第十二話 夜の塔
夜の塔には、昼とは別の顔があった。市場の灯が一つずつ消え、工房の炉が弱まる。流路圧は下がり、水輪の音も穏やかになる。
代わりに、人が減った。
昼は五人いた結界庁員が、夕鐘を境に二人になる。深夜は一人。その一人も、北塔と鐘楼と南塔の三か所を巡回する。
「同時に異常が起きたら?」
蓮人が尋ねる。
夜勤の術師は苦笑した。三十代半ばの男で、名をエドといった。
「起きないことになっています」
「手順上?」
「人員上です」
冗談の形をしていた。
笑えなかった。
エドの右袖には、小麦粉が白く付いていた。夕食を取る暇がなく、家から持たされたパンを歩きながら食べてきたという。
「妻が共同厨房で働いています。昼の揺れで小僧が火傷したと聞いて、迎えに行きたかったんですが」
「交代を頼める人は」
「そのための交代者が私です」
前の夜勤者には、熱を出した娘がいた。日報を届けた足で薬師へ寄ることになり、エドが鐘楼確認まで引き受けた。勤務表には三十分の空白としか書かれていない。その内側には、病気の子どもと、帰れない親と、代わりのいない塔があった。
「呼び出せる人は」
「主任とミナです」
「ミナさんは朝の始動担当ですよね」
「近くに住んでいるから」
ミナは反論しなかった。
蓮人は勤務表を見せてもらった。夕刻から深夜へ交代する時間に、三十分の空白がある。
「この間は誰が塔に?」
「夕勤は日報を代官庁へ届ける。夜勤は先に鐘楼を確認してから来る」
「塔は無人?」
「規定では、遠隔確認灯を守備隊が見ています」
「赤い灯ですね」
「そうです。運転信号を受けると赤く点きます。炉心の正常色は青ですが、ここからは見えません」
結界が消えている間も、信号受理だけを示した灯。塔に人がいない三十分間、町はあの灯だけを見ている。
「鐘楼まで、走ってどれくらいですか」
「平時なら百八十。雨ならもっと。北通りに荷車があれば迂回します」
蓮人たちは実際に歩いた。北塔の内扉を閉め、坂を下り、穀物倉の角を曲がる。夜の市場では片づけ中の荷車が道幅の半分を塞いでいた。鐘楼の階段は狭く、すれ違うにはどちらかが踊り場まで戻らなければならない。
急いで二百三十。鐘楼の灯を読み、金具を見て北塔へ戻れば五百を超える。水輪が止まってから炉心色が変わるまでの時間とは、比べるまでもなかった。
「遠隔確認があるから一人で回れる、ではないですね」
蓮人が言うと、エドは赤い灯を見上げた。
「一人で回すために、あれを信用するしかなかったんです」
「過去の十六件は、何時に起きています?」
ミナとガルドの記録を確認する。
時刻がわかるものは十二件。
うち八件が、夕勤と夜勤の交代時間に集中していた。
「誰も見ていないから、その時間に起きたように見えるだけかもしれません」
ミナが言う。
「逆です」
蓮人は答えた。
「誰も見ていない時間の異常は、もっと多かった可能性があります。気づいた八件だけ残った」
「では、今夜はここで見ますか」
「見ましょう。ただし、観察者がいることで普段と手順が変わらないように」
エドには通常通り交代してもらう。
夕勤が日報を持って出る。
夜勤は鐘楼へ向かう。
北塔に、蓮人、ミナ、ガルドの三人だけが残った。
正式には無人の時間だ。
待つあいだ、ミナが布包みを開いた。固い黒パン、塩漬けの豆、冷めた芋が四つ。エドの妻が「塔にいる人数がわからないから」と多めに持たせた夜食だった。
「ガルドさんも」
「いらん」
「四人分あります」
「エドの分だろう」
「帰ってくるまで残します。これは余った一人分です」
ガルドは、余ったという言葉なら受け取れるらしい。芋を一つ取り、工具箱へ腰を下ろした。
蓮人は黒パンを噛んだ。固く、少し酸っぱい。前世では障害対応の夜、誰かが買った菓子パンを画面から目を離さず食べた。味を覚えていない。いまは水輪の低い音と、豆の塩辛さと、向かいでミナが眠気をこらえている顔がわかる。
「朝番の前も、夜食を食べるんですか」
「呼び出しがなければ寝ます」
「呼び出しは」
「今月は十一回です」
ミナは何でもない数字のように答えた。朝番を百八十五日続け、その合間に十一回の夜間呼び出し。正確な記録を残した手が、休めた日数は記録されていない。
「次の勤務表には、休んだ時間も書きましょう」
蓮人が言うと、ガルドが芋の皮をむきながら鼻を鳴らした。
「休みを記録しても、人は増えねえ」
「増やす必要があると、隠せなくなります」
ガルドは返事をしなかった。だが二つ目の芋には手を伸ばさなかった。エドの分を残したのだと、蓮人はあとで気づいた。
最初の十分、変化はなかった。
流路圧、六十八。
炉心色、青。
水輪音、平常。
十五分後、上階で小さな音がした。鐘楼確認を終えたエドが戻ってきたのは、その直前だった。息を切らし、片手には使わなかった夜食の包みを持っている。
「娘さんは」
蓮人が尋ねる。
「薬師が来ました。熱は下がり始めたそうです」
ミナが残しておいた芋を渡すと、エドはガルドを見た。皮がむかれずに残っている一つだけ、まだ温かい。
「親方が残したんですか」
「数を間違えただけだ」
ガルドは壁へ向いたまま答えた。エドは芋を半分に割り、ミナへ戻した。
「朝番までいるんでしょう」
「私は食べました」
「夜中に一度食べたら、朝まで腹が減らない決まりはありません」
半分ずつ食べる。仕事の分担は決まっていないのに、夜食だけは誰か一人の分を削らず分けられた。
蓮人は勤務表の余白へ、今夜実際に要した移動時間を書いてもらった。鐘楼往復二百三十。日報受渡し六十。薬師への伝言は勤務外として記録されていない。
「家庭事情まで運転簿へ書くんですか」
「病名は要りません。交代が遅れる可能性と、代わりを呼べるかだけでいい。誰かの家族が病気になることを、異常事態にしないためです」
エドは笑わなかったが、翌週の勤務表に自分以外の呼出先を書くと約束した。紙をめくるような、かすかな擦過音。
「何ですか」
蓮人が問う。
「認証紋の切替だ」
ガルドが答える。
「昼の利用者権限から、夜間権限へ変わる」
「誰が操作を?」
「自動だ」
その直後、図面にない管が震えた。
一度。
二度。
流路圧は六十八のまま。
出口管の音が細くなる。
「入口は変わっていません」
ミナが言う。
「出口だけが絞られている」
蓮人が壁へ手を置いた。
淡い線が現れる。
今度は消えない。
水輪。
第三の管。
夜間認証紋。
鐘楼の確認灯。
四つが一つの輪としてつながっている。線の途中に、黒く欠けた場所があった。蓮人には、それが故障なのか、未確認なのか判断できない。
「ミナさん。夜間認証へ変わると、誰の権限が外れます?」
「市場、工房、一般住宅。残るのは守備隊、治癒院、代官庁、結界庁」
「迎賓館は?」
ミナが認証台帳を開く。
「代官庁の付属施設として、残ります」
「使われていない期間も?」
「はい」
夜になり、町の負荷は下がる。だが迎賓館の流路だけは切れない。そのとき、流路圧に変化がないまま出口が絞られる。
「第三の管は、迎賓館の供給を優先するための迂回路じゃないですか」
ガルドの顔がこわばった。
「違う」
「では何です」
「聞くな」
「聞かなければ、明日の夜に同じことが起きます」
「知ったところで、お前にはどうにもできねえ」
水輪の音が止まった。
昨日と同じ静寂。
測定石は緑。
流路圧は六十八。
鐘楼の確認灯も赤。
炉心色と流路圧は規定内で、確認灯は運転信号の受理を示している。ミナが補助流路へ走ろうとした。
「待って」
蓮人は止めた。
「何秒もつか測るんですか」
「違います。停止した順番を確認します。炉心色が紫へ変わる前に、ガルドさんの合図で補助流路を開ける」
危険を放置するのではない。
安全限界を決め、その内側で現象を見る。
ミナは確認石を握った。
「停止後五秒。北塔出力、変化なし。炉心、青」
「十秒。出口管、無音」
ガルドが金属棒で聞く。
「十五秒。炉心、青紫」
「補助流路を」
ガルドが弁を開く。
水輪が再び回り出した。
同時に、上階で金属音が鳴る。
ちん。
鐘楼の確認灯が、一瞬だけ赤から白へ変わった。
ミナが息をのむ。
「いまのは、警報伝達試験の色です」
「水輪が止まったことを、確認灯は知っている?」
「でも、赤へ戻りました。警報は鳴っていません」
異常を検知できていないのではない。
一度は検知している。
その情報が、警報になる前に消されている。蓮人の目に、線がはっきりと見えた。
水輪から確認灯へ向かう線。
その途中へ、第三の管から伸びた別の線が割り込んでいる。正常を知らせるための信号が、異常の知らせを上書きしていた。結論を出す前に、三か所の時刻を照合した。
鐘楼では、守備隊員が白灯へ変わった時刻を鐘の欠けた音で覚えていた。迎賓館では、ノアが正常信号の受信板へ一瞬だけ強い光が走った記録を見つける。北塔ではミナが、水輪停止から白灯まで十五秒、白灯から赤へ戻るまで四秒と読んでいた。
同じ四秒に重なる事実は三つ。第三の管の振動、迎賓館からの正常信号、確認灯が赤へ戻る変化。
「認証切替だけが原因なら、迎賓館の受信板が強くなる理由がありません」
ノアが言う。
「水輪の故障だけなら、赤へ戻る理由がない」
ミナが続く。
ガルドは第三の管へ金属棒を当て、流れているものが水ではないことを確かめた。
「音がない。こいつは細い魔力線を保護する鞘だ」
蓮人の視界に残る線は、ようやく一つの説明と重なった。ただし、それでも弁の場所までは示さない。迎賓館側のどの設備が信号を送るかもわからない。
「見えた線が正しかった、ではありません」
蓮人はノアの三列表へ言葉を足してもらった。
「観測と記録とガルドさんの確認が、同じ候補を残した。俺が見ていない迎賓館内部のことは、まだ線にも答えにもできません」
頭痛は弱くなっていた。候補を減らす作業を他人へ渡すと、視界の光も少し薄くなった。
問題は水輪だけではない。
町を守る警報そのものが、誰かの都合で「正常」を作っている。




