11話『冗談のような現実』
《トルマリン》
「……死んでくれ、だって? 冗談じゃないわ。」
彩音は迫ってくる高身長な不良に対し、怯むことなく強気に応えた。だが実際には、その威圧感に対して今にも足が震えだしそうだった。鼓動も今まで生きてきた中で最も速く打ち、全身から飛び出そうな恐怖も、彼を強く睨むことによって必死に抑え込んでいた。まるでそんな彩音の態度を鑑賞して楽しむかの様に、男は両手を広げながらじりじりと歩み寄ってくる。不快な冷や汗が、彩音の背筋を静かに伝い落ちていく。奴は彩音が怯えるのを見て楽しんでいる。自身に恐怖心を抱いている事に喜びを感じている。
だったら、死んでも表情に出してやるものか。
そう意気込んでも、彩音には焦りを顔に映さないだけで精一杯だった。男は彩音が虚勢を張るのをけたけたと嘲笑いながら、歩む足を止めようとはしなかった。
「冗談は言ってないさ。お前が死ぬのは決定事項だ。」
そう言って金髪の男は小さく飛び跳ねると、次の瞬間には大凡人間とは思えない速度で彩音に迫ってきていた。そこらの自動車と比べると加速度が桁違いだ。スポーツカーが発車時からトップスピードで走行するかのように、彼はたったの一瞬でトップギアとなった。攻撃が届かないように一定に保っていた距離を、あっという間に詰められてしまった。
だが、彩音は迷うことなく、そして焦ることなく地面を蹴った。前にではない。金髪の男を真っ直ぐと見つめたまま、後に向かって飛び跳ねた。しかし、彩音の背後は行き止まりの壁だ。ただし、その方が“好都合”だった。
彼らと出会ってしまったその時から、最早戦闘は避けられなかっただろう。勿論、回避する道はあったかもしれない。だが、彩音にはその道は思いつかなかった。その瞬間から覚悟は既に済んでいた。
しかし、いざ実際に戦闘が始まってみれば分かる。宝石の力は相手の方が遥かに上。使用方法も奴の方が上手。この一瞬のやりとりで、彩音に勝ち目は殆どないと悟った。悔しいが、それが事実だった。
だが、簡単にやられるのは癪だ。
だからと言って、彩音には奴を倒す手段はない。
ならば、逃げに徹するのみだ。
金髪の男が彩音の目前まで到達した瞬間、彩音は後方の壁を強く蹴った。するとどうだろう。その勢いは凄まじく、彩音は男の頭上を容易に高く飛び越えた。その跳躍力は驚異的なものだった。だが、男は特に驚く事はなかった。それは、男も彩音の事を宝石所持者だと知っているからだろう。今更どんな超人的な行為をしても、この男は大して驚く事はない。
そして男はそのまま勢いを殺すことなく壁へと駆け抜けた。そして、彩音が蹴った壁を手で弾きかえすように利用し、方向転換を仕掛けようとした。
しかし、それが彩音の仕掛けた罠だった。
男が壁に手を触れたその瞬間、彩音の所持する宝石『トルマリン』の異能は遺憾無く発揮された。
男はまるで壁に弾き返されたかのように、先程と同等の速度で吹き飛ばされた。こちらに迫ってきた勢いのまま、男は訳も分からぬまま宙を舞った。そして数メートル程、音を立てて地面に滑り込んだ男は驚きの色を隠さなかった。
そりゃそうだ、と彩音は心の中で微笑した。
彩音の手にする『トルマリン』の能力は『触れたものをバウンドさせる』というものだ。別に手でなくても構わない。身体が触れたものになら例外なく発動する。
今回は壁を反射盤に変え、彩音自身は上空へバウンドして回避。簡単に言えば、簡易的なトランポリンのような役割だ。男はそんな事とは微塵も知らずに速度を残し、そしてその速度のまま反射されて弾き飛ばされたのだ。
男が倒れているその間に、彩音は逃亡をはかった。彩音から見て一番近くにある路地に踏み込み、通り過ぎていく全ての障害物に触れて回った。気休めだが、無いよりはマシだ。触れたものは全て反射盤と化し、新たな厄介極まりない障害物となった。
……しかし、逃走は奇しくも失敗に終わった。
それにしても不思議だった。
何度も正しい角を曲がったとしても、彩音は行き止まりの地獄から抜け出す事が出来なかった。奇妙にも程がある。まるで出口のない巨大な迷宮に閉じ込められたかのような……そんな錯覚さえ覚えてしまう。流石の彩音でも、徐々に恐怖の色が顔に見え始めた。
「……無駄だ。お前は逃げる事はできない。」
その恐怖に拍車をかけるように、後ろからあの男の声がした。
それは予想よりも速い到達だった。
彼はこの複雑な路地を、迷うことなく私を追ってきている。彼には、私がどの道を通るのかが分かっているとでも言うのだろうか。それに、障害物には全て反射の仕掛けを用意しておいた筈なのに。その筈なのに、男は既に其処にいた。
「……一体、これはどういう仕掛けなのかしら?」
彩音は冷や汗を垂らしながら、金髪の男をじろりと睨みつけた。その様子を男はせせら嗤うと、少し考えるフリをした。
「……まぁ、教えてもいいか。どうせ今からお前はこれから死ぬんだ。」
そう言って男は、傍に立っているもう一人の黒髪の少年の肩を持った。
「お前がこの迷路から出られない原因は俺じゃあねぇ……。こっちのパッとしない奴の仕業だ。」
まぁ、そうだろうな。とは、彩音も思っていた。明らかに金髪の男の異能ではない。
「……一定の空間をループさせる力とか?」
「いいや違うね。こいつの力はそんなもんじゃねぇ………『相手の思考を逆転させる』のさ。」
彩音は彼の言葉をあまり理解できず、眉間に皺を寄せた。
「逆転? 一体どういうことよ?」
そう彩音が問い返すと、金髪の男は黒髪の少年の肩から手を離した。そして口角を釣り上げて不気味にほくそ笑むと、得意げに語り始めた。
「こいつは無口であまり話さねぇから、俺自身も良くは分かってねぇんだけどよ………お前が心の中で無意識に思っている『出口への方向』。それをこいつが『ムーンストーン』の力で真逆にしたんだ。つまりだ。お前は『正解の通路』とは真反対の『行き止まり』へと自分の意思で歩を進めていた……。ま、そんな所だ。」
成る程ね……。彩音は唾を飲み込んだ。精神に働きかける能力は漫画などでは軽く扱われているが、実際にかけられてみればそれは大きな間違いだった。精神系に作用する異能は甘く見てはいけない。強力で、不回避。更に言えば、自身が異能にかけられている事にすら気付くことが出来ない。
あの黒髪の少年は危険だ。彩音の脳内は、金髪の男よりも黒髪の少年に警鐘を鳴らしていた。しかし忘れてはいけない。金髪の男は常人とは思えない身体能力を持っている。楽にあの攻撃を回避できるなどと思ってはいけない。
彩音は間違いなく絶体絶命だった。
死の崖淵で戦っているも同然だ。
彩音は地面に足を強く叩きつけ、その反動で思い切り跳ね上がった。地面はトランポリンのように、彩音を上空へと跳ね上げさせた。しかしそれを金髪の男が見逃す筈がない。
男も地を強く蹴り上げ、彩音に迫った。
しかしこれは、彩音のようなバウンドではない。男は自身の脚力を持って、ここまで飛んで来たのだ。これは奴の“宝石の力”によるものだろう。
彩音は壁となっていた建物を飛び越えると、そのまま飛び跳ねるように逃走をした。屋上から屋上へ。『トルマリン』の異能を使えば、その距離を早くするのは容易かった。まるで曲芸師のように、彩音は宙を舞うように華麗に飛び移り続けた。しかしそれは男も同じだ。
幾らバウンドの反発力を高めようとも、けっして離れることなく後を追いかけてくる。しかし彼は、彩音を捕まえようとして来ない。彼の速度ならば、彩音など1秒も満たず捕らえることが可能だろう。それでもそうしないのは、彼が“遊んでいる”からだろう。まるで獲物を追跡する肉食獣のように、彩音を少しずつ追い詰めて行く事を楽しんでいる。彩音はあの男の戯れに遊ばれているような向っ腹の立つ気分だ。男にとって、これは唯の鬼ごっこに過ぎないのだろう。
彩音は苦虫を噛み潰すような顔で金髪の男を睥睨した後、反射速度を向上させてとある場所に降り立った。
……其処は港近くの廃工場だ。
理由は知らないが既に閉鎖されており、人は誰一人としていない。つまり、誰にも彩音達を見られる心配がない。この“宝石の力”を全力で使うには、絶好の場所だった。
彩音は扉を開けると、すぐさま奥へと全力で走った。反射の力を駆使すれば、あの男ほどではないが、かなりの速度で走ることができる。工場の中は薄暗く、煙幕のような砂埃が充満している。お蔭で視界は不良好だ。それに、当時は使用されていたであろう機械の影や、工場独特の太い鉄筋の柱。隠れる場所は幾らでもある。一度姿を晦ましてしまえば、闇討ちには持って来いの舞台だ。
彩音がこの廃工場の奥へと逃げ込んだ後、すぐに後を追って金髪の男が侵入してきた。
「おいおい、追いかけっこの次は隠れん坊か? 遊んでやっても良いが、ちゃんと宝石と命は寄越せよ。」
男の声は工場内によく響いた。だが、向こうからこちらの姿は見えていないようだ。それに比べて扉から差し込む光のおかげで、こちらからはきょろきょろと彩音を探す男の姿がよく見える。
攻撃のチャンスは今しかない。
そして今、あの男を仕留めれば彩音の勝ちだ。
彩音はスカートのポケットから、無数の小石を取り出した。そしてその石飛礫を、男のいる方向とは“全く違う方向”へ投げつけた。
この小石の数々は、この宝石を手に入れたときから持ち歩いている彩音の“必勝アイテム”だ。とは言っても、使うのは今回が初めてだ。
たとえ砂利のように小さな石とはいえ、この『トルマリン』の力を使えばその威力は銃弾を凌ぐ。その方法は、“反射”だ。反射を利用して小石を加速させ、跳弾を利用して背後から石を撃ち込む。それにこの視界不良だ。男は何が起こったのかも分からぬまま倒れ伏すだろう。
彩音は次いで第二弾、第三弾と小石を投げ続けた。石は只管に反射を続け、堂々と正面をのし歩く男の周りを縦横無尽に飛び交った。
「……何か音がするな。」
流石に金髪の男も気がついたようだ。
だが、もう遅い。
加速は充分だ。
威力も抜群だ。
彩音は反射先を、全て男に向くように操作した。
「一斉掃射‼︎」
彩音がそう叫ぶと、飛び交っていた石は一斉に男へ向かって発射された。十数、数十もの石は高出力で男へと襲撃を仕掛ける。四方八方からの死角のない攻撃。この銃弾の雨を掻いくぐることなど不可能に等しい。この時点で、彩音の勝利は確実なものだった。
そして駆け回る石飛礫は男に着弾ーーーするかのように思えた。
しかし、金髪の男は身を屈めて第一弾を回避。そしてそのまま身を回転させて二弾、三弾と躱した。だが小石の猛攻はまだ続く。確かに、あの男の速度だ。最初は躱せても何ら不思議はない。彩音の攻撃の真髄はここからだ。
外れた小石も更に反射を続け、再び男へと襲いかかる。その攻撃網は、男に命中するまで無限に続くのだ。
遂に男は次弾を躱すべく後方に飛び去るも、右腕に少し掠らせた。
石による反射は、彩音の想定よりも遥かに鋭く、逃げ場の少ない包囲網が出来ていたようだ。
だが、喜べなかった。
まるで先程までは手を抜いていたかのように、男の動きは徐々に加速していた。十数、数十と突貫する石を全て拳で叩き割り、蹴り砕き、身を翻して鮮やかに回避した。彩音はその光景を前に、目を閉じることができなかった。嘘だ、と絶望的に感じる反面、敵ながら天晴れな動きだと感じていた。その感情はもう“諦め”に近かった。
そして彩音が瞬きをした刹那、その男は既に彩音の目の前にいた。
「な…………!」
そして須臾の間、彩音は悟った。
ーーー殺される。
彩音の体は、気づけば宙に浮かんでいた。何をされたのか全く見えなかった。そして彩音が理解する前に、遅れて強烈な痛みが襲いかかった。
「……がぁああっ!」
何が起こったのか理解できなかったが、攻撃されたことだけは分かった。頭部から血が溢れ、止まることなく流れてくる。丸眼鏡のフレームも割れ、視界に靄がかかったようにぼやける。前が思うように見えない。痺れるような痛みを感じ、手足も動かすことができず、腰も抜けたのか立ち上がることもできない。
もう助からないことは明白だろう。
彩音は何度目かの覚悟を決めた。
男は此方に向かって歩いてくる。勝利の笑みを浮かべて、余裕綽々と歩いている。彼に最早警戒という言葉は残っていない。血塗れになって倒れ伏す少女に警戒しろという方が難しいのかもしれない。
……だからこそ数発残しておいた。
最後に一矢を報いる為に。
自分自身の仇を取る為に。
「……goodnight。あの世で獅子吼でも説いてもらえクソ悪魔」
彩音は久々に吐いたであろう暴言と共に、男に向けて中指を立てた。腹わたが煮えくり返る程気にくわない男に、死亡宣告をしてやった。
当然、男は負け犬の戯言だと感じてまるで背後を気にしようとはしない。これは彩音にとって大変嬉しい状況だった。
石は亜音速を超え、男目掛けて追撃した。
男は石の接近に気付いたのか、慌てて振り返った。だがもう遅い。数発の内の一弾が男の腹部を貫き、一弾が右肩に刺さった。
「……やった!」
彩音は朦朧とする意識の中、してやったりと清々しい笑みを浮かべた。
だが、何故だろうか。
彩音は自身の腹部に違和感を覚えた。
痛い……というよりかは熱かった。
視線を下げると、二弾の石が彩音の腹部を貫いていた。
「な……んで……!」
反射の向きも力も彩音が操っている。操作ミスなどある筈がない。勿論、自分に飛んでくるなど有り得ない筈だった。
薄れゆく意識の中、彩音の視界が捉えたのはあの黒髪の少年だった。扉付近で隙間光を浴びながら、相変わらず曇った目で此方を見ていた。
また思考を弄られたのだろうか。
また精神を操られたのだろうか。
それはもう、今となってはどうでもよかった。
彩音は静かに目を瞑り、その場に力無く倒れ伏せた。
その際、親や友達の顔が瞼の裏に浮かび、既に乾ききったはずの体から一滴の涙が伝い落ちた。