緋色の親愛
ヒュガール国。
かつて人と龍が共に生き、手を取り合い、繁栄した国。
しかし、その面影も今は無く、友と呼んでいた龍は姿を消した。
ただ一匹の小さな龍を残して。
♦︎♦︎♦︎
「キスの日とはなんじゃ?」
ヒュガール国王城内に設置されている使用人用の食堂内に、天を奏でるような声音が響き渡る。
今まで同僚との談笑を楽しみ、午後の仕事のために英気を養っていた者達は、その幼い声に思わず開いた口を噤んだ。
こんな場所で聴こえるはずもない。
そう願いながらも同期との会話を楽しんでいた若いメイド達は、今まで楽しく開いていた口を慌てて閉じる。
するとそんな願いも空しく彼女達の頭上から小さな羽をパタパタと動かす音が鳴り、食事の乗ったテーブルの上にこの王城内で働く者なら誰もが見覚えのある幼女が降り立った。
「のう。主等に聞いておるのじゃ。キスの日とはなんじゃ」
「ヒュ、ヒュノリメス様!なぜこのような場所に!?」
膝までの長さを持つ艶やかな黒髪。
低い小鼻の穴をヒクヒクと動かして。
無い眉の下で吊り上がっている緋色の目を、不思議そうにクリクリと輝かせながら。
ヒュノリメスは朱色の唇を尖らせた。
「妾が先に聞いたのじゃろう。問いに問いで返すなど不躾じゃ」
「し、失礼いたしました!」
「うむ!己の非を認めることができるのは、立派なことじゃ!」
ヒュノリメスは得意げに顎を上げると、短い腕を無理矢理組んだ。
そして若いメイド達の、今にも床に這いつくばりそうなほど追い詰められた顔を覗き込む。
「して、キスの日とはなんじゃ」
「あ、いや、それは、」
真っ青な顔色の若いメイドは、ヒュノリメスに告げて良いものかと視線を泳がせる。
何せこの幼女。
いくら長い年月を生きているとはいえ、見た目も種族的な実年齢も幼いことには変わりない。
加えて、精神的にも幼いときてる。
どう見ても五つにも満たないような見た目の娘に、キスだのなんだのの話を聞かせても良いものか。
ましてや相手はこの国、もしくはこの世で唯一かもしれない伝説の種族。
下手な知識を与えては、クビになるかもしれない。
いや、それは未だ良い方で下世話な話を聞かせたとして、かの焔のような男に物理的に首をはねられてしまうかもしれない。
ヒュノリメスとの交流など滅多にない下級メイド達は、次々に思い浮かぶ懸念に不安を募らせた。
そんな彼女達の挙動にヒュノリメスは首を傾げるも、大人しく返答を待った。
ヒュノリメスにとって100数えて待つことなど造作もないこと。200はちょっと自信がないが。
ヒュノリメスの吊り上がった緋色の眼で、ジッと見つめられたメイド達は互いに視線を合わせると、覚悟を決めたようにおずおずと口を開いた。
♦︎♦︎♦︎
「カイ!!!キスの日じゃ!!!!」
「ぁあ゛!?クソ餓鬼てめぇ!どこ行ってやがった!!」
自室に戻るや否や、嬉々満面の表情で告げたヒュノリメスに爆炎をぶつけたような怒号が襲う。
あまりの迫力にヒュノリメスは浮かべていた笑顔が消えて「ヒョッ!?」と情けない声が出た。
「な、なんでそんな怒っとるんじゃ!」
「なんでもクソもねぇだろうが!!毎度毎度ちょこまかといなくなりやがって!!」
大変ご立腹である。
ヒュノリメスは眼前に立つ男を見上げた。
灼熱の焔のような真っ赤な髪を逆立たせ、鋭い赤銅色の瞳を更に吊り上げているこの男。
ヒュノリメスの唯一の護衛であるカイは、額に青筋を浮かべながら自身の腹より低い位置にあるヒュノリメスの顔を睨み付けた。
「のう、カイ」
「ぁあ゛?」
地獄の底から這い出てきたような鬼の表情を前にしても、ヒュノリメスはキョトンとした表情で首を傾げた。
「妾は常々思っておったのだが」
「何をだよ。聞いてやるから言ってみろ」
「主、ちと怒りすぎではないか?」
「…ぁあ゛?」
憤怒の主な原因がなんか言ってる、とカイは思った。
しかしこれでも希少な龍種。
どれだけくだらなく、納得できないような、頭にくる発言であっても、最後まで聞いてやるべきだろう。
カイは血管が浮き出るほど両の拳を握り込み、耐えることにした。
「妾は知っておるぞ」
(おぉ、自分が原因だとわかってんのか。いや、こいつのことだ。安易に信じるんじゃねぇ俺)
「人間は怒りが過ぎると頭の中の血が破裂するのだろう。なればこそ!お主に必要なのは、かるしうむじゃ!!!」
(ほらな)
「ぎうにゅうを飲め。ぎうにゅうをぉ」
低い小鼻の穴をヒクヒクさせてドヤ顔を決めるヒュノリメス。
とりあえずカイは、自分に向けられた短い人差し指を掴んだ。
「人を指差すんじゃねぇ」
「ンにゃぁあ゛ああああ!痛い痛い痛い!!曲がるぅううううう」
カイは、溜まったイラつきを少しばかり発散させた。
♦︎♦︎♦︎
「ぁあ?キスの日だぁ?」
「そうじゃ!」
指の関節をなんとか守り切ったヒュノリメスは、散々泣き喚きカイに当たり散らしたあと、ようやくメイドたちから聞いた話をカイに伝えた。
「なんじゃそりゃ」
「なんじゃお主。人間なのに、そんなことも知らんのか」
プークスクスと紅葉のような手で口を抑えて笑うヒュノリメスの姿に、イラッとしたカイはとりあえずムカつく顔をしてる幼女の頭を鷲掴んだ。
「それがなんだってんだ。さっさと用件を言え」
「わぁぁぁあああ!カイの暴君!!でーぶいじゃ!!でーぶい!!!」
「よく知りもしねぇ言葉を叫ぶんじゃねぇ!!!」
「誰だ!こいつに余計なこと教えた奴!」と叫ぶカイはヒュノリメスが話したキスの日などどうでも良さそうだ。
しかし、それはいけない。
なぜなら、キスの日とは【日頃、親愛を抱いてる相手にキスをして情を伝えて良い日】と聞いたのだ。
それならば、ヒュノリメスにとって1番親愛の情を伝えたいのはカイだ。
だってカイは、枷を外してくれた。
あの重くて臭くてジャラジャラ煩い、ヒュノリメスの大嫌いな鉄の塊を。
カイは『よく耐えたな』と、ヒュノリメスを誉めながら、空の青さを再び見せてくれたのだ。
その日から、ヒュノリメスにとってカイは特別だ。
だからこそ、【日頃、親愛を抱いてる相手にキスをして情を伝えて良い】今日この日は、カイにキスをしなきゃいけないのだ!!!
改めて意気込みを鼻息で表したヒュノリメスは、カイの手が緩んだ隙に、小さな羽でパタパタとカイの顔目掛けて飛んだ。
「今じゃ!!!!」
古の時代から生き続ける伝説の龍。
大空を翔けるその姿は神々しく、目を奪われるほどに美しい。
されど、その姿を捉えられるのはほんの一瞬。
次の瞬間には影すら残さず彼方へと消え去るほどの、凄まじい速さを誇る。
はずだった。
「へぶぅっ!」
「なにしてんだ、クソ餓鬼」
カイの顔目掛けて飛んだヒュノリメスは、あえなくカイの大きな手のひらに顔面を掴まれた。
尖らせた唇の先で、ヒュノリメスは懸命に訴える。
「何故じゃ何故じゃ!!!キスくらい良いではないか!!!!カイのばか!!!!!!うわぁぁぁああああああん!」
カイに止められた。
それは親愛を拒絶されたということ。
キスの日で脳内侵食されているヒュノリメスにとって、自分の渾身のキスを防がれるのは泣きたくなるほど哀しかった。
その想いに呼応するように、ヒュノリメスの緋色の瞳からボロボロと涙が溢れる。
しかし、ヒュノリメスの泣き顔など日常茶飯事のカイにとって、緋色の瞳から流れる雫など通常運行だ。
「なに喚いてんだ。突然顔面にぶっ込んできたら危ねえだろ」
「違うもん!違うもん!!妾はただカイに――」
泣きじゃくりながらも必死に訴えようとするヒュノリメスに、カイは心底呆れたようなため息をひとつ吐く。
そして、不意にヒュノリメスの小さな頭へ手を伸ばした。
「――うるせぇ」
ガシッと頭を掴まえると、カイはそのまま唇をヒュノリメスの額に寄せた。
「…………」
ぴたり。
あれほどけたたましく響いた泣き声が、嘘のように止まった。
ヒュノリメスは緋色の吊り目を真ん丸にして、そろそろと自分の額を両手で押さえた。
涙に濡れた頬が、今度は見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
「…………か、」
ぽかんと開いたヒュノリメスの小さな口は、言葉を忘れたようにぱくぱくと開く。
そんなヒュノリメスを見て、カイは一瞬きょとんとしたあと、どこか小馬鹿にするように口の端を吊り上げた。
「こんなんで赤くなってる奴が、ピーチクパーチクわめくな。クソ餓鬼」
その悪気のカケラもない、ニヤリとした表情にヒュノリメスはワナワナと口を戦慄かせ、
「カイのバカぁぁぁぁあああああ!!!」
と、脱兎の如く逃亡した。
「あ、こらてめぇ!!!どこ行きやがる!!」
「知らない知らない!!!カイのはれんちぃぃいいいいいいいぃぃぃぃぃ」
「とんでもねぇこと叫びながら、走りまわんじゃねぇええええ!!!!!!」
誉れある龍人の唯一の護衛に降って湧いたまさかの破廉恥疑惑に、その場に居合わせた者たちが一斉にざわめき立ったのは、ここだけの話である。
♦︎♦︎♦︎
おかしい。
キスは親愛の情を伝えるものだったはずだ。
なればこそ、キスをしたらこれまでの感謝を伝えられることに満足感でいっぱいになると思ったのに。
頭の中でぐるぐるまわる思考が、いつの間にかヒュノリメスの視界すらグルグルさせる。
額にはまだ、カイの唇が触れた感触が残っている気がする。
カイの唇の温度を思い出すたびに顔が熱くなって、ヒュノリメスは両手で額を覆っては意味もなく空をぐるぐる回る。
ヒュノリメスが中庭の花壇で空中前転を極めている姿は、見る者によっては「今日もヒュノリメス様が元気で何よりだ」と癒される一面だ。
しかし、当の本人はそれどころではない。
自分がするはずだったキスを、まさかカイからされて。
しかも、それが何故こんなにも恥ずかしいのか。
(おかしい。おかしい。おかしい!!!)
こんなはずではなかったのに。
ヒュノリメスは、カイにキスをして
『いつも感謝しておるぞ!!カイ!!!』と、労ってやるつもりだったのに。
なぜこうなったのだ。
思考がぐるぐる回る。
視界もぐるぐる回る。
ぐるぐるぐるぐる回って、いつの間にかヒュノリメスから発生した蒼炎が、チリチリと火花をあげ始める。
あわや希少な龍人から回転火だるまに成り果てる寸前、ヒュノリメスに天啓が落ちた。
「カイがキスしてきたということは、あやつも妾に親愛の情を抱いているということか!!!!!」
ヒュノリメスの視界がパァッと開いた気がした。
「そうかそうか!あやつも妾に親愛の情を…!!ムフフフ」
途端ヒュノリメスは回転火だるまになりかけていたのを微塵も感じさせないほど、堂々と短い腕を前で組み、空中で高らかに無い胸を張った。
それならば!!!
やはり自分はカイに親愛の情を返してやらねば!!
それが主君たる者の務め!!!!
キスを受けるとあんなに恥ずかしくなるのは誤算であった。
だがしかし!!
誇り高き龍人ならば、その恥にいつまでも耽って大切な情を伝えぬなどあってはならぬのだ!!!
「そして妾からのキスに、カイも恥ずかしさで、ぐるぐるすれば良いのだ!!!!!」
自分ばっかり悔しい!という本音を隠しきれない小さな龍は「はーはっはっはっはぁ!!!」と高笑いを上げながらカイの元へと転移した。
した。
したのだが、
「…………」
先ほどの高笑いはなりをひそめ、ヒュノリメスは物陰にひっそりと隠れていた。
柱の向こうではカイが同僚と会話をしている。
こちらには、気づいていない。
今ならいける。
(よしっ!!)と、一歩踏み出したところで、不意にカイがヒュノリメスの方を振り向いた。
「おい、ヒュノ――」
「ひゃああぁぁぁぁ…」
「……は?」
ヒュノリメスは一目散に逃げ出した。
「何故じゃ何故じゃ!これではカイに、ぐるぐるさせてやることができぬではないか!」
もはや労い云々の建前も忘れて、ヒュノリメスはまたもや視界をぐるぐるし始めた。
カイの顔を正面から見ると、先ほどのキスがボンっと頭の中に浮かび、ヒュノリメスの顔もボンっと熱を持って、ボンっと走り出してしまうのだ。
けれど、それではせっかくの決意が無駄になってしまう。
龍人たる者、一度決めたことは成し遂げねば!
ヒュノリメスは羞恥で滲む涙をグイッと袖で拭い、再度踵を返した。
いざ行かん!
龍人の誇りを胸に!
カイにキスをするのじゃ!!!
「ひゃあぁぁぁぁ……」
「いい加減にしろよてめぇ!なにがしてぇんだ!!」
カイの怒声が響いたが、そんなことヒュノリメスだって知りたい。
しかし、そんなヒュノリメスの想いはカイに微塵も伝わらなかった。
なんせ、カイがヒュノリメスに気付けば逃げる。
カイが探すのを止めれば、またどこからともなく顔を覗かせる。
カイが距離を詰めれば、また逃げる。
業を煮やしたカイが瞬発力を生かして、捕獲のための護衛の本気を出したところ、手が届く瞬間にヒュノリメスの姿がふっと掻き消える。
「転移使ってまで、逃げてんじゃねぇ!!!!!」
本日一番のカイの怒声が響き渡ったのは、言うまでもない。
♦︎♦︎♦︎
ヒュノリメスとカイの逃亡劇が繰り広げられた今日という一日も、そろそろ終わりに近づいていた。
陽はとうに沈み、月明かりの下、夜空には無数の星々が煌めく時間。
ヒュノリメスは未だ、カイから逃げ続けていた。
何度試みても、カイを前にするとヒュノリメスは恥ずかしくて仕方ないのだ。
それに、途中からカイが追いかけてくれるのが楽しかったというのもある。
しかし、早くしなければ。
今日という日が終わってしまう。
親愛の情を伝える大事な日は今日だけなのだ。
伝えられずに終わってしまうのは嫌だと、ヒュノリメスはドキドキする胸を抑えてソッと自室の扉を開いた。
扉を開けた先には、寝ずの番の者が来るまで待機しているカイがいる。
こちらに視線を寄越すこともなく、腕を組み、壁に背を預けて瞳を閉じているカイ。
その姿を扉の隙間からチラチラと覗いては、
「やはりダメじゃ!」
とパタンと扉を閉めるヒュノリメス。
いやいや、それもダメだとまた挑戦しようとするヒュノリメスは、意を決してもう一度扉を開ける。
チラチラ。
パタン!
チラチラ
パタン!
チラチ…
「いい加減にしろよ、てめぇ」
「ひょっ!」
閉じかけた扉が、ガッ、と止まった。
見れば、扉の縁をカイの大きな手ががっしりと掴んでいる。
とうとう額に青筋を浮かべたカイが、逃げようとしたヒュノリメスの首根っこをひっ掴んだ。
「ひゃあああ!?」
「ったく!今日一日逃げまわりやがって!言いてぇことがあんなら、言え!」
「は、離すのじゃ!」
「離したらまたてめぇ、逃げんだろ!こんな夜中にほっつき歩かせねぇぞ!!」
じたばたと暴れていたヒュノリメスの動きが、ぴたりと止まった。
そうだ、いつだってカイはこうして自分の身を案じてくれる。
なればこそ、やはり日頃の感謝の気持ちは伝えねば…。
ヒュノリメスは小さな拳をぎゅっと握ると、まるで死地へ赴く戦士のような決死の表情でカイを見上げた。
「……カイ」
「あ?」
「覚悟するのじゃ……!」
「ぁあ゛?」
ちゅっ。
カイがヒュノリメスの目線を自分に合わせるため、持ち上げた瞬間。
ヒュノリメスは小さな両手でカイの顔を掴むと、グイッと近付き、その頬にキスをした。
小さくても、頑強さを誇る龍人。
大人と同じほどの力を持つことを、この時のカイは失念していた。
「………は?」
なにが起きたのか、瞬時に理解できなかったカイはポカンと口を開ける。
その呆けた瞬間、緩んだ手の隙を狙ってヒュノリメスは「ひゃぁぁあああああああ」と叫びながら、真っ赤になった顔を両手で覆い隠して、寝室に飛び込んでいった。
カイは寝室に逃げ込むその姿を、なにも言わずに暫し眺めた。
完全にヒュノリメスの姿が見えなくなった後、何事もなかったかのように部屋を出て、静かに扉を閉める。
そして、
扉を背に預けたまま、ズルズルとその場にしゃがみこんだ。
両手でぐしゃぐしゃと髪を掻きむしり、深く項垂れると、
「あンの、クソ餓鬼……」
と、小さく呟いた。
後に、その夜ヒュノリメスの部屋の前で寝ずの番を務めた者は、こう語ったと言う。
灼熱の焔のようだと称される、カイの赤い髪。
しかしその夜だけは、短い髪から覗く耳までもが、なぜかその髪に負けず劣らず同じ色をしていたと。




