第一話 お祖母ちゃんの髪飾り事件(8)
反田さんと一緒に家の前までやってきた光也君は、わたしに向かって深々と頭を下げて言いました。
「お姉さん、ごめんなさい」
反田さんが、「そう、それでいい」とうなずいたところを見ると、どうやら、反田さんの指導のようです。
でも、別にわたしに謝ってもらう必要はないのですが……。
そう言うと、光也君は、唇をきゅっと結んで首を横に振りました。
光也君の案内で琴里ちゃんの家に向かう道すがら、反田さんが話してくれました。
「光也はね、自分で、琴里ちゃんに正直に話して謝るって決めたんですよ。どうしてもそうする勇気がなければ、髪飾りだけ、司書子さんが図書館で見つけたことにして司書子さんから返してもらう手もあるぞって逃げ道を示してやったんですけどね。光也は、それを良しとしなかったんです。ちゃんと自分で謝って返すって。な、光也」
顔を上げた光也君は、決然たる表情で、黙ってうなずきました。
「光也、漢の顔になってるじゃないか」と、反田さんは光也君の肩を叩きました。
「しっかり決めろよ」
「うん」
男同士の熱い友情の世界が展開されていて入り込めない感じですが、光也君の覚悟、立派です。眼鏡の向こうのつぶらな瞳に、決然とした色が浮かんでいます。
古い住宅街をしばらく歩いて、角を曲がると、その先に大きなトラックが止まっていて、ちょうど動き出したところでした。狭い道が入り組んだこの辺の住宅街に、あんなに大きなトラックが入ってくるのは珍しいです。案の定、次の角を一度で曲がれず、切り返したりして、苦労している様子です。道幅ぎりぎりで危なっかしく角を曲がって行くトラックの後ろ姿をなんとなく見送りながら行くと、ちょうどトラックがどいた辺りに、垣根に赤い薔薇が咲くお家があって、そこが琴里ちゃんのお家だとのことでした。
……が、光也君が意を決した様子で門柱の呼び鈴を押しても、誰も出て来ません。
「反田さん、どうしよう。いないのかな?」
「もう一度押してみろ」
「うん」
などと話しながら再び呼び鈴を押していると、隣の庭で芝生の手入れをしていたおばさんが顔を上げ、
「高村さんなら、今日でお引越しよ。今さっき、荷物のトラックが、あっちに走っていったけど?」と指さして教えてくれました。
そういえば、さっきのトラックには、よく見かける引越し会社のロゴが入っていました!
「あーっ、あのトラック!!」
反田さんと光也君が同時に叫んで、光也君は、いきなりトラックが去って行ったほうに走り出しました。
気持ちはわかるけど、いくら今行ったばかりだからといって、走るトラックに追いつけるわけがありません。
反田さんは光也君の後ろ姿に向かって叫びました。
「光也、そっちじゃない、こっち! こっち! ついてこい!」
そして、急いでお隣さんにお礼を言うと、
「司書子さんも、こっち! 早く! 走って!」と叫んで、光也君とは反対の方角に走り出しました。
「どうしたんですか、なんでそっち!?」
反田さん、いったいどうしちゃったんでしょう……。
「近道ですよ! あのトラック、とりあえずは確実に花野通りに出るでしょ? 近道して先回りします!」
言われて納得しました。この辺の道路は、古くからの住宅地の常で、一方通行や行き止まりや大型車の通行規制だらけで、歩けばどうということはなくても、車では、しかも大きめのトラックならなおさら、大通りに出るために迂回しなければならない箇所が多いのです。そして、あのトラックの行き先がどこであるにせよ、まず最初はとりあえず花野通りに出るしかないはずで、周辺の細い道から花野通りに出られる箇所は、けっこう限られています。歩行者ならひょいと出られる箇所も、車止めがあって車は通れなかったりしますから。ですから、この辺の地理を詳しく知っているらしい反田さんには、この場所から走り去ったトラックがどこから大通りに出ようとするかが予測できて、そこに最短距離から先回りしようとしているのでしょう。それなら、人間のほうが車より早い可能性もあります。さすが反田さん、なんと冷静な、とっさの判断でしょう!
追いついてきた光也君も、近道と聞いて、ますます必死で走りだし、わたしたちはたちまち追いぬかれました……というか、追いぬかれたのはわたしで、反田さんはわたしを待って足をやや緩めてくれているようです。
「行け、光也、走れ! その先を右、次を左だ!」
反田さんは光也君に指示しながらわたしを振り返りました。
「司書子さん、足、遅いよ!」
「ご、ごめんなさい……」
わたし、自慢じゃないけど、足は、ものすごく遅いのです……。子供の頃、運動会の徒競走で万年ビリだったのが辛い思い出なのですが、大人になってからは走るのが遅くて困ることなど別になくて助かる……と思っていたのに、なぜ、今、いい大人が、こんなところをこんなふうに、男子小学生と一緒になって全力疾走するハメに……?
息を切らせて必死に反田さんを追っていると、反田さんが顔だけ振り向きながら、リレーのバトンを受け取るみたいに後ろ向きに手を伸ばして叫びました。
「手!」
「はっ、はい?」
「手、繋いで!」
言いながら、反田さんが、がっしとわたしの手を掴みました。勢いでよろけたわたしを引っ張るように走り出します。反田さん、足、速い! わたし、転びそうです!
「急げ、司書子さん、がんばれ!」
「は、はいっ!」
なんでこうなるのかわからないけど、とにかく頑張って走るしかありません!
「光也、そこ、そこ! そこ、左に入れ!」
先を行く光也君に声をかけながら、一瞬遅れて、反田さんとわたしも、道というより家と家との隙間としか思えないような細い路地に飛び込み、必死で駆け抜けました。植木鉢に水をやっていたおばあさんが、如雨露を手に、目を丸くして、鼻先をかすめんばかりに駆け抜けるわたしたちを見送っています。おばあさん、失礼します、ごめんなさい……。心の中で侘びながら、子供の頃、学校に遅刻しそうになって、近所の家の庭先を駆け抜けて近道したことを思い出し、なんだか笑いたくなりました。
それからも、あっちに曲がり、こっちを抜けと、反田さんの力強い手にひっぱられて、引きずられるみたいに走りまわりました。すごい勢いで、もう、足が地面についてるのかもわかりません! 心臓が破れそうです! こんなに走ったのは生まれて初めて!
若さで先行していた光也君も、道がわからないので、結局、いつのまにかわたしと並んで走っていました。
やがて、車止めのある細道から、花野通りに出ました。そのまま、車の進行方向とは逆に歩道を走り出します。反田さんが予測しているトラックの合流箇所は、そっちらしいです。片側二車線の花野通りには中央分離帯があり、脇道から出てきた車は、最終的にどちら方面に向かうにせよ、とりあえずは、こちらに向かって走ってくるはずなのです。反田さんは、そこまで地理を読んでいたのですね。
その時、反田さんが道路を指さし、声を上げました!
「ああッ!」
顔を上げると、向こうから走ってきた例のトラックが、目の前を走りすぎたところでした。
反田さんは、靴底が焦げるのではないかという勢いで急停止し、いきなり手を上げて、ちょうどやってきたタクシーを呼び止めました。なるほど! あのトラックを追ってもらうのですね!
「司書子さん、乗って、乗って! 光也も!」
反田さんに座席に押し込まれながら、とっさに運転手さんに叫んでいました。
「あのトラックを追ってください!」
「は?」
ぽかんとする運転手さんに、後から乗り込んだ反田さんが補足しました。
「あの、引越し社のトラックです! すみませんが、お願いします! ただし交通ルール遵守の範囲で!」
反田さん、さすがです! 気がはやっていても、ちゃんと交通ルールにまで気を回すなんて。
運転手さんは、けげんな顔をしながらも、何度か車線変更をして、危なげのない運転で、徐々にトラックの数台後ろまで迫ってくれました。
追いつけるかと思ったところで、国道との交差点にさしかかり、トラックは右折して国道に入っていきました。わたしたちのタクシーも後に続こうとしたところで、運悪く、一つ向こうの信号がちょうど青に変わって、固まってやってきた対向車の列が切れるのを、じりじりしながら待つはめになりました。しかも、対向車の中には、交差点を左折して国道に入っていく車も多く、せっかく詰めたトラックとの間にまた沢山の車が割り込んで、わたしたちは、トラックの後ろ姿を見失ってしまいました。
ウィンカーがカチカチいう無情な音を聞きながら、このままでは信号は変わってしまうとやきもきしているうちに、やっと対向車が途切れ、なんとか信号に間に合って国道に入ります。見失ってしまったトラックが、すぐにまた別の道に曲がってしまっていたりせず、まだこの道をまっすぐ走っていてくれると良いのですが……。
きょろきょろと前方や隣車線を目で探しながら走っていると、いました、引っ越しトラック! 隣の車線に!
タクシーが、車の流れに乗って、左側を走るトラックを追い抜きます。
助手席にいる反田さんと後部座席左側にいる光也君が、トラックに向かって窓から必死で手を振りながら、声を張り上げました。
「琴里ちゃーん!」
「すいません、そこのトラック、ちょっとすいません!」
「琴里ちゃーん!」
「すいませーーん!」
が、トラックの運転手さんは、窓を閉めているのか、気づかないようです。
ああ、どうしましょう……。トラックに追いつけばなんとかなるような気がしていましたが、こんな風に、お互いに走っている車の中にいては、並走していても話なんかできないじゃないですか。まさか道の真中で突然車を止めたり、向こうに止まってもらったりできるわけもないし。こういう時、よくある映画やなんかでは、どうしてましたっけ? 交通ルールを無視? 体当たり? いきなり発砲?
でも、この場合、そういう訳にはいきませんよね……。
今度はわずかに向こうの車線の流れが早くなって、トラックが前に出ていきます。このままでは、声が届かないまま目の前を通りすぎていってしまいます!
トラックの運転手さん、お願い、気づいて……。わたしは両手をぎゅっと握りしめて、心の中で祈りました。