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第一話 お祖母ちゃんの髪飾り事件(12)

 せっかくわざわざ寄っていただいたので、反田さんに、縁側でお茶をお出ししました。わたしは一応、一人暮らしの女性ですので、けじめとして身内以外の男性をやたらと家に上げるわけにはいきませんが、通りから丸見えの縁側は半ば公共スペースなのでオーケーなのです。祖母も、この縁側で、ご近所さんから通りすがりのセールスマンまで、いろんな人に気軽にお茶をお出ししていました。そういえば、祖母が亡くなってから、縁側に人をお招きすることも、すっかり途絶えていましたが……。

 反田さんと並んで縁側の端に腰掛け、お庭を見ながらお茶を飲んでいると、なんだか不思議な気がしました。まるで、ずっと昔からのお知り合で、今まで何度もこうしてお茶にお招きしてきたみたい。祖母も交えて、こうしてお茶を飲んだことが何度もあると、錯覚しそうになるくらいです。実際に昔からのご近所さんだったとはいえ、それを知らなかったわたしにとっては単なる図書館の利用者の一人でしかなかった反田さんと、こんなふうに親しくお話することになるなんて、ちょっと前まで、全く思ってもみなかったのに。


 反田さんは、嬉しそうにあたりを見回して、両手を上げて伸びをしました。

「ああ、いいなあ……。何か懐かしい感じのお庭ですよねえ。派手じゃないけど、和むというか、ほっとするというか、ね。いつまでものんびりしていたくなりますね。なんか、この中だけ時間の流れが違いそうな。いつも垣根越しに眺めてて、良いお庭だなあ、一度ゆっくり見学させていただきたいなあ、なんて思ってたんですよ」

「そんな……。人様にお見せするほどの庭では。祖母が丹精していた庭ですけど、今は雑草だらけで、お恥ずかしいです。祖母の生前は、もっとちゃんと手入れしてたんですけど、わたし一人では、どうしても手が回りきらなくて……」

 四季折々の花木や宿根草、蕗や茗荷、様々な薬草やハーブ、梅や木苺やブルーベリーなどの果樹の数々が自然な趣で配置されたこの庭は、長年司書として務め上げた大学図書館をすでに定年退職していた祖母が、毎日、丹精込めて手入れをしていたのです。それを草だらけにしては天国の祖母が嘆くと思い、わたしも一生懸命草取りはしていますが、この季節、草は、取っても取っても、あっと言う間にまた生えてきます。ほんの小さな庭とはいえ、働きながら一人で手入れしているのでは、とても追いつきません。わたしだって祖母が生きていた頃のままの庭を守っていきたいと思っているので、悲しいことですが……。

 いけない、また涙ぐみそうになりました。

 本当に涙が出てしまう前に、我慢して涙を押し戻したつもりだったのですが、ちょっと目が潤んだこと、反田さんに目ざとく気づかれてしまったみたいです。

「わわ、ちょっと司書子さん、雑草が生えたくらいで泣くことないですよぉ!」と、反田さんが笑いました。「そりゃあ仕方がありませんよ、司書子さん、お仕事してるんだから。そんなに毎日毎日、草取りばっかりしてるヒマもないでしょ?」

 反田さんが実に気楽な感じでおおらかに笑い飛ばしてくれたので、なんだか少し心が軽くなりました。別に雑草が生えたから泣いたのではなく、何もかも祖母が生きていた頃のままにしておきたいのにそうできていないことが悲しかったのですが、それも、そう、仕方のないことですよね……。

 自分の泣き虫が恥ずかしくて、たぶん少し赤くなりながら、ハンカチで涙を拭って、なんとか微笑みました。

「すみません、泣き虫で……」

「いえいえ。別に」

 反田さんは、いかにもどうってことなさそうに、にこにこしています。そんなふうにさらっと流してくれると、わたしがすごく気にしている泣き虫という欠点も、まるで庭の雑草程度のささいなことみたいに思えてきます。大人のくせにこんなに泣き虫だっていうことを身内や親しい友人以外に知られたら、きっとものすごく呆れられたりバカにされるだろうと恐れていたのに……。反田さんは、不思議な人です。

「それにしても、こうして司書子さんのお宅にお邪魔しているなんて、何か不思議だなあ……」と、反田さんがしみじみ言いました。「ちょっと前まで、ただの、図書館員と利用者だったのにね」

「あ、それ、わたしも今、同じことを思ってました。なんだか不思議だなって」

「気が合いますね」

「はい」

 わたしたちは顔を見合わせて笑いました。

 それから、反田さんが、急にちょっと改まって言いました。

「あのね、俺が最近、また本を読むようになったのは、実は司書子さんのおかげなんですよ」

「え?」

「司書子さん、憶えてます? 俺、前に、図書館で司書子さんに調べ物を手伝ってもらったことがあるでしょう」

「……そうでしたっけ?」

「ああ、やっぱり忘れられてた。そんなことだろうと思ってましたけどね」

 反田さんは苦笑いしました。

「すみません……」

 わたし、人の顔を憶えるのが、とても苦手なのです。反田さんのことは、いつも探偵小説ばかり借りる人として顔を見憶えていましたが、そうなる前に、何かレファレンスを受けたことがあったのでしょうか。憶えていなくて心苦しいです。

「あ、いや、別にいいんですよ、司書子さんはお仕事で毎日いろんな人に本の場所を聞かれたり、レファレンス・サービスっていうんですか? いろいろ質問受け付けたりしてるんだから。だから俺も、利用者の一人としてそれをしてもらっただけで、別に特別扱いしてもらったわけじゃないのはわかってます。ちょっと何か聞かれた人全員のことをいちいち憶えてなくても、しょうがないですよね。でもね、俺は、それがすごーく嬉しかったんですよ」

「はあ……」

「俺、さっき言ったように、子供の頃は本が好きだったけど、大人になってからは、たまに長い時間電車に乗る時にキオスクで『ナントカ何号殺人事件』みたいなやつを買って時間つぶしに読むくらいでね。自分は本が好きだったってことも忘れかけてて。図書館も、近くにあるのは知ってたけど、特に行こうと思ったこともなかったんです。図書館に行くことなんて、全く思いつかなかったんですよね。それが、三年前だっけな、町内会の関係で法律とか条例を調べる必要が出まして。で、必要に迫られて、図書館に行ったんですよ。でも、何をどう調べればいいのか、まったくわからなくて。その時に親切に案内してくれたのが、司書子さんです」


 ああ! 思い出しました! 反田さんのお顔は憶えていなかったけれど、そのレファレンスの件なら憶えています。

 住民団体関係の法律だの条例だのについて聞かれても、わたし、そんなこと何も知りません。公務員試験を受ける時に基本的な法律も多少勉強したはずですが、そんなの、もう忘れているし。ただ、図書館員として、そういう関係の本がどの分類に当たるか、その分類が自分の図書館では書架のどの辺にあるかだけは知っています。あらゆる分野のレファレンスに対応すべき図書館員といっても、一人の人間があらゆる分野についての高度な専門知識を持つことは不可能ですから、必要なのは、専門知識そのものではなく、それを知るためにはどこを調べればいいかを知ってること、自分の館のどこにどんなことについて書かれた資料があるかを、なるべく数多く把握していることです。それには、たゆまぬ勉強に加えて、一つの館に長く勤めて選書に携わり続けることが有効なのですが、未熟者のわたしには、まだまだ勉強と経験の両方が足りません。

 だから、わたしにできたことは、反田さんを書架にご案内して、知りたいことは何なのかというお話をじっくり伺いながら、そういうことが載っていそうな本をタイトルを頼りにあれこれ開いては該当箇所を探すことだけでした。わたしが反田さんのために何かを調べたというより、ふたりで相談しながら一緒に調べ物をしただけ、反田さんの調べ物を、微力を尽くしてせいいっぱいお手伝しただけなのです。未熟ゆえにたいしてお役にも立てず、お恥ずかしい限りなのですが……。


 そう言うと、反田さんは、いやいや、と、かぶりを振りました。

「俺はそれが嬉しかったんですよ。司書子さんが、俺と一緒になって、俺の調べ物に一生懸命になってくれたってことが。俺、図書館で職員の人に何か聞くのなんて初めてでしたからね。それくらい自分で探せばいいのにって迷惑そうな顔されるかもとか、無知丸出しで呆れられるかもとかって、ちょっと不安なわけですよ。でも、司書子さんは、俺は自分が何を探したいかもうまく説明できなくて要領を得なかったのに、ちっとも迷惑そうな顔なんかしないで笑顔で対応してくれて、すごい親身に話を聞いてくれて、忙しい時間を割いて一緒に一生懸命、本を探してくれてね。いや、もちろん、それが司書子さんのお仕事だっていうのはわかってますよ。俺だけじゃなく、誰にでもそうするんだってことはね。だからこそ、感激したんですよ。図書館って、便利な、良いところなんだなあって。こんなふうに誰でも親切に調べ物を手伝ってもらえるところだったんだって。しかも、通りすがりに棚を見たら、面白そうな小説本もいっぱいあるじゃないですか。俺、なんとなく、図書館にはもっとお堅い本しかないと思い込んでたんだけど、あんがい、柔らかい本もあるんですね。で、それを見て、そういえば子供の頃は本が好きだったっけなあと思い出して、次は何か軽い読み物でも借りに来てみようかなあ、と。その結果、子供の頃から好きだった探偵ものに、もう一度、どっぷりハマりまして。だから、俺が読書の楽しみを思い出せたのは、司書子さんがあの時、親切に対応してくれたおかげなんです」

 なんて嬉しいお言葉でしょう。図書館員冥利に尽きます。

 わたしにとって、あの一件は、決して完全に上手くいった事例ではなかったのです。結果的に反田さんの調べ物の用は済みましたが、あれは、わたしにちゃんと力があれば、あんなに時間がかかるような事ではなかったはずで、ただ、わたしが未熟で要領が悪かった故に、ほんの簡単な問い合わせに、本来必要な以上の時間をかけてしまったのです。わたしの及ばなさのために、一人の利用者の調べ物に無駄な時間がかかってしまい、その利用者の方にも余分なお時間を取らせた上に、その間、他の利用者へのサービスの機会をロスしてしまったという、反省すべき事例だったのです。

 わたし、いつもそうなのです。要領が悪いせいで、一人一人の利用者の方のお役に立ちたいという気持ちの強さが裏目に出て、レファレンスでも何でも、一つ一つに必要以上の時間をかけ過ぎ、その結果、同僚にしわ寄せをしてしまったり、他の利用者の方を気づかぬうちに疎かにしてしまっていたり……。そもそも、日ごろから、一つのことに夢中になると他のことが見えなくなる悪いクセがあって、それでこの間も、カウンターを放り出して髪飾りを探していて注意されたばかりです。

 けれど、だからこそ、その時の利用者である反田さんが、それを、丁寧な対応だったと、役に立った、嬉しかった、満足したと言ってくださると、とても救われる気がします。少なくとも一人の利用者の方は確実に喜んでくれたのだと、自分はお役に立てたのだと実感できるのは、とても貴重な、嬉しい経験です。

 わたし、感激しました。つい今さっき、自分に図書館員として適性が足りないことをあれこれ考えた直後ですから、なおさらです。さっきは雑草の件で悲しくて泣きそうになりましたけど、今は、感激で目が潤みそうです。

 とても嬉しかったのですが、胸がいっぱいすぎて、

「まあ……」としか言えませんでした。

 すると、

「そうそう、それですよ」と、反田さんが目を細めました。「その、まあ、っていうのが、また良くってねぇ」

「えっ?」

「司書子さん、よく言うじゃないですか。あの時も、言ったんです」

「そ、そうですか?」

 言われてみれば、そうかもです……。

「俺、リアルで『まあ』なんていう女性に初めて会いましたよ。いや、お年寄りならいるのかもしれないけど、若い女性では」

 たしかに、若い人ではあんまりいないかもです……。

 わたし、年寄りっ子なので、どうやら、しゃべり方がいろいろと古臭いらしいのです。『まあ』の件だけでなく、『わ』とか『わよ』などのいわゆる女言葉の語尾とか、キッチンのことを『台所』、ベストのことを『チョッキ』などと昔風の言い方をしてしまうとか、これは本の読みすぎの影響もあると思いますが『造作もない』といったような古めかしい言い回しを普通に使ってしまうとか……。

 子供の頃は、それでよく笑われたり、からかわれたりして、ただでさえ人見知りなのに、ますます人前で話すのが苦手になったりしました。たしかに、同年代の女の子はみんな男の子と同じようなしゃべり方をしていましたから、うっかりすると祖母から伝染った女言葉が出てしまうわたしは、ちょっと変に見えたでしょう。だからわたし、いつの頃からか、誰にでも『ですます』調の丁寧語で話すようになりました。『ですます』調なら、女言葉の語尾が隠しやすいので。でも、それはそれで、友達相手に丁寧すぎるとか、『お上品』だ、堅苦しいなどと、やっぱり笑われました。笑うと言っても、友人たちに悪意があったわけではなく、みな、『それが蕭子らしい』とか『可愛い』とか、好意的に言ってくれたのですが、それでもやはり、たまにうっかり古臭い言い回しをしてしまった時など、きまりが悪かったです。

 社会に出てからは、地の言葉遣いが丁寧であることは、仕事中についうっかり地が出ても失敗しにくいためにむしろ大きな強みとなりましたが、それでも、言葉遣いについては、いまだにちょっと、学生時代の劣等感が残っています。反田さんは、『それが良い』とおっしゃってくださいましたが、学生時代の友人と同じく、『自分たちは友達だから、それが蕭子らしくて可愛いと好意的に捉えてあげられるけど、一般的な基準ではやっぱり変だ』というように思っているのではないでしょうか……。

 ひさびさに言葉遣いを指摘されて、つい、昔の劣等感が浮上してしまいました。

「変ですか……?」

「いやあ、そういうんじゃなくて、良いなあと思って。古風で上品で、可愛らしいじゃないですか。あの時、司書子さんが何かの拍子に『まあ』って言って、その瞬間、俺、胸がこう、キュンとしまして」

 反田さんは、おどけた様子で自分の左胸を押えて見せました。

「まあ……」

 いやだ、うっかり、また言ってしまいました。本当に口癖みたいです。恥ずかしくて、口を抑えて真っ赤になってしまいました。

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