第2巻 第十九話 ミレアの名
ユナは、呼び鈴の綱を結び直した。
石門の内側にある待機室は、村の倉より狭い。最初に着いたとき、十二人の旅客が一斉に声を上げ、子どもが泣き、荷箱が倒れた。いまは床へ毛布を敷き、怪我をした男の足を板で固定し、空いた袋に名前を書いた紙を入れている。
紙をくれたのは、ミレアの娘だった。
「村の名前を書いて」
ユナが頼むと、娘は一度、戸口の外を見た。
「書いても、門は来ないよ」
「来なくても、誰がここにいるか残す」
娘は炭を渡した。
ユナは着いた順に名を書いた。ミレアへ流れ着いた旅客十二人。北の旧巡礼門で保護された十二人とは別で、出発門も着いた時刻も揃っていない。ユナが来る前から待っていた者も、後から白い光に押し出された者もいた。途中で歩けなくなった者二人。その場へ手伝いに来たミレアの村人は、炊き出しを持ってきた女が六人、井戸から水を運んだ男が三人。赤い帽子の男児は、眠るときも青い紐を離さない。
村の名は、紙の一番上に書いた。
ミレア。
書くと、少しだけ怖さが薄れた。どこだか分からない場所ではなくなるわけではない。それでも、知らない人が来たとき、ここにいる人を数えられる。
外では、畑から戻った老人が門の石を叩いている。
「また白くなった」
ユナが出ると、石枠の片側に白い残留灯が浮いていた。昨日は暗かった。村人たちは近づかない。門は昔から、荷を運ぶ日もあれば、何年も石のままの日もあったという。
「開くんですか」
ユナが問う。
「知らない。開くときは、向こうで誰かが名前を呼ぶ」
老人は言った。
「でも最近は、呼ばれなくても開きかける」
ユナは石枠の前へ、到着名簿の紙を置かなかった。門へ何かを渡すのは怖い。代わりに、呼び鈴の綱を内側の金具へ結ぶ。昨日までは切れかけていた綱だ。青い案内紐を添え、子どもでも引ける高さに結び目を作る。
「外から聞こえたら、一回鳴らす」
男児へ言う。
「三回なら?」
「誰かがいるって返事。二回なら、すぐ石から離れる」
それはラグナで覚えた案内の決まりだった。ここで通じるかは分からない。それでも、何もしないより、子どもが一人で綱を引かないようにできる。
怪我をした男が、室内から呼んだ。熱が上がっている。ユナは水を替えに戻る。娘が炭の紙を覗き込み、村人の名も書くよう頼んだ。
「私たちも、迎えに来る人がいるかもしれないから」
ユナは頷いた。字を知らない者の名は、家の印と家族の呼び名を添えた。正しい字かは分からない。聞き直し、隣の人にも確認してもらう。名前を急いで書くほど、後で探せなくなると、案内所で教わった。
そのとき、呼び鈴が鳴った。
一回。
皆が黙る。
もう一回。今度は石の奥から、重い音が返った。
ユナは子どもたちを待機室の壁際へ寄せた。村人へ、門枠に触れないよう手で示す。白の残留灯が、青より明るくなる。
石の内側に、冷たい風が吹いた。
ユナは待機室の入口へ、名簿の写しを二つ作った。一つは袋の中へ。もう一つは、誰かが外へ走ることになったとき渡せるよう、赤い帽子の男児へ預ける。
「読めない」
少年は言った。
「読めなくても、落とさないで。赤い帽子の子が持っていた、と言えばいい」
少年は紙を胸へ押し当てた。ユナは、誰も門へ近づかないことを確認してから、怪我人の水を替える。門の風は一度強くなり、次に止まった。
村の娘が、戸口から外を見ている。
「向こうにも、名前を書く人がいるかな」
「いると思う」
ユナはそう答えた。思う、としか言えない。それでも、名簿を二つにした手は止めなかった。
石の内側から、今度は鈴ではない、乾いた金属音がした。
風が止まったあとも、ユナは眠らなかった。怪我人の額へ濡れ布を替え、待機室の水瓶が半分を切ったことを数える。村の娘と一緒に、朝に井戸へ行く者、子どもと残る者を決めた。村の人が自分たちの名を言うたび、紙の上のミレアは少しずつ家のある場所になった。
老人は夜半、門の外へ木槌を持って座った。石が動き出したら、近づく者を止めるためだという。ユナは案内紐の結び目を確かめ、二回の鈴なら全員を壁へ寄せると繰り返した。
誰も救助を待つだけではなかった。水を残し、名前を書き、子どもを門から離す。その小さな仕事が続く限り、ここへいる人を、次に来る誰かへ渡せる。
石の内側が、ふいに青白く瞬いた。
夜明け前、怪我人の熱は少し下がった。ユナは村の女から煎じた葉を受け取り、量を間違えないよう、飲ませた時刻を名簿の端へ書く。薬師ではない自分が治したと書かない。水を替えたこと、葉を煎じたのが誰か、熱がどれほどだったかだけを残す。
村の娘は、旅客の靴を一足ずつ並べ直した。誰が歩けるか、片方をなくした子がいるかを分けるためだ。ユナはその横で、次に鈴が鳴ったら運べる者と、壁際で待つ者を決めた。人の順番を決めるのは怖い。けれど、急に門が開けば、皆が一度に駆けて転ぶ。
赤い帽子の男児は、名簿の袋を抱えたまま眠っている。ユナは袋を取り上げず、首から下げた青紐へ結び直した。走るとき両手が使えるように。
門の前の老人が、外から聞こえる風の向きを示した。村の外へ通じる山道ではなく、石の向こうから冷たい風が来る。ユナは誰も石へ近づかせず、呼び鈴の綱だけを見た。
その綱が、誰の手もないのに、ゆっくり揺れた。
朝の水汲みでは、村の娘が桶を二つ持った。ユナは一つを取ろうとしたが、娘は首を振る。
「あなたは中の人を見て」
待機室では怪我人が目を覚まし、足の痛みで声を上げた。ユナは名簿の端に、歩けない者へ丸を付ける。村の女が粥を運び、子どもたちは壁際で靴を履いたまま待つ。門が開いても、走る者と支える者がぶつからないように。
老人は門前の石へ白墨で線を引いた。線より内へ入らない。誰かが鈴を聞いて駆け出しても、そこで止まるための線だ。ユナは青紐の結び目を一つ増やし、男児の首から名簿が抜けないか確かめる。
昼、負傷した男の熱がまた上がった。村の女が煎じ薬を作る間、ユナは旅客の一人へ水を汲む順番を頼んだ。誰が手伝えるかを、年齢だけで決めない。足の痛い者、子を抱く者、昨夜眠らなかった者を外す。自分が案内役だからと全部を抱えれば、怪我人の薬の時刻まで抜ける。
村の娘は名簿へ、村人の家印を足していった。字の読めない老婆が、自分の家の印を指で描く。ユナは紙へ写し、隣の娘に見せて確かめる。名を間違えても、印があれば家族が探せるかもしれない。
石門が鳴るたび、子どもたちは息を止めた。ユナは一度、鈴を鳴らさずに綱の端を握り、結び目が切れていないか確かめた。門の返事を求めるためではない。次に外から本物の合図が来たとき、綱が抜けて子どもが石へ走らないようにするためだ。
老人は白墨の線をもう一本、待機室の中へ引いた。歩けない者をその線の内側へ置く。門が開いて風が吸い込むように吹いても、転ばないように。ユナは名簿を赤い帽子の男児から受け取り、二枚へ分ける。一枚は男児の首へ戻し、一枚は村の娘へ渡した。
「もし私がいなくなっても、続きは書いて」
娘は頷かなかった。紙を握り、先に負傷者の名へ薬の時刻を書き足した。
夕方、村の女たちは待機室の外で干し草を集めた。夜に冷えれば、負傷者の足が痛む。ユナは子どもを外へ出さず、娘へ干し草の束数だけを聞く。手伝いたい子へは、名簿の紙を押さえる仕事を渡した。
赤い帽子の男児は、炭で自分の名の横に丸を描いた。字が読めないなりに、ここにいる印を残したいらしい。ユナは止めず、同じ丸をもう一枚の名簿へ写した。
負傷者は水を飲み、かすれた声で自分の到着門を言った。ユナは聞き取れたところだけ書き、分からない字は空けた。推測で埋めれば、助けに来る人を違う門へ向かわせる。
石門の風が止むと、村は急に静かになった。静かだから安全だとは言わない。老人は木槌を持ったまま座り、ユナは子どもたちの靴紐を結び直す。朝になれば、また水と薬と名前の順番を始めるために。
夜番の村人が、待機室の戸口へランプを吊った。門が白く光ったとき、子どもが暗い隅へ逃げ込んで踏まれないようにするためだ。ユナはランプの蓄魔がいつ切れるかを聞き、予備の蝋燭を二本、名簿の袋とは別の棚へ置いた。
旅客の女が、家に残した母の名を何度も口にした。ユナは帰れるとは言わず、女の名の横へ「南門から来た。母は西通り」と書く。迎えが来たとき、どこへ知らせるかを失くさないために。
村の娘はその文字を見て、自分の家族の名も書いた。台帳にない村の人も、待つ相手のいる人だった。紙に並ぶ名が増えるほど、門を勢いで開ける怖さも増す。
ユナは呼び鈴の綱から手を離し、子どもたちの間へ戻った。
ランプの油が減ると、村の娘は芯を短くした。明るさを少し落とし、朝まで持たせる。ユナはその手元を見て、門が開くかどうかとは別に、夜を越すための手が村にあると知った。
負傷者は眠り、子どもたちは靴を抱えたまま丸くなる。ユナは名簿を膝へ置き、書き漏らした者がいないか、娘と順に指でたどった。迎えが来る前に、ここにいた人を取り違えないために。
夜明けの前、ユナは赤い帽子の男児へ水を一口だけ飲ませた。名簿の袋が重くて首が痛くないかを聞くと、少年は首を振る。
「これ、落とさない」
ユナは笑わず、紐を少し緩めた。子どもが守るには重すぎる物を預けたままにしないためだ。名簿の片方は、村の娘の棚へ置く。人が一人で紙ごと門へ向かわないように。
村の門が、また勝手に開こうとしていた。




