第一話 お祖母ちゃんの髪飾り事件(4)
次の土曜日は、たまたま非番でした。基本的に平日休みの仕事ですが、交代で月に一度くらいは土日の休みがあるのです。
朝、犬の散歩の途中で、また反田さんと会いました。
出勤日の朝はともかく、休日の朝や夕方の散歩はその日の都合で時間がずれるのに、不思議なことに、そういう時でも、かなりの確率で反田さんと出くわすのです。本当に不思議です。もしかして、何か運命的なご縁でもあるのでしょうか。いえ、わたしと反田さんにそんなものがあるわけはないので、スノーウィと反田さんちのキャンディちゃんが不思議な縁で繋がっているのかも……? スノーウィは雑種でキャンディちゃんはトイプードルだけど、前世で親子や兄弟だったとか?
並んで歩きながら、反田さんは、少年探偵団活動の首尾を報告してくれました。
あの後、反田さんは子供たちを連れて苑明寺に行き、調査と称して境内を探検した後、あらかじめ電話で連絡してあったご住職に、本堂でお話を伺ったとのこと。
住職さんのお話によると、御狩原小学校の子供たちの間で噂になっている妖怪『かんざしババア』は、実は、苑明寺に伝わる悲しい物語が元になっているのだそうです。
それは、こんなお話だそうです。
昔、とある屋敷で女中をしている千代という娘がいた。千代は両親を無くして天涯孤独の身であったが、器量良しな上に気立ても良く、働き者で、新参者ながら、その家の主人からも奥方からも可愛がられていた。そんな千代に、出入りの商人の使用人、嘉七が懸想したが、嘉七は、金も身分もなく容姿にも恵まれない自分のようなものは千代に相手にされないだろうと、想いを告げられずにいた。そうするうちに募った想いが、やがて妄執となり、妄執のあまり正気を失った嘉七は、出来心で、主人に可愛がられる千代を妬む女中仲間の一人に金を渡して奥方が大切にしているかんざしを盗み出させ、千代が失くしたのだと罪を着せさせた。それによってもしも千代がその家を追い出されるようなことがあれば、身寄りのない千代は路頭に迷うから、そこに自分が手を差し伸べれば千代を手中にできるかもしれない、そうでなくても、千代が困っているところに『落ちていたのを見つけた』とかんざしを渡せば千代に恩を売ることができるだろう、と、そう考えたのだった。が、千代を憎む女中が、千代はかんざしを失くしたのではなく盗んだのではないかと奥方に吹き込んだために、奥方は、可愛がってやった千代が恩知らずにも裏切ったかと激怒し、潔白を訴える千代の言葉を信じず、「もし盗っていないというのなら、探してこい、見つかるまで帰ってくるな」と、寒い雪の夜に、千代を家から追い出した。千代を憎む女中は、そのことをあえて嘉七に知らせなかった。千代は雪の中、かんざしをあてもなく探しまわるうち、御狩川に架かる花野橋の上で足を滑らせて、川に落ちて死んでしまった。
それ以来、かんざしを挿した女性が花野橋を通ると、背後から「かんざしを寄越せ」という声が聞こえ、振り返っても誰もいないという怪異が相次ぐようになった。恐れて逃げ出すと背後を足音が追いかけてきて、家に駆け込めば足音は止むが、翌朝には、かんざしが忽然と消えているという。それを知った屋敷の使用人の一人が、それは千代の怨霊ではないかと周囲に漏らし、その噂はたちまち町に広まった。自分のしでかしたことの結末を知らずにいた嘉七は、この噂によって千代の死を知り、正気に戻って後悔し、花野橋のたもとの苑明寺を訪れて住職に己の所業を懺悔し、そのまま出家して、千代の菩提を弔うことに一生を捧げた。苑明寺の住職から事情を知らされた奥方は、大変後悔して涙を流し、千代を丁重に供養してくれと、苑明寺に多大な寄進をした。苑明寺は千代のために立派な墓を建て、今でも毎年、その命日に法要を行なっている。
えーっと、番長皿屋敷の類話でしょうか。
それにしても、可哀想なお話ですね。奥様も女中仲間もひどいですが、一番とんでもないのは嘉七です! だって、そのお千代さんが、好きだったわけでしょう? なのに、その好きな相手をわざと苦境に立たせるようなことをするなんて。普通、相手が好きだったら、相手の幸せを願うものではないのですか? それを、自分に有利な状況を用意するためだけに相手に濡れ衣を着せて窮地に立たせて平気な顔で、後から助けに出ていって恩を売ろうなんていう姑息な策略を巡らすなんて。利己的にも程があります。しかも、そもそも、当のお千代さんに、好きだと言ってもいなかったんでしょう? ちょっとくらい顔が悪くたって、お金持ちじゃなくたって、気立ての良い娘だったというお千代さんが、男性を顔やお金だけで選ぶとは限らないじゃないですか。勝手に相手にされないなんて決めつけないで、当たって砕けてみればよかったのに、その勇気がなかっただけじゃないですか? 身勝手で卑劣です!
……というような感想を歩きながら反田さんにお話ししたら、反田さんは、
「そ、そうですね……」と、苦笑しました。
「そりゃまあそうですが、当たって砕けてみる覚悟は、なかなかできないものですよ。特に玉砕が目に見えてる場合は……。嘉七はたしかに非道いやつだけど、俺は、嘉七がお千代さんに告白できなかった気持ちだけは、ちょっとわかりますね。金持ちでもなければ顔も特に良くない冴えない男がですね、見るからに高嶺の花な感じの清楚で可憐な美人さんにね、いきなり交際を申し込む勇気は、そりゃあ、なかなか出ないですよねぇ」
横目でこちらを見ながら、やけにしみじみとそんなことを言う反田さんに、わたしは少しびっくりしました。
「まあ。反田さんみたいに社交的で積極的で行動力のある方でも、そうなんですか……?」
「そりゃそうですよ。俺をなんだと思ってるんです。そういう司書子さんは、好きになった人には必ず、百パーセント、告白できるんですか?」
「そ、それは……」
わたしは、つい口ごもりました。
わたし、好きになった人に、告白したことがありません。今までの人生で、ただの一度も。
なぜなら、わたしが今までたった一人、本当に好きになった男の人には、すでに奥様がいたからです。
その人は、大学の先生でした。わたしの、ゼミの担当教授です。とても、とても年上の――まだ二十歳そこそこだった当時のわたしから見ればもうお爺ちゃんと言っていいくらいの年の人でしたが、わたしは、先生を、本当に、本当に好きでした。少し猫背の、背の高い後ろ姿も、癖のある歩き方も、灰色混じりの髪に時々寝癖がついているのも、眼鏡の奥の優しい目も、常に傍らに置いたコーヒーのカップを持ち上げる仕草も、ご自分の学問について語る時の少年のような眼差しも、ときおり見せるはにかんだ表情も、わたしに話しかける時の、ときどき少し困ったようになる声の調子も……。
毎日、毎日、先生だけを見ていました。先生のことばかり考えていました。先生が、わたしの世界の中心でした。先生さえいれば、その姿を見て、声を聞いてさえいられれば、他にはなんにもいらないと、本当に思っていました。たとえ先生が、わたしを振り向いてくれなくても。
そもそも、振り向いてほしいなんて、思ったこともなかったのです。
わたしの好きな先生は、奥様を裏切って悲しませるような人ではないのです。そういう先生を――奥様を悲しませたりしない先生をこそ、わたしは好きだったのです。
先生は、あまり学生にご家庭の話をなさるほうではありませんでしたが、それでも、先生が奥様を愛していらっしゃることは、ちょっとした言葉の端々に、うかがえました。先生が、ごく稀にちらりと奥様のことを話題にする時の、少し照れたような表情や、照れ隠しにわざとぞんざいを気取ったような口ぶりが、わたしは好きでした。
何かの時に、女子学生たちの間で恋愛談義が始まったことがあります。みんなまだ若くて未熟で夢見がちで、そのくせ自分はすでに年老いて疲れはてていると思い込んでいたりして、今思えば赤面ものの生意気さでしたが、おそらく、先生の目には、それもまた微笑ましく映っていたことでしょう。先生は、黙ってにこにこと、教え子たちの議論を聞いておられました。そんな中で、誰かが、『恋は叶ってしまったら終わるのだ』と言い出しました。恋とは手の届かない何かに焦がれる衝動なのだ、だから本質的に自己完結的なものであって、自分の裡なるときめきがすべてであり、実は相手とは関係がないのである、だから究極の恋は片想いであり、片想いこそが恋の真髄なのである、と。わたしも含めて、多くの学生が、深くうなずきました。その時、先生が、初めて口を開いて、おだやかな微笑を浮かべ、言いました。
「そうですね。たしかに、叶ってしまったら恋は終わるのかもしれないけれど、でもね、そうやって終わった恋は、失われるのではなく、愛に変わるんですよ」
夢見る女子学生たちは、普段は朴訥な年配の教授が突然そんなロマンチックなことを言ったのが面白く、楽しくて、大喜びできゃーきゃーと騒ぎたて、小生意気に先生をひやかしたりしました。やたら盛り上がられて「しまったなあ」と照れ笑いする先生をひそかに見つめながら、わたしも一緒になって笑うふりをしていましたが、(ああ、先生は今、奥様のことを思い浮かべたんだな)と思ったら、小さく胸が痛みました。
一度だけ、奥様にお会いしたことがあります。先生がゼミの学生をご自宅に招いてくださって、みんなで奥様の手料理をごちそうになったのです。奥様は同席はせず、最初にご挨拶をしたのと、後はお料理を運んでくださっただけでしたが――もちろん、わたしたちもみんなで手伝いました――、齢を重ねてなお身奇麗な、とてもお優しそうな方でした。わたしも年を取った時に、あんなふうになっていたいと思えるような……。
奥様の手料理は、それは美味しく、ご家族の思い出の写真を何枚も飾ったご自宅は、決して豪邸などではないけれど暖かく整って居心地が良さそうで、先生がさりげなく奥様を労る様子はとっても自然で……後でみんなして、いつかあんな夫婦になりたいね、素敵だね、憧れるね、と話したものでした。
あの幸せを、あの愛を、わたしのために壊して欲しいなんて、思えるはずがありません!
先生は、おそらく、わたしの気持ちに気づいておられたと思います。なぜなら、先生は、ことあるごとにわたしに向かって「若いんだから、いろんな男性と健全なお付き合いをして見る目を養いなさい」というようなことをおっしゃっていましたから。先生は、普段、学生たちの私生活や恋愛に口を出すような人ではなくて、先生がそんなことを言うのは、たぶんわたしに対してだけでした。だから、きっと、わたしの気持ちを知っていたからこそ、わたしを案じ、わたしのためを思って言ってくれていたのでしょう。そのたびにわたしは心の中で、(他の男の人なんてどうでもいい、わたしには先生だけでいい)と思ったものですが、そんな気持ちも先生はきっとご存知で、でも、応える気がないから、わたしを傷つけぬよう、何も気づかないふりをしていてくださったのだと思います。奥様への愛はもちろん、教授と学生という立場のせいもあったでしょう。
だから、先生に告白しようなんて、一度も本気で考えはしませんでした。
自分が先生に思いを告げる場面を、そして先生がそれに応えてくださる姿を、夢に見たことがないとは言いません。先生が間近に微笑みかけてくれる瞬間を、そっと手を伸ばしてわたしの髪に触れてくれる仕草を、夢想したことがないとは言いません。けれど、そういう妄想と、実際に告白しようと思うことには、厳然たる隔たりがあります。妄想は何も壊さないけれど、実際の告白は、もしかしたら先生の人生を壊し、そうでなければ、わたしの恋を壊してしまうから。片想いしているだけで幸せだった、先生の姿を目で追っていられるだけで息が詰まるほど幸せだった、その幸せを、壊してしまうから――。
思い出すと、今でも胸が痛み、わたしは目を伏せました。