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俺は蟷螂になりたかった。

作者: 玉梓

 俺は蟷螂になりたかった。

 虚空を舞う大鷲でも、大海原を駆け抜ける海豚でもない。

 地面を這う、蟷螂になりたかった。


 そう思っていた塾の帰り、ある光景を目にした。真夜中、灰色のアスファルトを照らして颯爽と走る・・・暴走族ら。

 手は高くのハンドルを握り、下半身を低くのサドルに託し、足を豪快に広げている・・・まさに蟷螂であった。



 その日から俺は蟷螂になるため、試行錯誤を繰り返してみた。



 といえど、その手段は限られていた。17歳の俺はバイクの免許を持っていない。乗ったことすらない。あの蟷螂になる夢は早々に断ち切られた。


 思案した結果、まずは形から入ってみることにした。


 腰を低くし、相撲の横綱になったようにどっしりと構える。両手は通学バッグと共に高く上げ、手先を直角に曲げて、あの大きな鎌を表現するのだ。

 見よ!この見事な立ち姿を!!太陽へと向かい、そびえる勇ましき風采。瞳は未来を見据えるかのごとく輝き、俺は今、飛び立とうとしている!!

 胸が高揚した。あの蟷螂が、まさに、俺の元に舞い降りている!!

 もどかしさを抑え切れず、俺は最初の一歩を踏み出す。右足を浮かせ、再び地に近づく。時間が長く感じた。早く一歩を踏み終えたかった。

 そしてしばらくして、その右足が、重力に従って落下していったのだ・・・。


 笑われた。


 近所に住む、小1と小4の小僧に。


 一歩踏み出した瞬間、腹を抱えて笑われた。


 それを見ていると、俺の顔は熱くなった。多分赤く染まっていただろう。

 その様子に耐えられなくなった俺は、すぐさま自宅に逆戻りした。



 俺はまた考えた。

 そう、今回の反省点として、充分な蟷螂になれなかったことだ。あれではまるで、ただの人間が蟷螂になってみただけではないか。もっと、蟷螂の蟷螂による蟷螂のための風貌をしなければならないのだ。鮮やかな黄緑色を輝かせ、鋭い鎌を太陽に見せ付けるような・・・


 そうだ


 自転車だ


 もう使わなくなった母のママチャリは、運よく錆び付いてはいなかった。

 休日、ホームセンターで買った黄緑色のペンキをボディに塗っていく。次の日の朝に見たその姿は俺の思い通り、眩しかった。

 まだやることはあるのに、俺は待ち切れなくて、一度乗ってみた。久しぶりに座るサドルは、冷たかった。

 右足を黄緑色のペダルに乗せる。しっかりとしていた。鼓動は高鳴る。俺は左足で力一杯、灰色のアスファルトを蹴ったのだ!!


 ・・・あ、忘れてた。


 俺、


 二輪車、乗れないんだった。


 俺と黄緑色のママチャリは、地面にたたき付けられた。俺は頬と手に擦り傷を負った。

 悔しかった。蟷螂が遠くに見えたのが悔しかった。


 あれから俺は、あのママチャリに手を付けなくなった。蟷螂になろうとも思わなかった。ママチャリを乗りこなせない俺には、蟷螂になる資格なんてない。

 前のように、勉強に没頭する日々に戻った。


 塾の帰り、隣のアスファルトを駆け抜けるのは、いつの間にか、あの蟷螂たちではなく、バイクに委ねる体を地と平行にさせて突き進む、ゴキブリになっていた。

 大声で唸るゴキブリらは、その素早さで夜の街を駆ける。


 それでも頭によぎるのは、いつも蟷螂のことだった。


 古文を読んでいても、


 加法定理を解いていても、


 学年で1番の成績をとっても、


 塾で何度先生に当てられ、完璧に答えたとしても、


 ・・・頭の中は、蟷螂で満たされていた。


 そう、神様は俺から蟷螂を離さなかったのだ。離してくれなかったのだ。むしろくっつける方向でもてあそんでいたのだ。

 引き留めようとする神様が、俺は許せなかった。悔しかった。


 しかし、しかしだ。


 神様が俺と蟷螂の信頼関係を認めてくださるのなら、恥ずかしながら、俺はその運命の波に飛び込みたい。溺れて、飲んで、水腹になってしまうまで、蟷螂に浸りたい!!


 そう思った瞬間、手に持っていた鉛筆が折れた。上半分が蛍光灯に照らされながら、空中で放物線を描いた。一度勉強机の上で跳ね返ると、着地して円上に回った。しかし、今の俺には気にならなかった。

 俺は部屋を飛び出す。階段を駆け降り、自宅を出た。


 車庫の片隅に忘れ去られていた、黄緑色のママチャリは、寂しそうに見えた。誰かの温もりを待っていた。

 惨めなそれを、俺は笑う。

 近寄ってサドルを強く叩くと、家の庭に向かった。


 そこには倉庫があった。灰色で、少し錆びている。

 引き扉を引っ張ると、甲高く鈍い音を立てて開いた。中には草刈り鎌や剪定バサミ、ガラクタとも呼べるものまで数多く存在している。

 俺はそのガラクタたちを掻き分ける。土や草、その他判らないような臭いが嗅覚をつく。


 そしてそれは、ずっと奥深くに埋もれていた。

 小さい頃、自転車に乗る練習のとき、俺を背中から押してくれた…


 補助輪、である。


 接続部分はひどく錆び付き、青色をしていた車輪も、色あせていた。

 片方しか見つからなかったが、それでもよかった。幸い、俺は片補助輪での運転は可能だったのだ。

 早速、自転車の左側に取り付ける。そこだけ黄緑色でなかったのは可笑しく感じた。でも俺にはぴったりだとも思った。


 アスファルト上に構えた、一段と進化を遂げたママチャリは、神々しく輝く。俺は最大限に低くしたサドルに腰をかける。ペダルに足を乗せる。

 再び、鼓動は高鳴っていく。冷たいそよ風が吹き、静寂が包む。

 震えた両手を、あの日に見た暴走族と同じようにずっと高く伸ばしたハンドルに置く。グリップを強く握った。

 一度唾を飲む。

 足が脳からの命令を待ちきれず、うずうずして、少しペダルを押した。重かった。


 そして、 

 

 俺は、


 俺は、


 地球を跳ね返す勢いで、


 足を蹴り、

 

 体を、


 ママチャリを、


 前進させたのだ・・・!!


 少しふらつきながら、自転車は確実にアスファルトの上を進み始めた。

 高く掲げた両手は、まるで先に鎌を付けているかのように日光に煌めき、低いサドルのおかげで足が曲がる。黄緑色の代物が、道を駆け抜ける。

 ガガガガガ・・・と、補助輪が鳴り続けていた。

 俺はその瞬間、歓喜、幸福、満足・・・「喜怒哀楽」の内なら「喜」と「楽」の分類に含まれるあらゆる感情に満たされた。


 そしてそのすぐあと、子供の笑い声が片耳の鼓膜を叩いた。あの小僧たちだ。また腹を抱え、住宅街であるこの街全体に響いてしまうかのような大声で、しかも人差し指を俺に向けて笑っていた。


 しかし俺は嬉しかった。小僧に笑われて嬉しかった。

 目頭が熱くなり、目の前がぼやけていく。小僧たちも、ただの2本の棒へと変貌していった。


 そう、あれは忘れもしない。一生忘れず、冥土の土産にすると心に決めた。



 小僧たちは―彼らは俺を笑ったのだ。


 「蟷螂だ」と。

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