……気がした。





「……それにしても、私が悩んでいるなんてよく分かったわね。普段から私の事をジロジロと観察しているのかしら?」



雪乃は先程とは打って変わり、嘲笑うような視線で裕仁を見詰めた。何だか、彼女と出逢った初日のような初々しい感覚が裕仁にはあった。最初に出会った時もこんな憎まれ口を叩き合っていたっけか、裕仁は少し昔を思い出し、一人で密かに微笑んだ。



「……馬鹿言え、誰でも分かる。あんな暗い表情してたら虫も寄り付かねえよ。」



「逆を言えば、明るく振る舞えば虫が寄ってくるのかしら?」



雪乃は冷やかすように裕仁に言った。そうだ。言い返しても言い返しても口は減らず、屁理屈ばかり捏ねる少女……それでこそ雪乃だ、と裕仁は笑った。



「そうだな、お前の笑顔は虫も寄ってくるに違いないよ。」



夕日に照らされた通学路を、二人は並んで歩いて行った。そんな二人を象った影法師は、とても愉快そうに揺れていた。







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