第2巻 第二十一話 失敗荷第一号
薬箱の蓋を閉じる音は、思ったより軽かった。
中身は砂を詰めた布袋だけである。本物の薬は、石造りの治癒院の冷所から出していない。ディーンが差し出した薬箱と同じ樫箱、同じ縄、同じ重さにしたが、患者の分まで試験に賭けるわけにはいかなかった。
「封は同じです。重さも、薬師さんがいつも送る時と同じにしました」
ミナは箱の鉄留めへ白い蝋を垂らし、治癒院の印を押した。荷役のリオが箱を持ち上げ、二度だけ腕を沈める。
「いつもの薬箱より、半刻ぶん軽い」
「瓶を一つ減らしました」
「それなら、通った先で気づける」
軽さまで覚えていることに、ミナは少し救われた。札の文字だけで荷を扱わない人がいる。だからこそ、札の外にあるものを、今度は勝手に足させないようにしなければならない。
東門の石輪の前には、試験に必要な人だけがいる。門役長、リオ、ノア、ガルド、それからセラの兵二名。旅客用の広場には柵が張られ、誰も近づけない。北の旧巡礼門にも見張りが立ち、伝声石は双方で開いたままだった。
「中止の条件を読んでください」
ミナが言うと、門役長は札ではなく、横に置いた短い板を持ち上げた。
「行き先以外の門が光った時。到着側が箱を確認する前に、白の残留灯がついた時。冷却灯が消えた時。荷の重さが約定から外れた時。どれか一つで、綱を離し、石輪から離れる」
「あと一つ」
リオが板を指した。
「呼び鈴です。外から鳴ったら」
門役長は一瞬、口を閉じた。
「……外から呼び鈴が鳴った時も、中止」
誰かが忘れても、別の誰かが言えるようになっている。ミナは板の下へ小さく線を引いた。先に止める理由を決めておくのは、弱気だからではない。止める瞬間に、誰かの顔色を読まずに済むためだった。
札には新しい地名だけが書かれている。
《ラグナ東門前/荷送門一番/治癒院受取》。
旧番号も、青麦の印も、縄の色もない。出発側の王都地下門には、札に書かれた三項目以外を口に出さないよう、ノアが自分で伝文を送った。
『王都地下荷役門、試験荷を確認』
伝声石の向こうの声が、短く響く。
『送り先、ラグナ東門前。荷送門一番。治癒院受取』
東門の門役が、同じ高さ、同じ順で返す。
「受け入れ先、ラグナ東門前。荷送門一番。治癒院受取」
テオは石輪から三歩離れた場所にいた。見習い用の灰色の上着の袖を、両手で握っている。昨夜から一言も頼まれていないのに、何度も唇を閉じては開いていた。
ミナは彼を見なかった。見なければならないのは、彼の表情ではなく、石輪の灯と、箱の行き先だ。
門役長が綱を引いた。
石輪の内側に、薄い膜が張る。青の冷却灯が一つ、二つ、規定の明るさまで上がった。赤の確認灯も点いた。遠隔からの運転信号を受け取っただけだと、ミナは胸の内で繰り返す。
その前に、門を開かない試験を三度している。札を石輪の手前へ近づけただけの一度目は、赤の確認灯だけが点いた。二度目はリオが縄の結びをいつもの黒黄に替え、北の旧巡礼門の白い残留灯が一呼吸だけ明滅した。三度目は縄を外し、王都側の門番号だけを覆ってみた。今度は何も起きなかった。
だが、それで通してよいとは誰も言わなかった。
札、番号、縄、声。どれか一つを変えて静かだったことと、通して安全なことは違う。ミナは試験板の「赤の確認灯だけでは進めない」という行を、指先でなぞった。前世の知識などなくても、赤い灯が点いたから大丈夫だと考える怖さは、この数日で十分に覚えた。
砂袋を詰めた樫箱は、板台の上で低く唸った。リオが縄の端を結び直し、結び目へ短い木札を挟む。箱印は門役長、出発札はノア、到着札は王都側が別に持つ。箱が届いても、三つが合うまで誰も箱を開けない。届かなくても、誰も門の向こうへ追いかけない。
「箱が動いたら、俺が見るのは縄だけです」
リオが言った。
「箱の重さを変えたら、札が合ってても止める」
「私は残光です」
ミナは答えた。
セラは柵の外に立つ兵へ視線を送る。
「私は人の距離。誰かが柵を越えたら、荷が半分でも止める」
門役長は札の端を持ち上げた。
「私は札の差。読んだ文と印の一つでも違えば、綱を離す」
四人の役割は重なっていない。だから、どこか一つでも声が出れば次には進まない。
「荷を」
リオと兵が、薬箱を板台ごと押し出す。
箱の半分が膜へ沈む。
そのとき、北から伝声石の声が割り込んだ。
『旧巡礼門、白の残留灯――』
「中止!」
ミナは叫んだ。
門役長の指が綱から離れる。リオは板台を引き戻そうとした。だが箱は半分まで向こうに入っていた。木の角が石輪の縁へ噛み、砂袋の重みが前へ落ちる。
「支えろ!」
ガルドが台の脚へ肩を入れる。兵が反対側から持ち上げた。膜が震え、冷たい風が広場へ吹き出した。ミナは停止柄を押し込み、術式の流れを切る。青の冷却灯が一つずつ消え、最後に赤の確認灯だけが残った。
それはまだ遠隔の信号を受けているという意味でしかない。
「箱、戻った!」
リオの声で、ミナはようやく息を吐いた。薬箱は石輪のこちら側へ倒れている。蝋印は割れ、蓋が少し浮いた。砂の入った布袋が一つ、板台の隙間から落ちた。
「触らないで。白の残留灯を見て」
箱の留め金の横で、米粒ほどの白い灯が脈打っている。切り離された荷にまだ魔力が残っている。ガルドが手を引き、兵も靴先を下げた。
『旧巡礼門、門面が開いています。こちらへ箱は来ていない』
伝声石の向こうで、見張り兵の声が荒い。
「何が開いたんですか」
『北の石枠です。札もない。中は見えない』
ミナは石輪の外へ出た。中止は間に合った。箱は人のいない場所に残った。そこまでは、決めた通りにできた。
だが、正しい札を使い、余計な言葉を消し、テオを綱から遠ざけても、違う門が先に開いた。
門役長が、破れた蝋印を見つめたまま言った。
「札は正しい」
「はい」
ミナは北を向いた。
「だから、札だけを直しても足りません」
伝声石の向こうで、旧巡礼門の警報鐘が、遅れて一度だけ鳴った。
警報鐘が鳴ると、広場の外で待っていた人々が柵へ寄った。セラの兵が腕を広げ、近づけない。誰かが薬はどうなったと叫び、別の誰かが北の門に人がいるのかと問う。ミナは答えず、まず石輪の足元を指した。
白い残留灯は、まだ箱に残っている。砂袋だけの箱を、薬箱と同じに扱って待つ。リオは手を出しかけ、箱のそばの小石を拾って白い灯へ近づけた。小石の表面が熱を持つまで、彼は距離を測った。
「触れるのは、あと少し待ってからです」
「箱は戻ったんだろう」
「戻った先が、ここで止まっただけです」
ミナは自分の声が冷たく聞こえるのを知っていた。それでも、急がせる声に押されて残った魔力へ触れ、薬箱を割れば、次の試験で何を失うかわからない。白い灯が消えるまで、彼女は箱を見続けた。
やがて灯が薄くなり、完全に消えた。ガルドが革手袋で留め金を開ける。砂袋は八つ。西門の白い粉が、一袋の端にだけ付いている。箱そのものは北へ行かなかったのに、別の門と擦れた痕だけが戻ってきた。
ノアが袋の番号を控え、リオは縄の結びをほどかずに写し取った。失敗した荷も、捨てて次へ進むものではない。何が戻り、何が戻らなかったかを残さなければ、次の箱を人へ替えることになる。
回収後、ミナは砂袋を一つずつ秤へ載せた。八つとも出発時の重さと合う。だが四つ目の袋の縫い目には、北の石枠で見たものと同じ白い粉が入り込んでいた。箱は北へ着かなかった。それでも、どこかで北の側へ触れた痕だけを連れて戻った。
「荷は失っていません。でも、経路は一つではなかった」
中止を告げた自分の声を、ミナは紙へも書いた。何刻に、誰が綱を離し、箱がどの位置で止まったか。失敗を急いで片づけると、次には人が同じ場所へ立つ。中止したところまでを、失敗荷第一号の結果として残した。
リオは粉のついた袋を、ほかの七つと離して布へ包んだ。砂なら替えられる。だが、粉がどこから来たのかを替えることはできない。次の荷を出す前に、北の石枠、西の荷役門、東門の床下を同じ粉で照らし合わせる。その仕事が残った。
ミナは、その袋の番号を赤で囲んだ。次に同じ粉が出た時、箱のせいか門のせいかを比べるために。




