【7/5後日談追加】婚約者様の正解は、義妹なのでしょう?
「今日はまた、ずいぶん地味な装いだな」
小客間の窓辺に立っていたレオナール・ラグランジュは、ミレイユ・ヴァルデンを見るなり、挨拶より先に眉をひそめた。
「織物商会の令嬢が聞いて呆れる。もっとましなものはなかったのか」
「伯爵夫人とのお茶ですので、落ち着いたものを選びました」
「華がないことを、ずいぶん都合よく言い換えるな」
レオナールはミレイユのドレスを上から下まで眺め、鼻で笑った。
「飾りも少なすぎる。伯爵家へ嫁ぐ令嬢が、いつまでも貧しい家の娘のような格好をしていては困る」
ミレイユが身につけているのは、澄んだ青緑色のドレスだった。
春らしい軽やかさを残しながら、ミレイユの黒い髪と白い肌を鮮やかに引き立てている。
季節にも、伯爵夫人との茶会にもふさわしいものを選んだつもりだった。
けれど、レオナールにとっては、そんなことは関係ないのだろう。
「セレスティーヌを少しは見習ったらどうだ」
レオナールは窓枠に片手を置いたまま、呆れたようにミレイユを見た。
「あの子は今日も、春らしい華やかな装いをしている。明るい色の選び方も、宝石の合わせ方も心得ている。君とは大違いだ」
「わたくしには、こちらの色が似合うと思ったのですが」
「自分でそう思っているだけだろう」
レオナールは小さく息を吐いた。
「君は何でも、自分の好みに合っていれば、それでいいと思っている。もう少し、人からどう見えるかも考えたらどうだ」
ミレイユは胸の内で、そっと息を吐いた。
このようなやり取りを、これまで何度繰り返しただろう。
彼の好む明るい色を選べば、顔色が悪く見えると言われる。飾りを増やせば品がないと嗤われ、控えめにすれば、今のように華がないと馬鹿にされる。
何を選んだところで、正解などない。
「レオナール様にとっての正解は、セレスティーヌ様ですものね」
レオナールの眉がぴくりと動いた。
「何を拗ねている」
「そう聞こえましたので、思ったことを申し上げただけです」
レオナールの眉間に、浅い皺が寄った。
「人が忠告しているのに、そんなふうにひねくれて受け取るような女だとは思わなかった」
「では、レオナール様は、これまで一度でもわたくしをお褒めになったことがございますか?」
レオナールは口を開きかけ、そのまま黙った。
実際、彼がミレイユを褒めたことは一度もなかった。
婚約してから五年の間、ただの一度も。
ミレイユはしばらく答えを待ったが、レオナールは気まずそうに視線を逸らすだけだった。
「それより、レオナール様」
ミレイユは話を切り替えた。
「今度のグラシア侯爵家の夜会についてですが、当日は何時ごろお迎えに来てくださるのでしょうか」
グラシア侯爵家は、長年ヴァルデン家の織物を贔屓にしてくれている。
同時に、ラグランジュ家が扱う染料の大口の顧客でもあった。
今回の招待状にも、婚約者であるレオナールとともに来てほしいと記されている。当日は二人揃って侯爵夫妻へ挨拶し、両家の結びつきを示すことになるはずだった。
ところが、レオナールは何でもないことのように答えた。
「ああ。そのことだが、今回は迎えには行けない」
「何かご予定がございますの?」
「セレスティーヌを連れていくことになった」
「……セレスティーヌ様を、ですか?」
「あの子も侯爵家から招待を受けている。久しぶりの夜会だから、俺にエスコートしてほしいそうだ」
「では……わたくしはどうすればよろしいのでしょう」
「父君と来ればいいだろう」
あまりにも当然のように言われ、ミレイユは一瞬、言葉を失った。
それは本来、セレスティーヌへ向けるべき言葉ではないのだろうか。
「招待状には、レオナール様とともにと記されております」
「別々に入場したところで、同じ夜会には出席するんだ。問題はない」
「……婚約者より、セレスティーヌ様を優先されるのですね」
「妹が兄に頼っているのに、断れというのか」
「ええ、そうです」
「何?」
「普通は、断るべきです」
レオナールが固まった。
まさかミレイユから、はっきりと否定されるとは思っていなかったのだろう。
その時、小客間の扉が叩かれた。
「ミレイユ様。奥様がお待ちでございます」
扉の向こうから、侍女の声がした。
「ただいま参ります」
ミレイユは立ち上がり、レオナールへ向き直った。
「では、レオナール様。失礼いたします」
「待て。話はまだ――」
ミレイユは一礼すると、レオナールが言葉を続けるより先に、小客間をあとにした。
◆
茶会の席には、三つの丸卓が用意されていた。
中央の卓には伯爵夫人と年長の夫人たちが座り、その左右の卓を若い令嬢たちが囲んでいる。
ミレイユが案内されたのは、窓に近い方の卓だった。
隣にはセレスティーヌ・ラグランジュが座り、向かいには二人の令嬢がいる。
茶が注がれるのを待つ間、中央の卓から伯爵夫人たちの会話がかすかに聞こえてきた。
「そういえば、アドリアン様がもうすぐお戻りになるそうですわね」
「ええ。領地の管理を任せておりましたの」
伯爵夫人の穏やかな声が続く。
「療養も兼ねて長く滞在していたのですけれど、今月末には王都へ戻る予定ですわ」
「それは楽しみですこと。ずいぶんお久しぶりでしょう?」
「三年になりますわね。それで――」
「レオナール兄様ったら、とてもお優しいのよ」
弾んだ声に、ミレイユの意識が隣へ向いた。
セレスティーヌが、向かいの令嬢たちへ楽しげに話している。
淡い桃色のドレスに、真珠の髪飾り。明るい金色の髪によく映える、春らしい装いだった。
彼女はラグランジュ伯爵家の養女である。
実母は、かつて伯爵夫人に仕えていた侍女だったという。幼くして両親を亡くしたセレスティーヌを伯爵夫妻が引き取り、実の娘同然に育ててきた。
レオナールと彼女は、幼い頃から兄妹として過ごしている。
「今度のグラシア侯爵家の夜会で、兄様がわたくしをエスコートしてくださることになりましたの」
「まあ、レオナール様が?」
「ええ。不安だと申し上げたら、ご一緒してくださると」
セレスティーヌは頬をほころばせた。
「ドレスの色まで相談に乗ってくださったのよ。兄様が、わたくしには青が似合うとおっしゃって」
「青ですか? たしかにセレスティーヌ様にお似合いですね」
「ありがとうございます。兄様も、わたくしの髪には青が一番映えると、昔からおっしゃるの」
セレスティーヌは、明るい金色の髪へそっと指を添えた。
「兄様も当日は濃い青をお召しになるそうですけれど、わたくしはもう少し明るい青にしようと思っていますの」
「それでは、お二人で並ぶとよく映えそうですわね」
「まあ、そう見えるかしら」
セレスティーヌは、今初めて気づいたように目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「そこまでは考えておりませんでしたわ」
向かいに座る令嬢の一人が、気まずそうにミレイユへ視線を向ける。
「けれど、ミレイユ様は……」
「ああ、ミレイユ様はお父様といらっしゃるのでしょう?」
セレスティーヌは、こともなげに言った。
「兄様が、そのようにおっしゃっていましたもの。そうですわよね、ミレイユ様?」
ミレイユは、カップを静かに受け皿へ戻した。
「レオナール様は、そのようにおっしゃっていたのですね」
セレスティーヌの笑みが、わずかに止まった。
「……ええ。兄様から、そう伺いましたわ。ミレイユ様は聞いていませんでしたの?」
「先ほど、わたくしも伺ったところです」
「そうでしたの。では、もうお話は済んでいらしたのですね」
「お話を伺っただけです。承知したとは申し上げておりません」
セレスティーヌが、ゆっくりと目を瞬いた。
「グラシア侯爵家は、ヴァルデン家とラグランジュ家の双方がお世話になっているお家ですから」
ミレイユは続けた。
「レオナール様には、わたくしと一緒に伺うべきだとお伝えしました」
向かいの令嬢たちが、顔を見合わせた。
セレスティーヌはしばらく黙っていたが、やがて悲しげに目を伏せた。
「そのようにおっしゃらなくても……ミレイユ様が、そこまで冷たい方だとは思いませんでしたわ」
声がかすかに震える。
「わたくしは、ただ兄様を頼っただけですのに……そのように迷惑な者のように思われてしまうなんて……」
向かいの令嬢の一人が、困ったように口を開いた。
「セレスティーヌ様も、悪気があったわけでは……」
これも、いつものことだった。
セレスティーヌが目を伏せ、声を震わせれば、ミレイユが彼女を責め立てているように見える。
実の子ではないことを気にしながら、懸命に伯爵令嬢として振る舞っている健気な養女。
周囲はいつも、そのように受け取った。
以前、伯爵家の園遊会でも同じことがあった。
セレスティーヌが、知り合いの少ない席では心細いと訴えたため、レオナールは婚約者であるミレイユを置いて、半日のほとんどを彼女のそばで過ごした。
帰り際、ミレイユが苦言を呈すると、レオナールは呆れたように言った。
『君には話し相手がいくらでもいただろう。あの子は違う。少しくらい譲ってやる寛容さはないのか』
舞踏会では、ミレイユと踊るはずだった最初の一曲を、セレスティーヌに譲った。
観劇では、ミレイユのために用意されていた席へ、行きたいと言い出したセレスティーヌを座らせた。
いつも、レオナールがセレスティーヌを優先する。
そしてミレイユが不満を口にすれば、寛容さのない、器量の狭い女にされるのだ。
ミレイユは、隣に座るセレスティーヌへ視線を向けた。
「セレスティーヌ様。レオナール様には、わたくしと出席していただきたいと申し上げましたが、納得されていないご様子でした」
「え?」
「セレスティーヌ様をエスコートするおつもりは、変わっていないようです」
「そうですか……」
セレスティーヌは安堵したように息をつき、すぐに口元を引き締めた。
「兄様はお優しい方ですもの。わたくしとの約束を、簡単に違えるような方ではございませんわ」
ミレイユは、紅茶を口にした。
許すとも、譲るとも、ひと言も言ってはいない。
ミレイユが欲しかったのは、その事実だった。
◆
ラグランジュ伯爵邸を辞したミレイユは、まっすぐヴァルデン家の王都邸へ戻った。
王都の貴族街の外れにある、小さな二階建ての屋敷である。
玄関や客間だけを見れば、慎ましい男爵家の邸宅にすぎない。しかし一階の半分は、ヴァルデン家の織物を扱う事務室や見本室として使われていた。
「ミレイユ」
玄関広間を通り過ぎようとしたところで、事務室から出てきた父、ガストン・ヴァルデン男爵に呼び止められた。
「もう戻ったのか。伯爵家の茶会はどうだった?」
「いつもどおりでしたわ」
「そうか……すまないな」
「どうしてお父様が謝るのですか?」
「お前には、ずいぶん我慢をさせている」
「お父様が謝ることではございません」
ミレイユは首を振った。
「領地の職人たちと、ヴァルデン家の商売を守るための婚約でしょう。わたくしも納得してお受けしたのです」
「しかしな……」
「伯爵閣下は、我が家の織物を正当に評価してくださっています。お父様の判断が間違っていたわけではありませんわ」
問題なのは、レオナールだけだ。
そう付け加えることはしなかった。
ヴァルデン家の領地では、薄く滑らかな布を織る技術が代々受け継がれている。
その品質は王都の仕立て屋からも高く評価されていたが、熟練した職人と多くの手間を必要とするうえ、鮮やかで色あせにくい染料は高価だった。
良質な布を織ることはできても、貴族が望む色へ仕上げるまでに費用がかかり、ヴァルデン家に残る利益は少ない。
その問題を解決するために結ばれたのが、ラグランジュ伯爵家との婚約だった。
伯爵家は染料の原料が採れる領地と、大規模な染色工房を所有している。
ヴァルデン家は染色費用を抑えられ、ラグランジュ家はヴァルデン家の織物と、王都の仕立て店への販路を利用できる。
本来ならば、双方に利益のある縁組だった。
けれどレオナールは、この婚約を父親たちとはまるで違うものとして捉えていた。
『君の家が今も商売を続けられているのは、うちとの婚約があるからだ』
以前、レオナールはそう言った。
伯爵家の染料を安く仕入れられることで、ヴァルデン家が助かっているのは事実である。
伯爵家にとっても、ヴァルデン家の織物と、長年かけて築いた販路には十分な価値がある。
父もミレイユも、何度もそう説明した。
だが、彼は聞こうとしなかった。
ラグランジュ家が、貧しい男爵家を一方的に助けている。その思い込みを変えるつもりはないのだろう。
「疲れただろう。今日はもう休みなさい」
「ありがとうございます、お父様」
父と別れたミレイユは、二階にある自室へ戻った。
侍女に着替えを手伝ってもらうと、すぐに机へ向かう。
引き出しから便箋を取り出し、ペン先をインクへ浸した。
「もうっ……酷いのはそっちでしょう……!」
誰もいない机へ向かってこぼし、ミレイユは勢いよくペンを走らせた。
『アドリアン様。
聞いてくださいませ。
本日、わたくしはセレスティーヌ様から、冷たい人間だと言われました――』
アドリアンと手紙を交わすようになったのは、彼が領地へ移った三年前のことだった。
きっかけは、染料についての相談である。
幼い頃から染色に関心を持ち、領地の工房にもたびたび足を運んでいたアドリアンなら、何か知っているかもしれない。
そう考えたミレイユが、新しい色を作れないかと手紙で尋ねたところ、彼は染料の性質や配合について、何枚もの便箋を使って丁寧に答えてくれた。
それをきっかけに、二人は仕事について頻繁に意見を交わすようになった。
やがて手紙には、仕事以外のことも少しずつ書かれるようになった。
レオナールの言葉に腹を立てたこと。
セレスティーヌに約束を譲らされ、悔しかったこと。
伯爵へ訴えれば、きっとレオナールを叱ってくださるだろう。
けれど、いずれラグランジュ家の当主となるのはレオナールだ。
今ここで彼の機嫌を損ねれば、将来、ヴァルデン家との取引を不利なものに変えられるかもしれない。
そう考え、ミレイユはこれまで、不満を胸の内へ呑み込んできた。
面と向かっては誰にも言えないことも、遠く離れたアドリアンへなら素直に書くことができた。
アドリアンは、ミレイユの不満を大げさだと笑うことも、我慢すべきだと諭すこともなかった。
『兄上は、君が最後には折れると思っているのでしょう』
『セレスティーヌも、自分が頼めば兄上が応じると分かっている。二人とも、君の我慢を当然のものとして扱いすぎています』
以前届いた手紙には、そう記されていた。
そして最後には、必ずミレイユを気遣う言葉が添えられている。
『君が間違っているとは、私は思いません』
その短い一文を読むだけで、胸のつかえが少し軽くなった。
アドリアンへ手紙を書くことは、いつの頃からか、ミレイユのささやかな気晴らしになっていた。
『今月末には王都へお戻りになると伺いました。
お会いできる日を楽しみにしております』
最後にそう書き添え、ミレイユは便箋を折った。
領地にいるアドリアンへ送る手紙も、これが最後になるかもしれない。
「この手紙をお願い」
「かしこまりました」
封をした手紙を侍女へ渡すと、ミレイユは立ち上がった。
外出用の上着を羽織り、一階の見本室へ向かう。
棚から取り出したのは、色とりどりの布片を束ねた見本帳だった。
青だけでも、空のような淡い色から、夜を思わせる濃い色まで、十種類以上ある。
赤や黄、緑にも、それぞれ明るさや色合いの異なる布が並んでいた。
見本帳を抱えて玄関へ向かうと、再び父と鉢合わせた。
「ミレイユ。また出かけるのか?」
「ええ。ルクレール仕立て店へ行ってまいります」
「伯爵家から戻ったばかりだろう。明日でもいいのではないか?」
「じっとしているより、こちらの方が気が晴れますわ。クレール夫人からも、いつでもいらっしゃいと言っていただいておりますし」
ミレイユが笑うと、父は困ったように眉を下げた。
「無理だけはするなよ」
「分かっております」
ミレイユは見本帳を抱え直した。
父に見送られながら屋敷を出ると、侍女を伴い、ルクレール仕立て店へ向かった。
◆
グラシア侯爵家の夜会が開かれたのは、月末のことだった。
今夜、ミレイユが身につけているのは、茶会の日よりも深い青緑色のドレスだった。
レオナールが迎えに来る気配はなかったため、ミレイユは父ガストンとともに侯爵邸へ向かった。
到着すると、まずは主催者である侯爵夫妻のもとへ挨拶に向かった。
「今夜はお招きいただき、ありがとうございます」
ガストンが頭を下げると、グラシア侯爵は穏やかに笑った。
「よく来てくれた、ヴァルデン男爵」
侯爵夫人も、ミレイユへ微笑みかける。
「ミレイユ様も、ようこそいらっしゃいました。その青緑色がとても素敵ですわ」
「ありがとうございます。夫人のドレスも素敵です。やはり、赤みのある紫がよくお似合いですわ」
「鏡を見た時、自分でも驚きましたわ。同じ紫でも、これまで選んでいたものとは、まるで印象が違うのですもの」
「ええ。お顔も、いつも以上に明るく華やいで見えます」
侯爵夫人は満足そうに微笑んだあと、ふとミレイユの隣へ目を向けた。
「レオナール様とはご一緒ではなかったのですね」
「今夜は、セレスティーヌ様をお連れになるそうです」
「まあ……」
侯爵夫人が、わずかに眉を上げる。
その時、広間の入口から、客の到着を告げる声が響いた。
「ラグランジュ伯爵家、レオナール・ラグランジュ様。セレスティーヌ・ラグランジュ様、ご到着でございます」
侯爵夫人の視線が、広間の入口へ向いた。
ミレイユも振り返る。
開かれた扉の向こうから、レオナールとセレスティーヌが並んで入ってきた。
レオナールは、濃紺の礼装を身につけている。
その腕に手を添えるセレスティーヌのドレスは、明るく鮮やかな青だった。
言っていた通り、二人の装いは青で揃えられ、互いを引き立てるように選ばれていた。
侯爵夫妻の近くにいた者たちが、一斉に口を閉ざした。
婚約者とともに出席するよう招かれていた男が、別の女性と色まで合わせて現れたのだ。
隣に立つガストンも、呆れたように眉をひそめている。
レオナールは、集まった視線を気にする様子もなく、セレスティーヌを伴って侯爵夫妻の前まで進んできた。
「今夜はお招きいただき、ありがとうございます」
レオナールが頭を下げる。
セレスティーヌも、彼の隣で優雅に腰を落とした。
「お招きいただき、光栄でございます」
グラシア侯爵は二人を見て、それからミレイユへ視線を移した。
侯爵夫人が尋ねた。
「レオナール様。今夜は、ミレイユ様とご一緒だと思っておりましたけれど」
「セレスティーヌは、こうした大きな夜会へ出席するのが久しぶりですので」
レオナールは、隣に立つセレスティーヌへ目を向けた。
「心細いと言うものですから、兄である私が付き添うことにいたしました」
セレスティーヌは、レオナールの腕に手を添えたまま、わずかに首を傾げた。
「ミレイユには、父君と来てもらうよう話してあります」
レオナールは、ガストンの隣に立つミレイユへ目を向けた。
「そうだろう、ミレイユ」
ミレイユは、レオナールをまっすぐに見返した。
「確かに、レオナール様はそのようにおっしゃいました。ですが、わたくしは承知しておりません」
レオナールの表情が止まり、セレスティーヌの笑みが固まった。
「君は、反対していただけだろう。最後には分かってくれたのだと思っていた」
「わたくしが、グラシア侯爵家からのご招待を軽んじるとお思いでしたの?」
ミレイユまで了承したことになれば、彼女もグラシア侯爵家の意向を軽んじたと受け取られかねない。
両家の不仲を疑われるかもしれない。
何より、レオナールが婚約者ではない女性を伴うことを、ミレイユ自身が認めたことになる。
「そんな受け取り方をする者はいない。君が意地になって、話を大きくしているだけだ」
「それをお決めになるのは、レオナール様ではなく、わたくしたちをお招きくださった侯爵家です」
グラシア侯爵夫妻は、薄い笑みを浮かべたまま、レオナールとセレスティーヌを見た。
「わたくしどもは、婚約者であるお二人を揃ってお招きしたつもりでしたわ」
侯爵夫人の声は穏やかだったが、目は笑っていなかった。
ミレイユは侯爵夫妻へ向き直った。
「侯爵閣下、侯爵夫人。せっかくお招きいただきましたのに、お見苦しいところをお見せして申し訳ございません」
「ミレイユ様が謝ることではございませんわ」
「ありがとうございます。ですが、これ以上、同じことを繰り返すつもりはございません」
ミレイユはレオナールを見た。
「今宵でよく分かりました。レオナール様は、両家の約束よりも、セレスティーヌ様のお望みを優先なさる方だと」
「一度くらい、妹を優先しただけだろう」
「一度ではございません。そのような方と、家同士の信頼を託す婚約を続けることはできません」
そして、父の隣へ一歩下がった。
「わたくしは、この婚約の解消を望みます」
広間に、小さなどよめきが広がった。
「何を勝手なことを――」
「勝手ではない」
ガストンが娘の隣へ進み出た。
「ヴァルデン家当主として、娘の意思を支持する」
「男爵まで何をおっしゃるのです。こんな些細なことで、家同士の婚約を――」
「娘が五年間耐えてきたことを、些細なこととは呼ばせない」
レオナールは言葉を失った。
グラシア侯爵は、しばらく両家を見比べたあと、頷いた。
「今夜の事情を見る限り、ヴァルデン男爵とミレイユ嬢の判断はもっともだ」
グラシア侯爵がそう告げると、侯爵夫人も頷いた。
「正式なお話は、改めて両家でなさることになるのでしょう」
それから、場の空気を和らげるようにミレイユへ微笑みかける。
「ですが、今夜のミレイユ様は、わたくしたちの大切なお客様です。どうぞこのまま夜会をお楽しみくださいませ」
侯爵夫人は、ミレイユの青緑色のドレスへ目を向けた。
「せっかく、そのように美しいお姿でいらしてくださったのですもの」
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
「ミレイユ! こんな感情的な真似が許されると思っているのか!?」
「それでは、レオナール様。セレスティーヌ様と、今宵をお楽しみくださいませ」
ミレイユは一礼すると、父の腕へ手を添えた。
そのまま、レオナールとセレスティーヌの前を離れる。
十分に距離を取ったところで、ガストンが小さく息を吐いた。
「よく言った」
ミレイユが顔を上げると、父は笑っていた。
「わたくしから申し上げて、よろしかったのでしょうか」
「ああ。聞いていて、胸がすく思いだった」
ミレイユも、小さく笑った。
◆
翌日の午後、ミレイユは父ガストンとともに、ラグランジュ伯爵邸を訪れた。
通された応接室には、すでにラグランジュ伯爵夫妻とレオナールが揃っていた。
挨拶を終えて席へ着くと、ラグランジュ伯爵が口を開いた。
「まず、昨夜の件について、ラグランジュ家当主として謝罪する」
伯爵は、ガストンとミレイユへ深く頭を下げた。
「息子がこれまでミレイユ嬢を蔑ろにしていたことにも、気づくのが遅れた。申し訳なかった」
「父上。あれは誤解です」
レオナールが口を挟んだ。
「私はセレスティーヌをエスコートしただけです。それをミレイユが大げさに――」
「黙れ」
伯爵の一言で、レオナールは口を閉ざした。
「お前は婚約してから五年の間、ミレイユ嬢の容姿や振る舞いを貶し、セレスティーヌと比べ続けたそうだな」
「貶してなどおりません。足りないところを指摘しただけです」
伯爵は、しばらく無言で息子を見つめた。
「お前は今も、それが問題だったと理解していないのだな」
「父上、婚約を解消するのでしたら、ヴァルデン家との取引についても見直すべきです」
「取引を?」
「婚約を前提として、我が家は染料を優先的に卸してきました。婚約がなくなる以上、これまでと同じ条件を維持する理由はありません」
「レオナール」
「婚約を解消するのであれば、これまでどおりの援助を受けられなくなるのは当然でしょう」
「誰が、ヴァルデン家との取引を援助だと教えた?」
「条件を優遇しているのですから、同じことです」
「違います」
その時、応接室の奥にある扉が開いた。
一人の青年が、数冊の書類を抱えて入ってくる。
「アドリアン様……」
三年ぶりに会うアドリアンは、ミレイユの記憶にある姿より、ずいぶんたくましくなっていた。
以前は病み上がりのように細かった頬にも血色が戻り、礼装の上からでも肩回りがしっかりしたことが分かる。
「ヴァルデン男爵、ご無沙汰しております。ミレイユ嬢も、お久しぶりです」
アドリアンは穏やかに微笑み、テーブルへ書類を置いた。
「こちらをご覧ください。今年から始めた新規事業に関する報告書です」
「新規事業?あの試験販売のことか?」
「はい。ミレイユ嬢が考案した、客の肌や髪、瞳の色から似合う色を選び、その色に染めた布を仕立て店へ納める事業です」
レオナールが、テーブルの上の報告書へ目を落とした。
「……注文を受けてから染めるのか」
あらかじめ大量に染めるのではないため、売れ残りが少ない。
客ごとに染料の配合を変えることから、通常より高い価格を設定でき、同じ客からの追加注文も期待できる。
レオナールは報告書に並ぶ数字を追い、鼻で笑った。
「だが、売上は大した額ではないだろう」
「それは試験期間の数字です。すでにルクレール仕立て店との契約は決まっています」
アドリアンは、次の頁を開いた。
「ルクレール仕立て店は、アンリエット王女殿下の御用達でもあります。女主人からこの新しい色選びについてお聞きになった王女殿下からも、一度相談したいとのお話をいただいております」
「王女殿下が……ミレイユに?」
レオナールが、信じられないというようにミレイユを見た。
「ヴァルデン家との契約を望む染料商会は、ほかにもいくつもあります。今ここで取引条件を見直せば、困るのはこちらです」
レオナールの表情が止まった。
伯爵が深く息を吐いた。
「ヴァルデン男爵。婚約は解消するが、取引については、これまでどおり継続させていただきたい」
「我が家としても、伯爵家との取引そのものに不満はございません」
ガストンは答えた。
「ただし、今後レオナール殿を窓口とすることは、お断りいたします」
「当然だ。今後、ヴァルデン家との取引はアドリアンに任せる」
「父上、私を外すおつもりですか」
「それだけではない」
伯爵の前には、工房から届いた報告書と、アドリアンが領地から送った書簡が積まれていた。
「お前を後継者から外す手続きに入る」
レオナールは、意味が分からないというように父を見た。
「……何を、おっしゃっているのです」
「私は、お前を無能だと思っていたわけではない」
伯爵は疲れたように息を吐いた。
「だが、私情で家の利益も信用も投げ捨てるような者に、当主の座を任せられるものか」
「たった一度の判断で?」
「五年間の振る舞いと、昨夜から今までのお前の言動を見て決めた」
伯爵はアドリアンへ視線を移した。
「アドリアン。お前を後継者として立てる手続きを始める。工房に加え、王都の契約も引き継げ」
「承知いたしました」
レオナールは何かを言おうとしたが、言葉が出てこないようだった。
伯爵夫人は青ざめた息子を見つめながらも、夫の決定を止めようとはしなかった。
話し合いを終え、ミレイユが応接室を出ると、廊下の先にセレスティーヌが立っていた。
結果を待っていたのだろう。
彼女は凍りついたように、レオナールのいる応接室を見つめていた。
ミレイユは何も言わず、その前を通り過ぎた。
「ミレイユ嬢」
見送りに出てきたアドリアンに呼ばれ、足を止める。
「改めて、お久しぶりです」
「お元気そうで安心いたしました。以前より、ずいぶん逞しくなられましたね」
「領地では、工房と畑を毎日のように歩き回っていましたから。空気もよかったのでしょう。すっかり丈夫になりました」
アドリアンは少し照れたように笑った。
「伯爵閣下が、レオナール様のこれまでの言動をご存じだったのは、アドリアン様がお伝えになったからですか?」
「ええ。あなたからの手紙を読み返し、父へ報告しました」
「まさか……わたくしの愚痴までお伝えになったのですか?」
「大丈夫です。兄上が何をしたのかだけをまとめました」
「よかった……あれを知られていたら、もう二度と伯爵閣下のお顔をまともに見られないところでしたわ」
「なかなか手厳しいことも書かれていましたからね」
「もうっ……忘れてくださいませ」
「それは難しいお願いです」
アドリアンは楽しそうに笑い、それからミレイユのドレスへ目を向けた。
「その青緑色、とてもよくお似合いです」
今日のドレスも、レオナールが地味だと嗤ったものと同じ系統の青緑色だった。
ミレイユは目を瞬き、わずかに頬を染めて微笑んだ。
「ありがとうございます、アドリアン様」
【後日談】
それから五日後。
ミレイユのもとへ、王都の流行を左右するといわれるサン゠クレール伯爵夫人から、夜会への招待状が届いた。
本来ならば、とうに招待客が決まっている時期である。
グラシア侯爵夫人の装いと、ミレイユが始めた色選びの噂を聞きつけた夫人が、ぜひ一度、直接話を聞きたいと言い、急遽席を用意してくれたのだという。
父は商会との約束があり、同行することができなかった。
そのことを伝えると、伯爵夫人は自家の馬車を寄越し、今夜は自分の客として迎えるとまで申し出てくれた。
そこまでして招いてくださるのなら、断る方が失礼だろう。
ミレイユは深い青緑色のドレスを身につけ、サン゠クレール伯爵邸へ向かった。
会場へ入ると、伯爵夫人はすぐにミレイユを見つけ、笑顔で手招いた。
「ミレイユ様。急なお招きでしたのに、よくいらしてくださいましたわ」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
「グラシア侯爵夫人のドレスを拝見しましたの。あれほど印象が変わるなんて驚きましたわ」
「同じ色でも、ほんの少し赤みや青みが違うだけで、お顔映りは大きく変わりますので」
「まあ、そうなの。わたくしにも、似合う色を見ていただけるかしら?」
「もちろんでございます」
二人が話し始めると、近くにいた夫人たちも興味を示した。
「わたくしも伺いたいわ」
「娘の髪が暗い色なのですけれど、明るいドレスは似合うでしょうか」
一人、また一人と輪へ加わり、気づけばミレイユの周囲には、多くの夫人や令嬢が集まっていた。
「同じ青でも、少し灰色を混ぜるだけで、落ち着いた印象になります」
ミレイユは、持参した小型の色見本帳を開いた。
手のひらほどの布片を束ねた、持ち運び用のものである。
「こちらは、先ほどのものより少し黄色みがあります。お顔のそばへ当ててみてくださいませ」
「まあ、本当だわ。こちらの方が、肌が明るく見えるのね」
周囲から感嘆の声が上がる。
その様子を見ていた若い令息たちも、少しずつ近づいてきた。
「母の誕生日にドレスを贈りたいのですが、本人を連れずに似合う色を選ぶことはできますか?」
「普段お召しになる色や、髪と瞳の色を教えていただければ、いくつか候補をご用意できます」
「それは助かります」
「失礼。ヴァルデン家の織物について、少し伺ってもよろしいでしょうか」
次に声をかけてきたのは、南部に領地を持つロシュフォール伯爵家の次男、ジュリアンだった。
栗色の髪を短く整えた、物腰の柔らかな青年である。
家督を継ぐ立場ではないものの領地経営にも明るく、気さくな人柄もあって、令嬢たちから人気を集めていた。
「我が領でも織物を扱っているのですが、この方法は、染色前の布にも応用できますか?」
「布の織り方や糸の種類によって、色の出方は変わります。見本を拝見できれば、工房と相談できると思います」
「では、後日お送りしても?」
「ええ。父にも伝えておきます」
ジュリアンは満足そうに頷いた。
「話の早い方ですね。お声がけして正解でした」
そう言って、にこりと微笑む。
「ミレイユ」
低い声に呼ばれ、ミレイユは振り返った。
輪の外に、レオナールが立っていた。
少し離れた場所には、ラグランジュ伯爵夫妻とセレスティーヌの姿もある。
どうやら今夜は、ラグランジュ家も揃って出席しているらしい。
「何でしょうか、レオナール様」
「少し、話がある」
「今は皆様とお話をしておりますので、後にしていただけますか」
ミレイユがそう答えると、レオナールの眉が寄った。
「ずいぶんと楽しそうだな」
レオナールは、ミレイユを囲む令息たちへ視線を向けた。
「婚約を解消した途端、今度はほかの男たちに愛嬌を振りまいているのか?」
辺りが、しんと静まり返った。
ジュリアンが、不愉快そうに眉をひそめる。
「我々は、ヴァルデン家の事業について話を伺っていたのですが」
「商談なら、このような場所ですることではないでしょう」
「夜会は、貴族同士が交流を深める場でもあります」
別の令息が口を開いた。
「それともラグランジュ様は、事業について話を伺うことまで、不品行だとお考えなのですか?」
「私は、そのような意味で言ったのではない」
すると、夫人たちのそばにいた一人の令嬢が、不思議そうに首を傾げた。
「レオナール様。セレスティーヌ様がお一人でいらっしゃいますけれど、よろしいのですか?」
レオナールの表情が止まった。
「心細い思いをなさっているかもしれませんわ。レオナール様は、妹君を放っておけないお優しい方なのでしょう?」
周囲で、扇が一斉に口元へ持ち上がった。
ミレイユは、少し離れた壁際へ目を向けた。
いつの間にかラグランジュ伯爵夫妻は、別の客への挨拶に移っていた。
そこには、セレスティーヌが一人で立っている。
以前の夜会なら、彼女の周囲にはいつも数人の令嬢がいた。
けれど、今夜は違う。
近くにいた令嬢たちは、セレスティーヌと目が合いそうになるたび、さりげなく別の場所へ移っていた。
やがて周囲の視線に気づいたセレスティーヌが、不安そうにこちらを見た。
そして、ゆっくりとレオナールのもとへ歩いてくる。
「兄様。どうかなさいましたの?」
そう尋ねながら、セレスティーヌはレオナールの腕へ手を添えた。
その瞬間、周囲の空気がさらに冷えた。
セレスティーヌは、戸惑ったように辺りを見回す。
「……皆様?」
先ほどの令嬢が、扇の陰で微笑んだ。
「いいえ。相変わらず仲のよろしいご兄妹だと思っただけですわ」
その笑みを崩さないまま、続ける。
「どうぞ、わたくしたちのことはお気になさらず。お二人でごゆっくりお話しくださいませ」
「わたくしなら大丈夫です。兄様がお話をなさりたいのでしたら――」
「セレスティーヌ」
レオナールが低い声で遮った。
「……ミレイユ様を呼び止めにいらしたのに、結局、妹君のお手は離せないのね」
誰かが、扇の陰でぽつりと呟いた。
周囲から、押し殺した笑い声が漏れる。
レオナールの顔が赤くなった。
しかし、彼が言葉を返すより先に、サン゠クレール伯爵夫人が穏やかな声で告げた。
「レオナール様。ミレイユ様は、わたくしがお招きした大切なお客様ですの。お話がおありでしたら、今夜でなくてもよろしいのではなくて?」
「……失礼いたしました」
レオナールは、ようやく頭を下げた。
セレスティーヌの手をほどくこともできず、そのまま二人で人の輪から離れていく。
二人が戻った先は、先ほどまでセレスティーヌが一人で立っていた壁際だった。
ちょうどその時、楽団の演奏が終わり、次の曲が始まった。
軽やかな旋律が広間へ流れ、男女が次々と中央へ進み出る。
「ミレイユ嬢」
ジュリアンが、ミレイユの前へ手を差し出した。
「これ以上ここで立ち話を続けると、また妙な誤解をされるかもしれません」
わずかに目を細める。
「次の一曲、お相手いただけますか?」
ミレイユは一瞬目を見開き、それから微笑んだ。
「ええ。喜んで」
差し出された手へ、自分の手を重ねる。
ジュリアンに伴われ、ミレイユは広間の中央へ進んだ。
壁際では、レオナールが険しい顔で二人を見つめていた。
その腕には、今もセレスティーヌの手が添えられたままだった。
◆レオナール視点
サン゠クレール伯爵家の夜会から、三週間が過ぎた。
セレスティーヌは、あの夜以来、屋敷から一歩も外へ出ていなかった。
レオナールは足音を忍ばせ、彼女の部屋の前を通り過ぎようとした。
だが、あと数歩というところで、扉が開いた。
「兄様!」
セレスティーヌはレオナールの姿を見つけるなり、部屋から駆け寄ってきた。
「聞いてくださいませ。エミリア様にお手紙を差し上げたのに、お返事がこれだけなのです」
差し出された便箋には、季節の挨拶と体調を気遣う言葉が、わずか数行記されているだけだった。
「きっと、お忙しいだけだろう」
「でも、クラリッサ様も、今月は予定が詰まっているとおっしゃって……」
セレスティーヌは縋るように、レオナールの腕へ手を添えた。
「皆様、わたくしを避けていらっしゃるのでしょうか」
「セレスティーヌ、考えすぎだ」
「ですが……今日も、皆様とティーサロンへ行くはずでしたのに、急に都合が悪くなったと連絡があったのですよ」
「そういう時もあるだろう」
「……兄様は、今日は一緒にいてくださいますよね?」
レオナールはすぐには答えず、疲れたように目元を押さえた。
この三週間、同じ問いを何度聞かされただろう。
セレスティーヌは、不安になるたびにレオナールを呼びつけた。
そのたびに彼の腕へ縋り、自分は悪くないと言ってほしがった。
かつては、頼られることを嬉しく思っていた。
ミレイユにはない素直さであり、可愛らしさだと思っていた。
だが今は、その手の重さを感じるようになっていた。
「俺も忙しいんだ」
「……え? 兄様が、ですか?」
その言い方に、レオナールの眉が動いた。
「何が言いたい。俺にだって用事はある」
「でも……兄様のお仕事は、今はすべてアドリアンに任されているのでしょう?」
レオナールの顔から、表情が消えた。
セレスティーヌはそれに気づかず、彼の腕をさらに強く掴んだ。
「少しくらいわたくしと一緒にいてくださってもよいではありませんか……」
「……少しくらい?」
「ええ。兄様しか、わたくしの気持ちを分かってくださる方はいませんもの」
「このところずっと、毎日のようにお前の話を聞いている」
レオナールは、腕に添えられた手を見下ろした。
「手紙の返事が短い。誘いを断られた。誰かに見られた気がする。俺にどうしろと言うんだ」
「兄様まで……わたくしを責めるのですか?」
「俺にも、一人で考える時間くらい必要だと言っている。被害妄想もたいがいにしろ」
「以前の兄様なら、そのようなことはおっしゃいませんでしたわ……」
セレスティーヌの瞳に涙が浮かんだ。
「ミレイユ様との婚約がなくなってから、兄様は変わってしまいました」
その名を聞いた途端、レオナールの顔が険しくなった。
「ミレイユは関係ない」
「では、どうしてわたくしに冷たくなさるのです?」
「冷たくしているのではない!」
レオナールの声が、廊下に響いた。
セレスティーヌが怯えたように手を離す。
レオナール自身も、思わず声を荒らげたことに息を呑んだ。
二人が黙り込んだところへ、廊下の奥から侍従が歩み寄ってきた。
「レオナール様、セレスティーヌ様。旦那様が執務室でお待ちです」
侍従は二人の顔を見ても、何も尋ねなかった。
「お二人揃って、すぐにお越しくださいとのことです」
◆
伯爵の執務室には、ラグランジュ伯爵夫妻とアドリアンが揃っていた。
机の上には、数通の書状が並べられていた。
レオナールとセレスティーヌが入室すると、伯爵は向かいの長椅子を示した。
「座りなさい」
二人が腰を下ろしても、伯爵はすぐには口を開かなかった。
重い沈黙に耐えかねたように、セレスティーヌが身じろぎする。
「お父様……お話とは何でしょうか」
「お前たちには、しばらく王都を離れてもらう」
セレスティーヌが目を見開いた。
レオナールも怪訝そうに父を見る。
「どういうことですか」
「言葉どおりの意味だ。サン゠クレール伯爵家の夜会以来、我が家へ届く招待状は、目に見えて減っている」
「そのようなものは、しばらくすれば元に戻るでしょう」
「招待状だけの話ではない」
伯爵は、机の上に並べられた書状へ目を向けた。
「複数の家から、お前たちを今後どうするつもりなのかと、遠回しに尋ねる書状が届いている」
セレスティーヌの顔が青ざめた。
「わたくしたちが……何をしたというのですか」
「本当に分からないのか?」
「わたくしは、兄様を慕っているだけです。何もやましいことなどしておりません」
「やましいかどうかだけが問題なのではない。その自覚のなさこそが問題なのだ」
伯爵は片手で額を押さえ、深く息を吐いた。
「アドリアンが後継者として挨拶へ赴いても、真っ先に尋ねられるのは、お前たちの処遇についてだ」
そして、アドリアンの前に置かれた書状へ視線を移した。
「新たな取引について話し合う席でも、先方は我が家の内情を気にしている。お前たちを放置する家だと見られれば、アドリアンの信用まで損なわれる」
「それは……」
セレスティーヌは不安そうにレオナールを見て、彼の腕へ手を伸ばしかけた。
その動きに気づいた伯爵が、眉を寄せる。
「今も同じことをするのか」
セレスティーヌの手が止まった。
「わたくしは、ただ……兄様に……」
「不安になるたびレオナールに縋り、レオナールは頼られるたびにお前を優先する。その結果、どれほど周囲に迷惑をかけたと思っている」
「迷惑だなんて……お父様まで、そのような酷いことをおっしゃるのですか?」
伯爵夫人が顔を伏せる。
「あなた……わたくしにも責任があります」
これまで黙っていた伯爵夫人が、細い声で夫を呼んだ。
「二人が幼い頃から仲がよいことを、微笑ましいものだとばかり思っておりました」
「お母様……」
「ミレイユ様が我慢強いことにも、甘えていたのでしょう」
伯爵夫人は苦しげに息を吐いた。
「いずれレオナールが結婚すれば、自然と落ち着くものだと思い込んでいました。ですが、わたくしがきちんと諫めなかった結果が、今なのでしょうね」
「お母様まで、そんなことを……」
セレスティーヌは激しく首を振った。
「周囲が勝手に誤解しているだけではありませんか」
伯爵はしばらく娘を見つめていた。
「ここまで言っても、まだ理解できないとはな」
伯爵は机の上で両手を組んだ。
「レオナール。お前には、北部の染色工房へ行ってもらう」
「北部へ? なぜ私が?」
「あちらの責任者のもとで、一から仕事を学び直せ。後継者ではなく、伯爵家の一員として、何ができるのかを示しなさい」
「私を……工房の使用人同然に扱うおつもりですか?」
「お前は今も、自分が何かを任されて当然だと思っているのか?」
伯爵の問いに、レオナールは黙り込んだ。
「セレスティーヌ。お前は南の別邸へ移ってもらう」
「兄様と一緒ではないのですか?」
「一緒には行かせない」
「どうしてですの?」
「お前たちを引き離すためだ」
セレスティーヌの顔から、血の気が引いた。
「そんな……わたくし、兄様のいない場所で暮らすなんて……」
「侍女も使用人もいる。伯爵家の娘として、不自由のない生活は用意する」
「そういうことではありません!」
セレスティーヌは立ち上がりかけた。
「兄様と離れなければならない理由が分かりません。わたくしたちは、何も悪いことなどしておりませんもの!」
「今なおそう言えることが、何よりの理由だ」
伯爵の声が、執務室へ重く響いた。
セレスティーヌは縋るようにレオナールを見た。
「兄様。兄様からも、お父様へおっしゃってくださいませ」
レオナールは、すぐには答えなかった。
「兄様?」
「……父上が決めたことだ」
「っ……それだけですの?」
「俺に何を言えというんだ」
「以前の兄様なら、わたくしを守ってくださったはずですわ」
「俺も、自分のことで手いっぱいなんだ!」
再び声を荒らげたレオナールを、セレスティーヌは呆然と見つめた。
伯爵は、そんな二人から目を逸らさなかった。
「出発は十日後だ。滞在先も護衛も、すでに手配してある。それまで外出は認めない。夜会や茶会への出席も、当面は禁止する」
「十日後……もう、決まっているのですか……」
セレスティーヌが力なく呟いた。
「お前たちはそれぞれ別の場所で、自分が何を失い、なぜこうなったのかを考えなさい」
誰も言葉を返さなかった。
セレスティーヌは、もう一度レオナールへ手を伸ばしかけた。
だがレオナールは、それに気づきながら、わずかに身体を離した。
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