14話『逃走の熟練者』
《サファイア》
最初に仕掛けてきたのは謎のペストマスク野郎だ。
掛け声も合図もなく、洒落た服を着込んだマネキンが海音に無造作に殴りかかった。どこかのブランド店からくすねてきたのだろうか。そのマネキンはゆるふわ系の白いニットを着込み、赤いショートパンツをお洒落に着こなしている。嫉妬するくらいのモデル体型で頭身も高い。当然その腕のリーチも長く、海音の大袈裟な回避でも指先は寸前まで迫った。その攻撃の一つ一つは、海音にとってはまるで腕が突然伸びてきたかのような錯覚を覚えるくらいだった。
だが躱した先にもう一体、次は男性的なマネキンだ。これまた小洒落たベストに、ポケットの多いズボンを着こなしている。そのマネキンは大きく円を描くようにして、細く硬い腕を振るってきた。だが、そんな大振りな攻撃が当たる筈ない。そう思いながら海音は、先程よりも大きく横へ回避を試みる。
しかしそれは出来なかった。
何故だか、足が地面からくっついて離れようとしないのだ。まるで靴の底が接着剤で固められているかのように、何かに強く引っ張られるかのように足は重く上がらない。
海音は不思議に思って足元を見下げた。
するとそこには複数の小さなブリキ人形が、海音の足元に束となってしがみついているのが見えた。ただの小人のように小さな人形でも、纏まればここまで力強くなるのか。数とは恐ろしいものだ。ある程度のことを覚悟している海音でも、これには予想外だった。
そうしている内にも、マネキンのラリアットは海音に迫る。海音は反射的に跼み、マネキンの腕は海音の頭上を大きく空振った。その隙に海音は足元のブリキ人形を抑えられていないもう片方の足で蹴り飛ばし、次に来る攻撃に備えて回避行動を取ろうとした。だが、相手の方が数秒早かった。
一度攻撃を躱したはずの男性のマネキンは、大いに振るった腕をそのまま勢いとして利用し、体を捻って蹴りを繰り出してきた。そんな彼からは動くのに負荷がかかる所為か、関節から鈍い軋み音が聞こえて来る。しかしその割には、恐ろしく素早い一蹴だった。
海音は咄嗟に顔の前に両腕を交差させた。
すると、マネキンの足は見事に海音の腕に命中した。瞬間、海音の腕には途轍もない衝撃と痺れが走った。
そして海音は両腕で防御したにも拘らず、後方へ大きく体を吹き飛ばされた。マネキンとは思えないような、あり得ない力量だ。
「ぐっ‥‥‥!」
上手く着地できず、蹌踉めいた海音に更なる追撃が訪れる。それは海音の目の前。立派な刀を携えた日本人形が、宙を踊り舞うようにして、海音に接近してきた。その剣士人形は型の整った居合切りの構えを取っている。奴が所持しているのが鈍の刀だろうが、おもちゃの刀だろうが、剣速によっては海音はかなりの傷を負う事になるだろう。
ならば、受けるのは不可能だ。
それもただ躱すより、効率的に攻撃を避けるしかない。
「ーー『サファイア』。」
海音は指を空気を撫でるように滑らせると、日本人形の飛来する角度を変化させた。その人形は一瞬の出来事に対処することが出来ず、そのまま明後日の方向へと飛んで行った。
海音は、何とか人形による摩訶不思議な一斉攻撃の波を凌ぎきった。それには妙な達成感すら覚える。統率の取れた人形の軍隊は、海音の隙を作っては突き、作らせては突き、と実に嫌味ったらしい攻撃を仕掛けてきた。一人で対処出来たことに自分でも驚いている。同時に、極限状態まで追い込まれた人間は自分でも想像出来ないほど神経が研ぎ澄まされるのだと実感した。
だが、海音は既に肩で息をし始めていた。
初めての実戦。
初めての命を賭けた闘い。
極度の緊張からか、海音の体力は消耗が激しかった。ただの人形や縫いぐるみだからといって、楽観視は出来ない。絶妙な連携と個人の洗練された動作。手を抜いていれば一分と持たずに殺される。
直接的な死を直感した海音は、なるべく使用したくは無かった宝石の力ーー『サファイア』の異能を発動せざるを得なかった。
……それにしてもあのペストマスクは驚異だ。
最初は糸のようなもので人形を操る傀儡子のような異能ではないかと想像していた。が、どうやらそうでは無いようだ。一人一人……いや、一つ一つの人形がそれぞれの意思で行動しているようにさえ感じる。自身の判断で、それぞれ自身の誇りを持って、全身全霊で海音を仕留めに来ている。その動きは、共通の敵を持った同志に等しい団結力を発揮している。まるで指揮と統率の取れた一個大隊だ。
そんな軍隊そのものを相手に、海音は何時まで時間稼ぎができるのだろうか。体力が無くなると、必然的に比例して集中は途切れやすくなる。このままではいずれ数に押されて敗北は必須だろつ。雪乃と裕仁が駆け付けるのはあと何分後だろうか。これ程の攻防を繰り広げていても、まだ現実時間では数十秒程度しか経過していない。時間の流れは変わらないが、早く経過して欲しい時に限って永劫のように感じる。
「ちっ‥‥これ、凌ぎきれるかなぁ?」
海音は苛立ち混じりの舌打ちと共に、乾笑いを零した。靴を床にすらせ、蹴りを受けた腕を交互に振った。未だに少し痺れが残っている。使い物にならない、とまではいかないが、多少の支障はきたすだろう。海音は相手の動きを注意深く探ると共に、人形達の攻撃にも備えた。疲れの色を相手に見せてはならない。まだ、これからだという意思を相手に見せつけるように睨みつけた。
すると、それに応えるかのように第二波が来た。
次は先程とは比べ物にならないほどの怒濤の大波だ。多勢に無勢とは、まさにこの事を言うのだろう。
まるで海音を数で吞み込むように、人形の大群が一斉に迫って来た。その中にはロシアの伝統的な兵士人形、不気味なまでに大きな藁人形、ヨーロッパの美しい蝋人形、駅前にオブジェとして設置されていた銅像。その他様々な奴らが混じりあっていた。
細い路地の縦横を埋め尽くすようにして、人形は海音に全力で襲いかかった。当然、こんな物を目の当たりにした海音は踵を返して走り出した。靴が床に擦れ、小さく砂埃が舞い上がった。しかしその薄煙も、すぐさま人形達の群れに掻き消された。
ーーあれに巻き込まれると命は無い。あの大群にたった一人で飛び込む勇気など海音には無かった。ここで吶喊して突っ込むのは、巨大な津波に筏で突撃するほど無謀で蛮勇な行為だ。
「あんなの聞いてない‼︎」
海音は逃げながら必死の叫び声をあげた。
それは間違いなく海音の心の底から出た本心の叫びであった。恐怖の波が、死の波が海音の背後から容赦なく来襲する。
だが、海音は『逃げる』という行為には定評がある……と自負している。逃げは海音にとって十八番であり、絶対的な得意分野だ。海音は一旦素早く振り返り、掌をひらりと回した。
一見意味の無いような無駄な行動だが、攻撃対象であるペストマスクは少なからず違和感を覚えたはずだ。
たった今、奴の視界から……。
追っていた筈の海音の姿は“跡形もなく雲散霧消した”のだから。
「ーー何?」
「……『180度』、角度を回転させた。」
『サファイア』の異能ーー『角度を操る』力によって、海音はペストマスクの統率する人形部隊の進行方向を全くの真逆へと回転させた。この異能は正しく逃走向きだ。角度の変換に掛かる時間は一瞬だ。仮に違和感に気付いても、理解に数秒はかかる。
その数秒は海音にとって有難い猶予時間だ。
しかし、ペストマスクの行動には違和感があった。
ペストマスクは方向を転換されたにも関わらず、そのままの方向へと加速し続けたのだ。まるで停止という言葉を認知していないかのように、止まり方を知らないかのように人形を引き連れて猪突猛進を続けていった。当然、そこには海音の姿などない筈なのに。
もしかすると、気付かなかったのか……?
いや、そんな筈は無い。幾ら鈍感でも景色が反転したのならば直ぐに意識するはずだ。何しろ、追いかけていた海音の姿も無いのだ。気付かない方がおかしい。もしかして見えていないのだろうか。いや、それならば先程までの攻防の説明がつかない。きっと、何か別に理由がある筈なのだが……。
そこで海音は、重要な一つの可能性を見逃していることに気がついた。
そう、海音と同じ事をしようとしている可能性だ。
「ーー待て! 逃げる気か!」
しまった。
そのような負の感情が、海音を締め付けた。
ーー今、逃げられては不味い。
この宝石の奪い合いゲームにおいて、情報というものは生死を分けると雪乃は言っていた。
そして現在、海音という存在と能力は奴に知られてしまっている。それに比べて此方が掴んだ情報は、奴の異能だけだ。性別、容姿、身長、宝石の種類や色、そして声。それらは奴は知っていて、海音は知らない。情報には雲泥の差がある。既に情報戦では大敗してしまっている。もし、奴が何処かの宝石所持者に通じているーー若しくは使いの者だった場合、次の犠牲者は間違いなく海音になるだろう。
………。
だが、そんな心配もするだけ『無駄』だと、海音は悟った。
「あぁ……。やっぱ待たなくていいや。」
……時間稼ぎは終了した。やっと、『彼ら』は到着してくれた。
ペストマスクを回転させた方角ーー。
奴の退路を塞ぐようにして立ち並んだ二つの影。
「……何だこれ? 気持ち悪りぃなんてレベルじゃねぇぞ。」
「煩いわね。見たままじゃないの。お人形さんがカタカタと動いているのよ。そう驚くことじゃないでしょう?」
「……お前は一体どんな境遇で生きてきたんだよ。」
「そんなの決まってるでしょ。現代という名の地獄よ。」
不敵な笑みを浮かべて現れたのは、海音がつい最近、信頼し出した『仲間たち』ーーー。
『嘉嶋雪乃』と『藍浦裕仁』だった。
「待たせたな、お姫様。後は俺たちに任せな。」
「ええ。タコぶねにでも乗ったつもりでいなさい。」
そんな場違いな冗談に、海音は初めて自然と笑みを零した。この二人に笑顔を見せるのはこれが初だったかもしれない。
「……もう船ですら無いね。」
海音の震えは、彼らの登場と共に不思議と消えていた。
「ーー頼りにしてるよ。二人とも。」
そんな海音の期待に応えるように、二人は気合の声で返事をした。
「……おう‼︎」