第二話 ジギタリス殺犬未遂事件(9)
夕方、反田さんが、また来て下さいました。なぜか金属バットを持っています。もしかして今から野球の練習を……?
わたしが目を丸くしていると、反田さんは得意気にバットを持ち上げ、
「結局、武器は使い慣れたものが一番だと思いまして」と言いました。「ストーカー野郎が出たら、これで撃退しますから!」
武器なんですか……。そういえば、わたし、ストーカーのことなんか、もう忘れかけていました。
「ヒョロっヒョロで生っ白くて口が臭くて短足でガニ股の、ひ弱なモヤシ野郎なんかに負けませんからね!」
なんだか、また、ろくでもない設定が増えてますね。架空のストーカーさんが、だんだん、ちょっと気の毒になってきました……。
夏だから明るいけれど六時を過ぎているからと、反田さんは、お友達が帰った後も一人だけ残ってくれていた光也君を家まで送ることにしました。小学生は夕方のチャイムが鳴ったら一人で外を歩いてはいけないのだと言って。
反田さん、商店会の関係でPTAや子供会とも繋がりがあるからでしょうか、そういうところは妙にきちんとしているのです。だから子供たちの親御さんも、反田さんには安心して我が子を託すのですね。
でも、光也君を家まで送るのに、バットを持って歩く必要はなかったんじゃないかと思うんです……。
お買い物の主婦が行き交う夕方の街を、金属バットを持った反田さんとわたしと光也君が、連れ立って歩きます。なんだか、変なふうに目立っている気がします。主に、反田さんの金属バットが……。
すれ違う人が、時々、不思議そうに反田さんのバットを見ていきます。
反田さんもその視線を感じたのか、
「ユニフォーム着てくればよかったかなあ……」と呟きました。「そうすればバット持ってても違和感なかったよなあ……」と。
いえ、それはそれで目立っていたと思います……。
光也君を家まで送り届け、帰りに動物病院に寄って、スノーウィを引き取りました。スノーウィは、わたしたちの姿を見ると、大喜びで尻尾を振って診察室から飛び出してきました。屈みこんで、思わず抱きしめました。行きは反田さんに抱えられて行ったスノーウィですが、帰りは自分の足で歩けます。元気になって、本当によかった。
結局、あれがジギタリスのせいだったのかどうかは、先生は明言してくれませんでした。もしかすると血液検査でもすればわかるのかもしれないけど、もう元気になったのだし、そこまでする必要はないでしょう。スノーウィが元気になりさえすれば、それでいいです。用もないのに注射をするのは可哀想ですし。
家に戻った頃には、そろそろ薄暗くなりかけていました。家の前まで来て、反田さんが道の真中で急に足を止め、こちらを振り向いて唇に人差し指を当ててみせ、それから、その指で、今度はそっと玄関を指さします。
自動点灯の門灯に照らされた玄関前に、小柄な人影が。
あら、誰かお客さんでしょうか。せっかく来たのに、留守だと思って、諦めて引き返してしまいそう。早く行って、声をかけなければ……と、思ったら、反田さんがわたしの腕を掴んで、電柱の後ろに引っ張り込みました。いったい何だと言うのでしょう。
反田さんは、背を屈めて、電柱に立てかけてある看板に隠れ、うちのほうを覗きます。まるで怪しいストーカーみたい。自分の家なのに、わたしたち、何をしているんでしょう……。わたしと反田さんは、一応、看板の後ろに少しだけ隠れているけれど、『一応隠れているつもり』なポーズをとっているだけで実際にはほとんど隠れてないし、足元のスノーウィはもちろん隠れる気もなくて丸見えですし、通りかかる人がいたら、絶対、変に思われます。恥ずかしい……。
反田さんが一生懸命、口元に人差し指を立てて「シーッ」という仕草をするので、一応、声を潜めて言いました。
「反田さん、何してるんですか?」
「シッ! 静かに! 例のストーカーかもしれないじゃないですか」
「えっ……?」
そんなバカな……。ストーカーが、堂々と正面から訪ねて来たりするでしょうか。
人影は、チャイムを押しても反応がないので、小さく首を傾げて、もう一度、チャイムを押しています。
「ただのお客さんだと思いますが……。ストーカーって、こういうふうに影に隠れてこっそり覗いたりするんじゃないですか?」
「今まではこっそりストーキングしてたけど、今日から方針転換したのかもしれないじゃないですか。朝、毒草を投げ込んだんだから。今日から実力行使に出る決心をしたのかも。だとしたら、よけい危険です」
「でも、あれ……女の人ですよ? しかも、たぶん、おばあさんです」
そう、玄関の人影は、どう見ても、少しお背中が曲がった小さなおばあさんの後ろ姿に見えます。
「変装してるのかもしれないでしょう。それに、ストーカーは男しかいないわけじゃありませんよ。女のストーカーだって、年寄りのストーカーだっているかもしれないじゃないですか」
反田さん、ご自分で、ストーカーは若い男性だって決めつけてませんでしたっけ。
反田さんは、ぐっとバットを握り直しました。
「よしっ! 先制攻撃だ!」
「えっ!?」
「司書子さんは隠れてて!」
そう言うと、反田さんは、金属バットを握りしめたまま、看板の陰からするすると出ていきました。足音を忍ばせて、素早く、すべるような動きです。何か、只者じゃない感じ。そういえば、このあいだの野球の試合で盗塁した時、こんな動きでした。盗塁が得意で『ホワイトラビッツの盗塁王』と呼ばれているのだと、とっても自慢してましたが、たしかに……。野球の試合では、調子に乗って続けて盗塁して、『ホームスチール』というのをしようとして、結局アウトになってましたが。
反田さんは音を立てずにそっと木戸を開け、するりと庭に入り込むと、やたらなめらかな動きで、塀際の物置の陰に、ふっと身を潜めました。
なんだか、身のこなしが素人離れしてるんですけど……。よく、映画とかドラマとかで、刑事さんとかが、拳銃を上に向けて持って物陰伝いに移動したりしますよね。ああいう動きです。刑事ドラマとかをよく見てると、自然にああいう動きが身につくんでしょうか。それとも、子供の頃に、さんざん刑事ごっこをやってたとか?
反田さんが、物置の陰で、人影を伺いながら金属バットを構えます。
いけない、感心して眺めてる場合じゃありませんでした! 反田さん、やめて! そんなお年寄りをいきなり金属バットで殴るなんて! とんでもない!
わたしは慌てて反田さんに追いすがり、バットを振り上げた腕にしがみつきました。反田さんの腕は太くて、両手でないと掴みきれません。
「反田さん、止めて下さい!」
「うわっ、ちょっと! 司書子さんは下がってて!」
「ダメです、相手はお年寄りです!」
そう、やっぱり、そこにいたのは、どう見ても、小さなおばあさんなのでした。
だいたい、いくら足音を忍ばせ、声をひそめていても、すぐ脇の物置の陰でわたしたちが言い合いをしているのにまだ気がつかないなんて、やっぱり、耳の遠いお年寄りに違いありません。
「いきなり殴りゃしませんって! 万一偽装だった時の用心ですから!」
「だって、おばあさん、びっくりして腰抜かしちゃいます!」
声をひそめて言い合いながら、わたしの手を振り解こうとする反田さんともみ合っていると、さすがのおばあさんも気がついたようです。
おばあさんが振り向くのと、金属バットを両手で振り上げた反田さんが物置の陰から飛び出すのが、同時でした。
自分に振り下ろされようとするバットを見上げるおばあさんと、バットを構えた反田さんが、向かい合って固まりました。
目を丸くしたおばあさんの視線が、バットから腕を伝って反田さんの顔に移ります。そして、視線はもう一度バットへ、それからまた、反田さんの顔へ……。
しばし無言で見つめ合う、反田さんとおばあさん。ふっくらまあるい、可愛らしいおばあさんです。
「あ、あのっ、すみません、この人、草野球の選手で、今、ちょっと、バットを振る練習をしようって……!」
反田さんが硬直しているので、しかたなくわたしが横から言い訳しました。振り上げたままの反田さんの腕を両手で掴んで――というか、ほとんど腕にぶら下がるような状態で、力いっぱいひっぱり下ろそうとしながら。でも、反田さんの腕、びくともしないんですけど……。
やっと我に返った反田さんは、バットを下ろすと、大慌てで謝りました。
「すいません、すいません! 素振りをしようと思いまして! 人がいると思わなくて! ただの前方不注意で!」
その言い訳は、いくらなんでも不自然です……。まあ、わたしも人のこと言えませんけど。
「まあ……まあ……」と、おばあさん。「いえ……いえ……」
反田さんの顔と金属バットを不思議そうに何度も見比べながら。
それから、ふっと破顔しました。
「あらぁ……誰かと思ったら。反田洋品店の息子さんね?」
「はっ、はい!」
ぴしっと姿勢を正す反田さん。
おばあさんも居住まいを正して、上品に頭を下げました。
「夜分に恐れ入ります。わたし、木原洋菓子店の正造の祖母です。孫がいつもお世話になっております」




