夜空に浮かぶ光彩(1)
父さん、母さん、エレリアへ
いつも優しく接してくれて、ありがとう。
本当に言葉で感謝を表しきれないくらいの想いでいっぱいです。
特に父さんにはお菓子作りについてたくさん教えてもらった。それがあったから、今のあたしがいると思う。
だからこそ、この前の大会で自分のミスで結果が出せなくて、ごめんなさい。
“アフェール”の看板に傷を付けるような行為をしてしまって、本当にごめんなさい。
実は昨晩、久々にお菓子を作ろうと思ったら、全部失敗してしまいました。怪我をしたのは左腕だけなのに、変なことに右手も震えるんだ。繊細な技術も要求されるお菓子作りは、もうできないかもしれない。
せっかく忙しいときに大会に出させてもらったのに、菓子が作れない状態になって戻ってくるなんて、自己管理がなっていないね。
そしてあの男によって、店にまで迷惑をかけてごめんなさい。
あの男の狙いはあたし。
あたしが“アフェール”から離れて、劇的に何かが変わるとは思えないけど、いるよりはいない方がいいんじゃないかって思う。
万が一また来たら、ここから消えたって言ってください。そうすれば追跡の目がこっちだけに向けられるかもしれないから。
たくさん迷惑をかけて、ごめんなさい。
同時に家を黙って離れることを許してください。
いつになるかはわからないけど、落ち着いたら、戻ってはこようとは思っています。
さようなら。
クレイア・イーズナル
* * *
卵や水、薄力粉などを入れたボールが突然音をたてて、床にぶちまけられた。
「どうして……!」
両手を広げれば、男に刺されて怪我を負った左だけでなく右手まで震えている。これではまともに手が使えない。繊細さを求められる仕上げの時となれば、こんな状態では満足のいく行為ができるはずがない。
夜も更けゆく時間帯に、クレイアは奥歯を噛みしめながら、作業場の端でうずくまっていた。今日は新月に近い状態であったため、光源は店にあるランプのみだ。
「菓子作りまでできなくなったら、あたしにいったい何が残るの!」
一人で座り込んでいると、店内から外へ続くドアがガタガタと音を鳴らした。クレイアはびくっとしつつも立ち上がり、恐る恐る店内を覗く。
店内と外を繋ぐドアは堅く閉じられており、中からカーテンがかかっている。クレイアが見ている前で再びガタガタと音がなったが、外には誰もいない。どうやら風の仕業のようである。
胸をなで下ろしながら、再び作業場へと戻っていく。
床には盛大にぶちまけた液類。それをクレイアは雑巾を使って拭いていく。
あまりの酷いできに、感情が高ぶってしまった。
それが一度ならいいが、すでに作業台の上にはいくつもの作りかけのボールや仕上げ直前まで作られたケーキが並んでいる。
「このままここに居続けたら、みんなに迷惑をかけてしまう。もう、この家族には頼ってはいけないのかもしれない」
綺麗に拭き取ると、その雑巾と失敗した物をすべて袋に入れて、ゴミとして出した。
「みんなが大切だからこそ、一緒にいちゃいけない時もある」
呟いた言葉はすぐに静寂の中で消えていった。
重い空気のまま、夜は更けてゆく――。
* * *
クレイアの行動を決定付けたのは、翌日の昼に立ち聞きしたある会話であった。
まだ肩の傷が完全に癒えていなかったので、休息のために窓を開けながらベッドで横になっているときだった。外からアリーと店の常連であるおばさんとの会話が耳に飛び込んでくる。
「いつからお店は再開なのかしら? 今度、“アフェール”の林檎パイをお茶会に持っていきたいのよね」
「すみません、今日はまだ片づけていますが、明日には再開できると思いますよ」
「けどまたあの変な男が来たら、どうするの? この店の従業員で、腕っ節のいい人いないんでしょう」
「騎士団の方とお話をして、しばらく護衛としてお一人置いていただけることになったんです。ですから、その点はご心配ないかと思いますよ」
「そう。けどねえ……」
おばさんは何やら渋い顔をしながら、続く言葉を出すのを躊躇っていた。窓の外からちらりとクレイアは眺めていると、彼女はアリーの神妙な顔つきですぐそこにまで寄ったのだ。
「どうされましたか?」
「男を捕まえるっていうのも大切だけど、被害者の方にも事情があるんじゃないかしら?」
「被害者?」
アリーが怪訝な顔をする。
「……娘さんよ、娘さん。あの子、男に襲われたって聞いたわ。その犯人は最近女性を襲っている男って言われているけど、果たしてどうかしら? 手口が少し違う気がするのよ。他の人は殴られたり、蹴られたりといった暴行だけれど、娘さんはナイフで刺されたんでしょう? 実はまた別の男で、模倣犯として装い、娘さんに何らかの恨みがあって襲ったんじゃないの?」
「……何がいいたいんですか」
「だから、無差別での被害者じゃなければ、たいていは双方に何らかのトラブルがあって――」
「クレイアは人に恨まれるようなことはしていません!」
アリーが突然大きな声を発する。話をしていたおばさんは、ぎょっとした表情になる。
「クレイアに何らかの理由があって襲われたですって? そんなでたらめな推測を言わないでください!」
「ちょっと、そんなつもりで言ったんじゃないわ。ただ、事情を娘さんからきちんと聞いた方が――」
「私の娘は被害者です!」
アリーは口を一文字にして言い切る。穏和な彼女が大きな声を発したのに不思議に思ったのか、周りの家からご近所さんが窓から顔を出してくる。おばさんはその視線を感じると、バツが悪そうな表情をして、そそくさとその場から去った。
もうあの人は“アフェール”に菓子を買いにはこないだろう。
おばさんの姿が見えなくなると、アリーは大きく息を吐いた。そして疲れた表情をしながら家の中に入っていく。クレイアも窓から顔を引っ込めて、ベッドの上でうずくまった。
薄々は予想していた。
事件の被害者として、噂の真っ直中に陥ることは。
だが内容はクレイアが考えていた範疇を越えていた。たしかに襲われたのは無差別ではなく、クレイアの体に流れる血のせいであるが、クレイア自身に何の非もない。
しかしそれを正そうとすれば、クレイアがアリーたちと血が繋がっていないことを暴露することになる。それはクレイアとしては、どうしても避けたかった。
そんな状況になれば、心の中で崩れたものは二度と元には戻らない気がしたから――。
だが今の状況はどうにか変えなければならない。アリーたちに直接的にも間接的にも迷惑をかけてしまう。
そして何より今、ここに留まるのがクレイアにとっては息苦しかった。
視線を上げ、机の上に置かれた箱を眺める。立ち上がり箱を開けると、産みの親が残してくれた短剣“クリス”が入っていた。もう傍で守れないから、これを代わりに残していったと言われている。
「これがあれば、しばらくは大丈夫かな?」
クレイアはゆっくりと手を伸ばし、クリスを手に取った。
* * *
やがて、その日の夜遅く、クレイアは一通の手紙と着慣れたコックコートをリビングの机に置いて、銅貨や銀貨などの貨幣と最低限の荷物をショルダーバックに詰めて家から出ていた。
目指すべき場所は決めていない。だが少なくとも次の月に変わるまでは戻ってこないつもりだ。それくらい期間を空けなければ、ほとぼりは冷めないだろう。
まずはティル・ナ・ノーグの中心街から離れようと歩き始める。
こんな夜更けに出歩いたことは初めてで、若干緊張気味な状態で進んでいく。昼間は喧噪でうるさいはずの通りも、今は誰もいない静かな空間が続いている。
好奇な視線を避けるために、アップルグリーンを基調とした私服の上から、茶色系のフード付きの上着を羽織り、フードを被っていた。だが、この状態では特に顔を隠したりする必要はなかったかもしれない。
一方でこの場にあの男が現れたら――と思うと、つい足がすくんでしまいそうな感覚に陥る。
しかし次にあったら必ず対抗すると決意し、ショルダーバックの最も取り出しやすいところに、あの“クリス”を入れていた。自分の落とし前は、自分で付けなければならない。そう気を張っていなければ、こんな夜更けに一人で歩くことは無理だ。
中心街から離れると、少しずつ家が少なくなってくる。その先に出ると、いったい何があるだろうか――。
クレイアはぼんやりと街の地図を思い浮かべていると、夜中には場違いの明るい声が投げかけられた。
「あれ、クレイアじゃん!」
時々店に来る、赤髪の少年が脳裏によぎる。まだフードは被っているのに、なぜ自分だとわかるのだろうか。用心しながら振り返ると、予想した少年だけでなく、他の少年もおり、計三人が仲良く並んでいたのだ。引き締まった筋肉が若干露わになっている赤髪の少年が笑顔で手を振っていた。
「よう、久しぶり!」
「ア、アール? それにレイとイヴァンまでも」
クレイアが立ち止まると、少年三人は駆け寄ってくる。今はもう日付が変わる頃。少年たちが出歩いていい時間帯ではない。眉をひそめなら三人を眺める。
「何やっているの。夜中よ」
「クレイアだって、何やっているのさ?」
「それは……その……、た、たまには夜の街を歩きたいものなのよ。気分転換しないと、やっていられないし」
「いつも中でこもっていると気分が萎えるよな。俺もずっと装飾を作ったり加工したりしていると、さすがに疲れてくる」
白に近い色の髪の上をバンダナで巻いている小柄な少年――レイは同意するかのように首を縦に振っている。それを見たアールはへえっと声を漏らしていた。
かなり下手な誤魔化し方をしたが、レイの相槌のおかげで信憑性を増すことができたようだ。しかしここは一刻も早く、彼らと離れなければならない。この三人を中心としてよからぬ噂が広まったら困る。
「ねえ、あんたたち、こんな夜中に出歩いているってことは、何か理由があってしているんでしょ。あたしに構っていないで、早く行ったら?」
「まあ、俺たちも散歩みたいなもんだしな。なあ、イヴァン?」
少し後ろに下がってやりとりを見ていた緑色の髪で、やや堅い髪質の少年は困ったような顔をしていた。
「散歩とは少し違うって。観られる時間は長い方がいい。それに時間によっては観やすかったり、観にくかったり、下手したら観られない時もあるからさ」
「つまり――星でも観に行くの?」
イヴァンの趣味は天体観測と聞いたことがあった。そのことを考えれば、こんな夜中に出歩いているのにも納得ができる。彼は微笑みながらさらりと返事をした。
「そうだよ。家から観てもいいけど、たまには何も建物がない場所で観てみたいと思って。そしたらアールとレイも一緒に行くってことになったんだ」
クレイアは相槌を打ちながらも、その先に見える夜空を眺めた。若干雲がかかっているため見えにくいが、その先に星が輝いているのはなんとなく察することができた。
「知っているか、クレイア。明かりがない街から離れた方がもっとすげえ夜空が見えるんだってよ」
「そうなんだ、アール。きっと綺麗な夜空が広がっているんだろうね」
目を輝かせているアールに対して返答をすると、彼はあっと声を漏らし、クレイアに顔を近づけた。
「そうだ、クレイアも一緒に行こうぜ!」
「……え?」
「気分転換をしたいのなら、綺麗な風景を見るのがいいってよく言うだろ?」
「いや、そんなこと聞いたことないから……」
若干牽制をかけながら返す。だがアールはなかなか引かなかった。
「一人で悶々としているよりも、みんなで絶景を観た方がいいって! なあ、レイにイヴァン!」
「アールの言うとおりだと思う」
「そうだな。きっと観てよかったと思える風景だよ」
三人に次々と背中を押す言葉を出されると、返す言葉がなくなってしまう。
絶景を観たいという想いはある。だが、すぐにここから去りたいという気持ちも未だにあった。
しばらく考えていると、アールが痺れを切らしたのか手を伸ばし、クレイアの手首を握って歩き始めたのだ。たたらを踏むようにクレイアも進んでいく。
「ちょ、ちょっと!」
「時間がないんだよ。俺は星に関してはわからねえけど、チャンスなんて次あるかわからないんだ。ほら、さっさと行くぞ!」
力強く握ってくる手から、彼の温もりが伝わってくる。この強引さは時として迷惑をかけることもあるが、時として周りにいい影響を与えていた。
「……アール」
「なんだ?」
顔を伏せながら、クレイアはつぶやく。
「とりあえず手を離してくれない? あんたねえ、女の子に接するなら、もっと優しくしないと、嫌われるよ?」
「ああ、わりい」
アールは赤面もせずにあっさりと手を離す。そして意気揚々と一人で前進し始めた。
クレイアは、はあっと溜息を吐く。成り行きで、こんな展開になるのは思ってもいなかった。だが少しだけわくわくしている自分もいたのだ。
一方で、この鈍感な男に惹かれているクレイアの友人であり、騎士団員でもある、ピンクの髪の少女のことを思うと、少しだけ可哀想に思ってしまう。少しくらい彼女のために探りを入れてみるかと思いつつ、少年たちとともに夜の街を通り過ぎていった。
今回お借りしました、初登場の登場人物の設定考案者やデザイン者、また参考にした作品は以下の通りです。
*アール・エドレッド(設定考案、デザイン:タチバナナツメさん)
⇒『光を綴る少年、命を唄う少女』http://ncode.syosetu.com/n2494bb/ 著:タチバナナツメさん
*レイ・ハーディー・アダルバート(設定考案、デザイン:道長僥倖さん)
*イヴァン・デイル(設定考案、デザイン:夕霧ありあさん)
⇒『心に唄う雨』http://ncode.syosetu.com/n9712bg/ 著:夕霧ありあさん
皆さま、どうもありがとうございます!




