青空に潜む黒き影(5)
『そんなに気を落とさないで。あっちはいつも使っているオーブンだよ? クレイアが上手く使えなくても仕方ないって』
『そうそう、審査員の中にも今度はアフェールのオーブンを使ってもう一度大会を開いた方がいいのではって、言っていたくらいだし』
応援に来たクラリスと見回り巡回中のアイリス――リベルテ姉妹に挟まれながら終わった後に肩を叩きながら言ってくれた。
『……クレイアにしては珍しいミスだったけど、それでも充分美味しかったわ。それに焦げの部分以外は彼よりも断然良かったわよ。特に仕上げ方が本当に綺麗だった。普通に焼けていれば、必ず審査員全員がクレイアのお菓子を選んだはずよ』
観客の中から選ばれた審査員の一人となったコレットが優しい言葉を投げかけてくれる。
『それよりもさ、体調悪いでしょう? しばらく無理していたんじゃない? 結果は残念だけど、それよりも体を大切にして。また他の大会に参加すればいいじゃない』
施療院で働いているイオリから、医術を学んでいる者からの指摘を受ける。
他にも知り合いが次々と押し掛けようとしてくれたが、やんわりとクレイアは断りを入れておいた。こんな顔色を他の人に極力見せたくはない。
『みんな、ありがとう。でも結果は結果だから。体調管理もミスも自分の責任。しっかり反省して次に生かす』
クレイアは精一杯の笑顔で返答すると、友達から背を向け、おぼつかない足取りの中、片付けの続きをする。
結果は試食する前からわかっていた。緊張する中で、いかに平常心で、より美味しいものを作れるかということも含めた大会であったため、クレイアの失敗に対して同情はあったが、最終的な結果に結びつくことはなかった。
準備の段階で使用した台を最後に綺麗に拭いていると、にやにやした表情のマロールが近づいてくる。
「いやあ、まさかの結果に僕は驚いているよ。こういう展開もあるんだね」
「……良かったね、副賞で他の国へ留学でしょ? 存分に知識を吸収してきな」
「どこに行こうかな。王都じゃ普通すぎるから、思い切って外に出てみるか」
「好きにすれば。――今日はお疲れさま」
素っ気なく返して背を向けると、後ろから舌打ちをする音が聞こえてきた。そして「もっと悔しがれよ……」とぼそっと呟かれる。
彼の言動には反応せず、クレイアはショルダーバックをかけて外にでた。大会が始まる前は青い空だったが、いつしか真っ黒い雲で覆われていた。間もなくして雨が降るだろう――。
大会が終わった直後、クレイアの両親や妹が真っ先に駆け寄ってきたが、特にルクセンに対しては視線が合わせられなかった。適当に返事をしつつ、家から持ってきた荷物は三人で持って帰ると言われ、それだけはお言葉に甘えて頼んでいる。
片づけ終わり、外に出た頃には店の前の喧噪も消えていた。人々はいつもの生活へと戻り、雨に降られる前に買い物を急いでしていく人などもいる。そのいつも通りが逆に今のクレイアにとっては有り難かった。
一人で道中をゆっくりと歩き始める。
* * *
「意外な展開だったわね。ニーベルもそう思っているんでしょう?」
人通りが少ないところで、ニーベルの隣にはいつしか精霊のエッダが一緒に歩いていた。大会時も姿は見えなくても、彼女も一部始終を見ていたのだ。
「勝負事は実力以上に運とタイミングの要素も強いからね。大丈夫だよ、クレイアさんなら、次は失敗しないよ」
「そうかな。あの顔色、ただ単に体調が悪いだけじゃないと思う。――何かに対して衝撃を受けている感じ。……ニーベル、心配なんだね」
エッダが少し寂しそうな顔をしながら、ニーベルを横目で見る。それに対してゆっくりと頷く。わかっていた答えを返されたエッダは、今度は若干嫌がらせに近い聞き方をする。
「……好きなの? クレイアさん」
「違うって。わかっているだろう、エッダ」
にこやかに微笑みながら返すと、肩をすくめられた。
「その返し方、事情を知らない人が見たら、誤魔化されているって思うわ」
「そうかな、気をつけるよ」
ニーベルはいつもより人通りが少ない道を眺めながら呟く。
「……カターニャさんのところに行ってから、クレイアさんのところに行こうと思う。お節介かな?」
「別にいいんじゃない? でも、受け取ってくれるかどうかは微妙だけど」
「そうだね。でも――何かが気になるんだ。あそこまで動揺しているクレイアさんが」
おそらく精神的にまいっている状態であれば、ただの客としてしか見られていないニーベルとは会わないだろう。それでも妙な胸騒ぎがニーベルの背中を後押ししていた。
そこから少し歩いたところにある、カターニャが経営する薬屋へとニーベルは踏み入れた。草や花から調合された薬もあるため、店の中は多種多様な匂いでいっぱいである。
「いらっしゃいませ。あら、ニーベルさん?」
店の奥からホワイトゴールドの金髪を花飾りでまとめた女性が出てきた。初対面の人であれば、エルフの特徴である尖った耳に目がいくだろう。
「こんにちは、カターニャさん。突然ですがリラックスできる薬草……よりも香りが良いものがいいかな。そういうの、ありますか?」
「薬草も香りもあるわ。どういうのがお求めかしら。柔らかな感じの香り?」
「そうですね、そのようなお願いします」
カターニャは次々と棚からめぼしいものを出していく。
「誰かにプレゼントですか? ニーベルさんはお元気なようですし」
「そんなところですかね。少し心配になった人がいて」
「好きな人ですか?」
「まさか、違いますよ。ただ――その人の幸せは願っていますね」
微笑みながらそう言うと、カターニャは頬を綻ばせながら、品をいくつか出してきた。
「ニーベルさん、あなたは無意識のうちにたくさんの女性の心を掴んでいるんじゃないですか? 今の台詞、まるで舞台上での台詞みたい」
カターニャに言われて、はっとする。自然と出してしまった言葉がまさかそのように捉えられてしまうのは――無意識に過去の台詞を繰り返してしまったようだ。今後はより気をつけなければならない。
「薬草よりもこっちがいいかしら。これがリラックスできるハーブ。そして心を落ち着かせる香料。どうかしら?」
「その両方を頂きます」
「どうもありがとうございます」
ニーベルは銅貨を数枚取り出して、品物と引き替える。紙袋にそれを入れてもらって、外に出ようとすると、外はすっかり暗くなっていた。
「雨が降りそうですね。お早めに帰った方がいいのでは?」
「――そうですね、早めに宿に戻るとします。どうもありがとうございました」
軽く頭を下げて外に出ると、ニーベルは足早に“アフェール”へと駆けだしていた。
黒い雲はティル・ナ・ノーグの上空をほとんど覆っていた。
できるならば雨が降り始める前にクレイアに買った品を渡し、早く宿に戻って雨音を聞きながら読書でもしたい。途中で裏路地に入って、近道をしながら進んでいく。
すると突然全身黒い服を着た、赤髪の癖毛の青年が目の前に現れたのだ。細身の長身であり、ワイシャツのボタンは留めておらず、その大きく開いている胸元からは蝶の文様が見えた。
以前、どこかで話題に出た――情報屋の青年。彼はニーベルと視線が合うと、愛想良く挨拶をしてきた。
「こんにちは。これは、これは、語り部として有名なニーベル・ブラギソンさんではありませんか」
「君はたしか――ヨハン君」
「知っておりましたか、いやはや噂とは怖いものですね」
「そういう君も僕の名前を知っているのにはびっくりしたけれど」
「そうですか? ニーベルさんは有名な人だと思いますよ、今も昔も」
その言葉を聞いて、ニーベルは眉をひそめた。ヨハンは空をちらっと見ながら、左手を腰に添える。
「――アーガトラム王国の各地を回っている、王都出身の語り部の青年。かつては駆け出しの若手テノールオペラ歌手として活躍しており、伸び盛りを見ると将来有望株でもあった。ただし四年前のある事件をきっかけに――」
「わかった、君が情報通なのはよくわかった」
無理矢理話に割り込んだが、ヨハンは嫌な顔せず、笑みを浮かべているだけだった。まるで反応を楽しんでいるようにも見える。これ以上関わっていたら、気分を害するどころではすまない。ニーベルは軽く挨拶をして、その場から去ろうとした。
「すみませんが、僕は急いでいるので。それでは――」
「クレイア・イーズナルの周辺について、ちょっとした情報を持っているのですが、聞きたいですか?」
横を抜けようとした瞬間に、ヨハンは囁きに近い声で言ってくる。思わずニーベルは一歩進んだところで立ち止まってしまった。背中越しから質問を返す。
「それは――今の彼女の状態にも関係していること?」
「そうですね、そうでなければ、今、教えようとは思いませよ」
首だけ回してヨハンを眺めた。頭には蝶の飾りを付け、腰にはひらひらした布を棚引かせており、胡散臭そうな雰囲気を出しているが情報量や正確さには定評があるらしい。
「……金でも取るのか?」
「まさか、好意で言っているのにお金なんか……。ただ一つだけ聞きたいですね。ニーベル・ブラギソンとクレイア・イーズナルの関係を。友達でも、恋人でもない。どちらかというと妹として見守っている感じでしょうか?」
「それは――彼女が知らない事実にも通じるから言えない」
「――クレイア・イーズナルが自分の出生について、既に知っていたとしても?」
その言葉を聞き、さすがのニーベルも驚きを隠せず、表情に漏れ出ていた。ヨハンはそれを見ると、くすりと笑いながら満足そうな顔をする。
「ティル・ナ・ノーグの街に来て、クレイア・イーズナルと出会ってから、定期的に彼女の顔を見に行く理由を――教えて頂けますでしょうか、彼女のためにも」
笑みを浮かべながらヨハンは口を開いているが、出てくる言葉の節々に気になるとこがある。
「彼女の身に何か危険でも迫っているのか?」
「さあ、そこまでは。ただ私が持っている情報から推測すると、良いことでは起こらないでしょう。――そろそろ雨が降りそうですね。早く決めた方がいいのではないのでしょうか?」
警戒していたとはいえ、あっというまにヨハンのペースになっていた。その口車の乗せ方――かなりの腕利きの情報屋、つまりは情報も信用できる可能性が高い。
ニーベルとクレイアの過去の関係は、はっきり言ってしまえばたいしたことではない。それくらいの情報で彼女を助けられるのなら、安いものだろう。
「――わかった。だがこのことは他言無用だ」
「わかっております。彼女の未来に陰りを作ってはいけませんから」
ニーベルはヨハンに近づくと、辛うじて彼が聞ける声を発する。
「クレイアさんとは、実は――」
やがて雨がぽつり、ぽつりと降り始めようとしていた。
* * *
早く家に戻ればいいものの、クレイアは気がつけば遠回りをして、人気のない場所まで来ていた。そこは商店街の外れであり、もう少し足を伸ばせば、海が見渡せる場所だった。そこから見える空や海の景色は大変美しいと言われているが、この曇天とした状態では見るに耐えない場所となっていた。
「いい加減に帰らなくちゃ……」
頭の中は大会の最中からずっと混乱したままだ。焼け焦げたパイを見たときもショックを受けたよりも、失敗してしまった、どうしよう……という気持ちが大半であった。
優勝候補と言われながら温度調節といった初歩的なミスをするなど、これでは“アフェール”の看板に泥を塗ったようなものだ。
意気消沈と肩を落としながら突っ立っていると、誰かが石畳の上を歩いてくる音が聞こえた。しかもその音は少しずつ大きくなっている。
この先には店などないはずだ。いったい誰が――と思い振り返ると、そこにはフード付きの黒いローブを羽織った男性がいたのだ。フードを被っているため、顔は判別できないが、垣間見た顔からすると中年の男性か。
足取りは覚束なく、右手はポケットの中に突っ込んでいる。その人から発せられる妙な雰囲気から避けたかったため、クレイアは彼の視線から移動した。だが彼は視線を移動したクレイアに向けてくる。
「やっと……見つけた」
ねっとりした、思わず背筋に悪寒が走るような口調。それが耳に入るなり、今度こそ躊躇いなくクレイアは後ずさりながら男性から離れようとしたが、彼は一定の距離を保ちながら付いてくる。
「もうさ、どれくらい探したと思っているの、逃げないでよ」
「誰よ、あんた……」
「あれ、知らないの? むかーし、むかーし、お母さんを散々遊んであげたのに、娘に教えていないの?」
「遊んだ?」
「ずっと狙っていたけど、少しは僕なりに自重してね。お腹がへっこんでから、遊んであげたんだ」
「何を言っているの?」
「お母さんに似て、綺麗だね。ねえ、そんな色気のない格好をしていないで、もっとひらひらとした服を着てくれよ」
話がまったく合わないし、理解ができない。いったい何を言っているのか、この人は。
「お探しの人とは違うんじゃないですか?」
「そんなはずないよ。その焦げ茶色の髪、水色の瞳、そして顔立ち――十八年前に会った、君のお母さんとそっくりだ」
その言葉ですべてが繋がった。この人が言っているのは、育ての母親であるアリーではなく、“産みの母親”のことだ。
それを察すると、より警戒心が強くなる。すぐに背を向けて逃げられるよう、ゆっくりと街の方へと後ろ歩きで進んでいく。
「ずっと探していたんだ、逃げないでくれよ。さあ――お母さんの続きを君が引き受けてくれ。そして楽しませてくれ」
声が一気に低くなった。
次の瞬間、男性のポケットからナイフを持った右手が出てくる。突然の行動に、クレイアは一瞬動きを止めたが、すぐに目の前に迫った恐怖から逃げるようにして半歩下がる。だが完全にはかわしきれず、左腕をナイフがかすめた。そこから血が滲み出る。
「だから、どうして逃げるんだよ。……ああ、そうか。いたぶってほしいんだね。わかった、お望み通り、ゆっくりと遊んでから、素敵な悲鳴を上げてくれ!」
男性の言葉を最後まで聞くことなく、クレイアは一目散に背を向けて走り始めた。同時に雨が降り始める。
護身用で持っていた短剣で対抗することも考えられたが、あいにくバックの一番下に入っていた。男の素早い行動を考えると、探している間に切られる可能性が高い。
今は一刻も早く誰かに助けを呼ぶべきだ――その一心で、重い体に鞭を打ちながら、道を走り抜ける。
「速いなあ。君のお母さんも体力には自信があったのか、いつも逃げていた。だけど――僕には関係ないよ」
口を閉じると、男は一気に間合いをつめてきた。そして気が付けば併走し、再び左腕を切りつけてくる。今度は深い。
「……痛っ!」
「おじさんだからって、甘く見ないでよ。みんな逃げるけど、本当に遅い。これでも鍛えているんだ。女ぐらいならすぐに追いつける」
ぼそりと呟かれると足払いをしてきた。脇に気をとられていたクレイアは見事にこけてしまった。真っ白いコックコートが雨水を吸って濡れていく。
どうにかして逃げなければ――そう思いながら、立ち上がろうとしたが、力強い手で肩を押さえつけられた。
「もう逃げないでよ。さあ、空き家でゆっくりと二人で過ごそうじゃないか」
「離して!」
「大人しくしてくれないの? 少しお仕置きが必要かな。――とりあえず肩から」
男はにやりと口元を釣り上げながら、躊躇いもなくクレイアの左肩にナイフを突き刺した。
「ああ……っ!」
表情が一瞬で歪む。その様子を見た男はさらに嬉しそうな顔をする。
「そうそう、その顔、お母さんにそっくり。いいねえ、血の繋がりってものは。さて、もう一カ所くらい。――そういえば、今は菓子職人だって? さっき何かの大会に出ているのを見たよ。さぞ手が命なんだろうね」
男のナイフの切っ先が、クレイアの右手に近づいていく。それを見ると、たまらず声を上げていた。
「やめて、それだけは!」
繊細な作業も必要とされる菓子作り、少しでも感覚が狂ったら、今まで積み上げてきたものが消え去ってしまう。そんなことになったら、もう二度とアフェールには戻れない。
「手だけはやめて、何でもするから!」
「本当? 大人しく一緒に来てくれる?」
「……わかった」
すると肩の重圧がなくなり、クレイアは自由の身になれた。ゆっくりと起き上がり、何気なく後ろの様子を見ようとした矢先、体が急に横に飛ばされたのだ。そして近くにあった空き屋の壁に背中がぶち当たる。衝撃が加わった体は、為す術もなく崩れ落ちていく。
「何を考えていたのかな? やっぱり騒がれると面倒だから、大人しくした状態で連れていくよ」
男がにたにたした顔で近づいてくる中、クレイアの視界が徐々に雲がかってきた。
逃げなければと思いつつも、体は意識とは逆に動けない。
精神的にも体力的にも溜まっている疲労か、それとも雨に打たれている出血の関係か、それとも――。
雨が強くなってきている。
心の奥底で嫌がっていた雨がクレイアを容赦なく打ち付けていた。
急に映像がぼんやりと浮かんでくる。雨の中、誰かがある場所に、赤ん坊を置いていってしまう内容だ。その人は全身血だらけであった。
「お母さん……?」
やがていつしかクレイアの思考は止まり、意識を失った――。
今回お借りしました、初登場の登場人物の設定考案者やデザイン者は以下の通りです。
*カターニャ・ヴォロフ(設定考案、デザイン:棗さん)
*ヨハン・ペタルデス(設定考案、デザイン:ヤスヒロさん)
皆さま、どうもありがとうございます!




