第一話 お祖母ちゃんの髪飾り事件(6)
反田さんと別れ、スノーウィに水と餌をあげて家に入ったわたしは、通勤用のカバンから読みかけの本を取り出し、挟んであった栞を手に取りました。使い込まれた革製の栞です。
この栞は、先生のものでした。
先生が愛用していたそれを、わたしは、こっそり盗んでしまったのです。
卒業を間近に控えたある日、たまたま先生と二人きりで研究室にいて、先生が淹れてくれたコーヒーをごちそうになっていました。ほんのひとときだったけれど偶然のめぐり合わせで得ることができた、もう二度とないかもしれない、切なく幸せな時間でした。先生の研究室は三階にあったので、学生たちの喧騒は遠く、窓の外には冬の終わりの曇り日の淡い夕映えが広がっていて、その儚いオレンジ色の光と芳しいコーヒーの香りに包まれて、まるで世界には先生とわたししかいないような気がしました。
それは本当に短い、偶然のひとときで、一杯のコーヒーを飲み終わる間もなく先生に何かの用事で呼び出しが入り、先生はわたしに、「悪いね、そのコーヒー、ゆっくり飲んでいっていいよ。カップはそのまま置いといてくれれば、僕が後で洗うから」と言い置いて、研究室を出て行きました。その後ろ姿を切なく見送って、ふとテーブルの上を見ると、窓から斜めに差し込む薄日にひっそりと照らされて、先生がいつも使っていた特徴のある栞が、ぽつんと置かれていたのでした。読みかけの本に挟むのを忘れたのか、一冊の本をちょうど読み終わったところだったのか……。
わたしはいつも先生を見ていましたから――先生の姿を、四六時中、目で追っていましたから、栞を見ただけで、先生が、その栞を挟んだ本を読んでいる姿が、目に浮かびました。いろんな場所で、いろんな本を読んでいる、先生の姿。ページをめくる、先生の仕草。その指先の形。記憶に刻むべき、何でもないけど大切な、幸せな、幾つもの場面。
わたしの手は、いつのまにか栞に伸ばされていました。先生が触れていたものに、触れたかった。栞に染み込んだ先生の手の記憶に、先生の体温に触れたかった。そして、それを自分のものにしたかった……。
気がつくと、わたしは、その栞を胸に抱きしめていました。そしてそのまま、早鐘のように打つ胸を押さえて、逃げるように研究室をあとにしました。罪悪感と緊張感がもたらす奇妙な高揚に包まれて、わたしは恍惚としました。あのような恍惚を、後にも先にも、わたしは知りません。
ひとときの恍惚が去ったあと、わたしは、もちろん後悔しました。まだ卒業までしばらくはありましたから、その間に先生に返そうと――テーブルの上に置いたプリントに紛れ込んで間違って持ってきてしまったのだと言い訳しようと、何度も考えました。もう講義はないけれど先生に会う機会はきっとまだある、卒業式までには返そう、もしその機会がなければ卒業式に返そう、それでも返しそびれたら謝恩会場で返そう……そう考えているうちに、あの事故が起こりました。栞は、そのまま、先生の形見になりました。
子供の頃から使っている古い学習机の椅子に座り、栞を胸に抱きしめて、わたしはまた、少し涙ぐみました。ああ、わたしはなんて泣き虫なんでしょう……。反田さんにも驚かれてしまいました……。たぶん呆れられてます……。
でも、ここでなら、わたしは泣いていいのです。外にいるときは、わたしだって、常識のあるちゃんとした社会人、自立した大人の女でいなければいけないけれど、ここでは、この小さな家の中では、引っ込み思案で臆病な泣き虫ショコちゃんのままでいられるのです。のろまで不器用で、ぼんやりと夢ばかり見ている、本当のわたしのままでいてもいいのです。この、小さなわたしの世界の中でだけは……。ね、お祖母ちゃん?
わたしの心の中で、懐かしい祖母の面影が、優しくうなずきました。昔、小さなわたしが泣いていると、泣き止むまで黙って髪を撫でていてくれた、その時の微笑み、そのままに。そうして、懐かしい声が耳に蘇りました。
――蕭子。一番近くを探しなさい――
それは、先日木苺のところで聞いた気がする言葉でした。
わたしは、はっとしました。先日はその言葉を、児童室を探せという意味だとしか思わなかったけれど、ふいに本当の意味に気づいたような気がしたのです。
『一番近く』――それは、自分自身。自分の、心の中。
自分の心の中を探せば、答えはそこにあったのです。
(光也君だわ……!)
唐突に、思い浮かびました。
もうすぐ遠くに引っ越してしまう琴里ちゃんのことが好きだった光也君。好きだと言えずにいじわるばっかりしていた光也君。そんな光也君が、児童室の片隅に落ちていた、琴里ちゃんのトレードマークの髪飾りを見つけたとしたら?
だとしたら、あの日の光也君の、不可解な態度も腑に落ちます。
そして、光也くんは、この一連の出来事の間、探偵助手として――反田さんが一方的に任命したそうなのですが――反田さんの一番近くにいた人でもあります。そういえば、苑明寺に行った時にも、光也君の様子はおかしかったそうなのです。せっかく琴里ちゃんと一緒だったのに、ろくに口もきかずにずっと不貞腐れていたとか。反田さんは、恥ずかしくて話せなかったんだろうと言っていましたが、罪悪感からおかしな態度を取っていたのでは?
びっくりして、涙も引っ込みました。もし、光也君が髪飾りを持っているのなら、早く返させてあげないと!
だって、さっき反田さんが、琴里ちゃんのお引越しは明日だと言っていたのです。光也君は、琴里ちゃんの引越し先を知っているでしょうか? ふたりは同じ御狩原南小学校の三年生で、児童室ではよく顔を合わせていたけれど、たぶんクラスが違うし、男子と女子だから、学校では、あまり接点がなかったのでは? 光也君は児童室でもあんな態度だったんだから、学校で本人やお友達に引越し先の住所を聞くなんてことが、できていたとは思えません。だから、明日までに返さないと、光也君は、きっと、琴里ちゃんに髪飾りを返せないままになってしまいます。そうしたら、琴里ちゃんも可哀想だし、光也君も、きっと、きっと、後悔すると思うのです……。
でも……と、そこまで考えてから、思い当たりました。
もしそうだったとして、どうしたらいいのでしょう? わたしに、何ができるというのでしょう。
わたしは、反田さんと違って光也君の友達でもなんでもなく、ただの図書館員です。光也君にとっては、ただの、『児童室のお姉さん』です。光也君は、あれ以来、少なくともわたしがカウンターにいた日には、一度も児童室に来ていません。だぶん、今日も来ないでしょう。もし今日来ていたとしても、わたしがいません。そして、琴里ちゃんの引越しは明日。だから、琴里ちゃんの引越しの前にわたしが光也君と直接会って話す機会は、もう、ありません。光也君の電話番号は、当然利用者登録してあるのだから館で調べればわかりますが、今日は出勤日じゃないし、そうでなくとも、利用者の電話番号を個人的に調べて勝手に連絡を取るなんて、していいはずがありません。これが琴里ちゃんだったら、落し物が届けられた場合は連絡するからと、あらかじめ本人の許可を取ってあるので、もし髪飾りが見つかったのなら電話できるのですが……。
じゃあ、光也君に髪飾りを返してもらった上で、わたしから『図書館で見つかった』と連絡を入れるのは?
でも、そのためには、そもそも、光也君と連絡を取って、もし持っていたら髪飾りを返してもらう必要があるわけで……。手詰まりです。
しかも、光也君が髪飾りを持っているというのは、単なるわたしの想像で、本当にそうかどうかもわかりません。もし違ったら、何の証拠もなく光也君を疑ったことになってしまいます。光也君の親や友達であれば、確証はなくても本人の為を思って探りを入れてみることができるでしょうが、わたしは、立場上、光也君を問い詰めることができません。
そう、わたし、なんだかこの件に妙に思い入れしてしまっていますが、よくよく考えて見れば、これは、図書館で日頃からよくあるちょっとした落し物、失くし物の一つにすぎなくて、現金やキャッシュカードなどの貴重品ならともかく、子供の髪飾りや玩具くらいなら、職員が偶然見つけたり収得の届出があれば連絡して返却する、出て来なければそれまで……というのが、普通の、正常な対応なのです。それで、何の不足もないはずなのです。むしろ、そこで職員が職分を超えて個人的に奔走するほうが、よっぽどおかしいのです。
でも、それでも……。
わたしは、琴里ちゃんの髪飾りと、光也君のことが気になります。
琴里ちゃんの髪飾りについては、それがお祖母ちゃんに貰ったものだからという理由で。光也君については、かつてのわたしが同じ事をしてしまったから……。
もしもわたしが、光也君にとって、ただの『児童室のお姉さん』ではなく、反田さんのように、歳の差はあるけれど個人的なお友達であったなら……。
……反田さん? そう、反田さんなら、個人的な友情にかけて、光也君に事情を聞いてみることができるのでは?
実は、光也君は、最初はお互いそれと知らずに友達になったけれど、反田さんの草野球仲間の息子さんだったのだそうです。だから、反田さんは、光也君の家も電話番号も知っているのです。
わたしは立場上動けなくて、何もできないけれど、反田さんにわたしの想像を話して、反田さんもそうかもしれないと思ってくれたら、反田さんが、あの行動力と、光也君との個人的な繋がりで、なんとかしてくれるかもしれません。
でも、反田さんも、もう帰ってしまいました。次に会えるのはいつかしら。夕方の犬の散歩では、会えるかしら。
でも、もし夕方反田さんに会えたとしても、それから光也君に連絡をとって、もし光也君が髪飾りを持っていたら返してもらって、それを琴里ちゃんの家に……と考えると、琴里ちゃんの引越しに間に合わないかもしれません。
一瞬、今から走って追いかけたら家に帰る途中の反田さんに追いつけるかしらと思い、柱時計を見ましたが、あれからもう、けっこう時間が経っています。たぶん、反田さんは、もう家に戻っているでしょう。
もう、わたしに打つ手はないのでしょうか……。もともとわたしがでしゃばるようなことではないのですし。
でも、今、何もせずに引き下がってしまったら、わたし、きっと後悔するような気がします。わたしにできるのは反田さんを頼ることだけだけど、せめて、反田さんに連絡を入れて、わたしの想像を話して、二人で相談してみるだけでも……。ここに座ったまま、ただ諦めてしまうのなんて、いくらわたしでも、さすがにヘタレすぎます! ほんの少しだけでも、反田さんの行動力を見習わねば!
反田さんに電話番号を聞いたことはないけれど、反田さんの家はお店屋さんですから、当然、町内版電話帳に電話番号が載っているはずです。たぶん、レシートにだって書いてあるでしょう。もしかすると、祖母が空き缶に貯めていたレシートをひっくり返して探せば、反田洋品店のレシートが、一枚くらい出てくるかもしれません。それよりも、電話帳を調べるほうが速いでしょうが。
普通なら、本人から教えてもらっていない番号に電話するなんて厚かましい気がして気が引けますが、お店屋さんの電話番号なんだから、わたしが知っているからといって変に思ったりはしないでしょう――しないと、思いたいです。
わたしは思い切って立ち上がり、電話台の下から町内版電話帳を引っ張りだして、反田洋品店の電話番号を調べました。




