21話『憧れの主人公』
《エメラルド》
瀬良涼太は元々運の悪い男だったが、近頃は更に運が悪かった。
今朝だって色々と酷かった覚えがある。混み合った電車内で、壁に寄り掛かるご老人に席を譲ろうとしたら「まだそんな年寄りでは無い」と理不尽なお叱りを受け、挙げ句の果てには駅の通路で前を歩く女性が落とした財布を拾って渡してあげようとすると、何故か盗人扱いされて交番まで連行されそうになった。
そして、ついには変な殺人ゲームの渦中に巻き込まれてしまったようだ。
だが涼太は、本当は少し浮かれていた。
人には無い力を持ち、人にはできない事ができる。男子は必ず、こういうものに一度は憧れた事があるだろう。もしなければ、浪漫がない。彼にとって、男じゃないと言っても過言ではないという認識だった。それらは決して酔狂な考えではない。男子なら必ず一度は通る道だ。
言葉に表してみれば、その素晴らしさは女性でもワクワクするだろう。
表の顔はただの平凡な、一般の大学生。
裏の顔は常識はずれな力で、悪を正し世界の秩序を正すヒーロー。
若しくは悪の組織に与えられた能力だが、正義の心を失う事なく持っていたがために、その悪の組織へ一人で対立するーーー。
まさにアメコミや少年漫画のような怒濤の展開だ。胸が踊る。
そんな彼に届いた宝石は『エメラルド』だった。
エメラルドグリーンという色は見たことはあるが、実物はやはり比べ物にならないくらい麗しかった。色鉛筆などで発色できるような安い色ではなく、まるで色の格が違った。初めてその目にした時、言葉が湧いて出てこなかった。ただ単に語彙が欠落しているのも有るだろうが、筆舌に尽くしがたい崇高なる何かを感じたのも事実だ。
それに、ご丁寧に宝石は“エメラルドカット”までされている。そのカットが更に宝石に光沢感を齎し、高級感を倍増させていた。
感動を覚える中、涼太は心の中で密かに決心した。
この力は『人助け』の為に使うべきだと。
力を持つものは、持たないものの為にも働かなければならない。流されるまま悪行に走るのではなく、善行を尽くさなければならない。
ただの妄想なのかもしれないが、これはもしかすると、神から涼太への一種の啓示なのかもしれない。
そうなると、涼太は特別な力を与えられた“主人公”に選ばれた事になる。今まで脇役のような退屈な人生を送ってきたが、遂に挽回する時が来たようだ。モブ人生に終止符を打ち、輝かしい主人公のように颯爽と悪を討つ存在となる。たった今より、涼太は自身の憧れの存在となるのだ。
涼太は勝手に舞い上がり、勝手に過信し、そのまま勝手に眠りについた。
《アメジスト》
蓋をしても抑えきれない苛立ちが募る中、絢成は遂に眠ることが出来なかった。何度も壁に拳を叩きつけ、歯軋りが止まらなかった。
思い切り殴る度に、壁は鈍い悲鳴をあげる。宝石による異能の所為か、力を抑えているつもりでも亀裂が走り、絢成の拳の跡がくっきりと残ってしまっていた。この調子では、いつかはこの建物も倒壊してしまう可能性もある。それは困ると考えた絢成は、仕方なしに溜息をついて固い床に寝転がった。こういった時は、暴力によるストレスの発散が最も効果的だ。特に、自分に屈辱という苦汁を舐めさせた奴への復讐を含んだ暴力は最高だ。妙な恍惚が体を満たしてくれる。だが、だから、今は心の中を憎悪で満たしておくのだ。絶対にあいつは殺してやる。あいつだけは許さない、と。
そのまま絢成は、不快極まりない朝を迎える事になった。
眠気覚ましに絢成はゆらりと立つと、廃ビルを頼りなく支える柱が立ち並ぶフロアで立ち止まった。デパートなどの、車が一台も止まっていないガレージを想像してもらえれば分かりやすいだろう。殺風景で何もなく、そして無駄に広い空間だ。そこで絢成は、何の予備動作もなく、そのコンクリート仕立ての柱に回し蹴りを放った。するとその太い柱は、強烈な炸裂音と共に豪快に折れ倒れた。まるで薄い木の板を蹴り破るような感覚で、絢成は易々とコンクリートの柱を崩壊させたのだ。
ーー絶好調だ。
軽い準備運動を終えた絢成は、何時ものように部屋の隅に蹲る巳空に特に何も告げることなく、早足でこの潜窟を出て行った。
早くあいつを殺してやりたい。
その一心が、絢成の足を進ませた。
この雪辱は一人で晴らす。いや、晴らさなければならない。
こればかりは巳空の力を頼って勝利したとしても、気分は一切浮かばれないだろう。奴は王の誇りに傷をつけ、そして今ものうのうと社会に生きている。
そんな事はあってはならない。王に逆らうような駄民は即刻排除すべきだ。粛清を行わなければならない。何処ぞの首刎ね女王ではないが、奴には断頭処刑が必要だ。切り取った頭部をハンティングトロフィーのように部屋の装飾するのも悪くない。奴の苦悶に歪んだ表情を眺めながらヴィンテージ1990のロマネ・コンティで祝杯をあげよう。
……半分は冗談だが、そのくらいに痛めて貶して陥れて、漸くこの胸糞悪い気分は晴れるだろう。
ただし、昨日の今日だ。
派手に交通事故をやらかした事もあり、通行人に顔を覚えられている可能性もある。ただでさえ目立つ風貌をしているのだ。このゲーム中の殺人は罪に問われないが、世間一般の愚民共はその制約を知らない。何も知らない無知な下郎どもに集られるような面倒はなるべく避けたい。それだけが絢成の抱く一抹の不安だった。
しかし、その不安は簡単に解消できる。
襲撃するのはあの女が帰宅する夜にすれば良いだけの話だ。昼間はどうしても目立ってしまう。幸い、この辺りは人通りの少ない路地が多い。そこで仕留めてしまえば他人に目撃されるという問題はない。
ならば、それまでじっと身を潜める必要がある。
絢成は忍ように路地裏の影へと溶けていった。
《アクアマリン》
昨日、謎の金髪男から襲撃を受けた。
何とか命を失う事はなかったが、自分が標的にされてしまったという事は面倒極まりない。
当然だが、標的が自分自身である以上、襲撃がこれで終わるとは思えない。きっとまた襲いにかかってくるに違いない。あの男の蛇のような鋭い眼差しから、美静にそれを予見させていた。
だからと言って、会社を欠勤する訳には行かないのが絶望的だった。このご時世はなんとも生きにくい世界だろうか。今漸く数年という長い年月を費やして、上司からの信用を勝ち取り始めた所だ。ただでさえ女性という立場は社会的には弱い。男女平等なんて言葉はあって無いようなものだ。
それでも美静は、もうお茶汲みやコピー取りを只管続ける感情のないロボットとは違う。それを証明する為にも、欠勤などという選択肢は論外だった。一度休めば、その信用は泡のように全て消え去ってしまう。それも「謎の男に追いかけられたから、外に出るのが怖いので休みます」という訳のわからない理由で休む事が許されるはずもない。何があっても欠勤する訳にはいのだ。
だから美静は、自身の“死”と“会社”を天秤にかけて、会社に出勤することを選択した。
我ながら溜息が出た。
そんなに自分の命とは軽かった物なのか…。
“生きていればそれで良い”という言葉もあるが、生きるためには働かなければならない。「大変だろうし、このお金をあげよう。」と、このように手を差し伸べてるお節介な人など誰もいない。皆んな自分が生きていくのに必死なのだ。だったら、“生きていればそれで良い”と皆が言い切れる根拠とは何なのだろうか。
幾ら聡明であろうと、そんなものに答えはない。
辛い生か楽な死か。
そんな机上の空論のような疑問も脳裏をよぎるが、考えるのも面倒だ。生きているのも確かに辛いが、死のうにも死ぬ勇気はない。飛び降りだとか、首吊りだとか、窒息だとか。考えるだけでしんどいし、痛々しい。つまりは、生きるのも嫌、死ぬのも嫌。そんな中途半端にこのまま寿命を迎えていくんだ、と美静は頭を抱えた。
だがそんな重苦しい感情も、出勤した直後の書類の量を見て、直ぐに出来なくなった。終えても終えても新しいものが増え続け、それの繰り返し。いつまでたっても終わりが見えない事務作業。
上司の命令に拒否権という便利な言葉はない。選択肢は笑顔で「はい、喜んで」と言う以外には無いのだ。「頼んだよ」と言う上司に作り笑いで愛想よく返事をすると、美静は直ぐに終わりなどないデスクワークに取り掛かり始めた。




