第2巻 第二十四話 旧名の最後の一音
テオは、師匠の背中を思い出した。
雨の朝、門前の石がぬかるみ、旅客の靴が一列に滑っていた。まだ見習いだったテオは、札を読むことだけで頭がいっぱいだった。新しい地名、旧い地名、荷送か人送か。声を間違えれば客が怒り、遅れれば師匠に怒鳴られる。
そのとき師匠は、旅客の列を通したあと、誰にも聞こえないほど小さく言った。
「……ア」
「何ですか」
テオが尋ねると、師匠は門枠を撫でた。
「昔の癖だ。呼び先を確認する。札は新しい名で読む。最後に、古い名の尻だけを落とす。門が二つ返事をしないようにな」
「そんなので、わかるんですか」
「わかるように、昔の門番がやったんだろう」
それは教本にはない。師匠は、やらなくてもいいと言った。だが、混んだ日に札を読み違えそうになると、その一音を口にすると胸が落ち着いた。自分が知っている昔の道まで確かめた気になれた。
師匠が死んだあとも、テオは続けた。
誰にも聞こえないから、問題にならないと思っていた。
いま、東門管理所の裏手にある休憩室で、テオはその話を一息にした。目の前にはミナとレント、門役長がいる。ほかの門役は外で次の試験の準備をしている。誰も椅子へ座らなかった。
「旧名は、ミレアです」
テオは言った。
「いまの札がラグナ東門前でも、昔の待機所の名前を最後に確かめる。『ミレア』の、アだけです。師匠は、昔の門が残っている時のためだって」
「いつからですか」
ミナが聞く。
「配属された日から。最初の誤着の日も」
胸の奥が潰れるように痛んだ。ユナが最後に通った便の札を読む順番を、何度も夢でなぞった。門役長の後ろで補助をした。規定文は口にしていない。なのに、鐘を引く直前、癖で息を落とした。
……ア。
そのあと、膜の向こうから女の子の叫びがした。ユナだったかはわからない。けれど青い案内紐が旧門から見つかった。
「僕が、ユナさんを消しました」
言葉にした瞬間、喉が痛んだ。
「僕が呼んだ。札は違っていたのに、昔の門へ」
門役長が、一歩前へ出る。
「断定するな」
「でも、僕だけ北へ線が」
テオはレントを見る。彼の見たものが、答えではないとわかっている。それでも、あの場で自分の口元から北へ線が伸びたことは、胸に釘のように刺さっていた。
「線は候補です」
レントは、ゆっくり言った。
「テオさんの声だけが原因だと、まだ言えません」
「言わないでください」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
「慰めるために、違うと言わないでください。僕は、言ったんです」
ミナが机の端に置かれた試験板を引き寄せた。さっきまで中止条件が書かれていた板だ。その裏へ、彼女は短く書く。
旧名の最後の一音。
門番の個人慣習。
テオが言った回数。
ほかの門役が言った回数。
「言ったことは、消しません」
ミナは板をテオへ向けた。
「でも、言ったことと、起きたことの間に何があるかは調べます。あなたを罰するためではなく、次の人が同じ癖を持っていても、誰も消えないように」
「次の人なんて」
「います」
門役長が低く言った。
「昔の門を知る者は、わしだけではない。教本に書かれていない手順を、現場で覚えた者もいる」
テオは、門役長の顔を見た。叱られると思っていた。師匠の名を出して、師匠まで悪く言われると思っていた。
けれど門役長は、窓の外の石輪を見ていた。
「わしも、若い頃に聞いたことがある」
休憩室の外で、風が門枠を鳴らした。
テオは手の甲を噛んだ。泣くのを隠すためではない。次の試験で、自分の口が勝手に動かないようにするためだった。
休憩室を出ると、通路の端にリオがいた。試験用の縄をほどき、傷んだところを切り落としている。テオが近づくと、リオの手は止まった。
「ユナに、何を言った」
低い声だった。
「最後に、会った時」
テオは答えられなかった。旅客の列を整えたこと。赤い帽子の娘が子どもの靴紐を結び直していたこと。急げ、と自分が言ったこと。どれも、言えばユナを思い出させる。
「何も」
「何も、じゃないだろ」
リオは立ち上がった。縄の端が床を擦る。
「あいつは、門の前で知らない子を放せない。お前も見ただろ」
「見ました」
「なら、なんで急がせた」
「便が詰まっていたから」
「詰まっていたら、人を押すのか」
テオは俯いた。反論はできない。自分が押したのか、門が押したのか。その違いを話せるほど、いまの自分はきれいではなかった。
そこへ門役長が来た。リオへ怒鳴らず、テオもかばわず、床に落ちた縄を拾った。
「急がせた者だけが悪いなら、俺も悪い」
「門役長は」
「当番表を埋めるため、見習いを補助へ入れた。古い癖を教本に書かず、知っている者だけが口で伝えた。混んだ便で、誰も止めなかった」
門役長は縄のほつれを指で撫でた。
「一人の声にした方が、罰は早い。だが次の見習いも、同じ場所で同じ声を出す」
リオは返事をしなかった。青い縄を一束へまとめ、テオの足元へ置く。
「次の試験、俺は箱を見る」
「うん」
「お前は、声を出すな。出しそうなら、俺が止める」
許すと言われたわけではない。けれど、現場から追い出されなかった。テオは縄を持ち上げ、師匠から聞いた一音を、初めて誰にも言わずに飲み込んだ。
その夜、テオは門役の小部屋で、古い当番帳を開いた。師匠の字は太く、旅客の数と門の開閉刻しか残していない。旧名の一音については、どこにも書いていなかった。
帳面の隅に、門枠の簡単な絵がある。師匠が暇な夜番に描いたらしい。右下の継ぎ手へ、丸が三つ。『ここが鳴る時、先に人を下げる』とだけある。
テオはその頁をノアへ持っていった。
「これも、癖ですか」
「わかりません」
ノアは写しを取りながら言う。
「でも、声だけでなく、門の下を見ていた人がいた証拠にはなります」
師匠の口伝を、師匠一人の秘密のままにしない。テオは初めて、自分のしたこと以外にも、残さなければならないものがあると知った。
だが帳面を閉じると、安心は消えた。あの日の便で、自分が一音を落としたことは消えない。ユナの便が旧経路へ触れた時刻と、自分の息が重なったかもしれないことも消えない。
テオは北門へ行き、柵の外から閉じた石枠を見た。青い案内紐は金具に残っている。妹を待つリオの顔を思い出し、近づく資格がないと思った。
「ここで何をしてる」
門役長が後ろから来た。
「見てます」
「何を」
「僕が開けたかもしれない門を」
門役長はすぐに否定しなかった。
「そう思うなら、見ろ。ただし、思ったことを答えにするな」
石枠は黙っている。声が届いたのか、継ぎ手が残っていたのか、札の外に何があったのか。怖いのは、自分が原因だったと知ることだけではない。原因が自分一人でないなら、まだどこかの門番が、知らずに同じ道を開くことだった。
テオは青糸の位置、鈴の傷、石の下の黒い粉を紙へ写した。告白は終わりではない。次に誰が通る前に、確かめることの始まりだった。
遠くで、治癒院へ向かう車輪が鳴った。ユナが戻らない間にも、別の人が薬を待っている。自分の告白だけで、町の時間を止められないことが、テオにはつらかった。だから紙を置き、北門の柵を補強する兵へ釘を渡した。声を失敗の理由として抱えたままでも、次に人が近づかないための手は動かせる。
テオは青糸の結び目を見つめた。自分があの便で息を落とさなければ、ユナは別の門へ着いたのかもしれない。けれど、もし声だけでなかったなら、次の便で別の誰かが同じ場所に落ちる。怖さを理由に、紙から目を背けるわけにはいかなかった。
門役長は何も褒めなかった。ただ、北門の記録紙を半分に折り、テオの上着のポケットへ入れた。次の夜番で石が鳴ったら、ひとりで抱えずこの紙に時刻を書くためだ。テオは紙の角を握り、頷いた。
帰り際、テオは一度だけ石枠へ頭を下げた。ユナへではない。自分の言葉だけで、向こうにいる誰かの行き先を決めたと思い込んだ、あの日の自分へだった。次は、わからないものをわからないまま、皆へ渡す。
北の森は暗くなり、青い糸だけが石に残った。テオは次の見張りへ、その結び目の形まで伝えた。
紙には、時刻と風向きも添えた。師匠なら口で済ませたことを、テオは手を痛めながら書いた。




