氷の悪役令嬢ですが、本当の居場所は王宮ではなく泥だらけの温室でした
「……また、イザベラ様がマリア男爵令嬢を虐めたらしいわよ」
「殿下の婚約者だからって、あんなに高圧的だなんて。本当に氷の魔女ね」
王立学術院の豪奢な廊下を歩くたび、背後から刺さるようなひそひそ声が聞こえてくる。
公爵令嬢イザベラ・フォン・ローゼンバーグは、歩みを止めることも、振り返ることもなかった。背筋を完璧な角度に伸ばし、扇で口元を隠し、ただ冷徹な視線を前方のみに向けて歩き続ける。
それが、次期王妃となるべく育てられた彼女の「矜持」だった。
(……虐めた、ですって?)
内心で、イザベラは自嘲した。
先日、イザベラがマリアに言ったのは「王族に連なる者として、その場違いな振る舞いは慎むように」という、ごく当たり前の忠告だ。マリアは平民上がりの男爵令嬢であり、学術院の規則はおろか、貴族としての最低限のマナーすら欠けていた。
しかし、マリアが涙ぐむと、婚約者であるレオン王太子が飛んできてイザベラを怒鳴りつけるのだ。「お前のような冷酷な女は見たことがない」と。
幼い頃から、王妃教育という名の下にすべてを縛られてきた。
泣くことは許されず、甘えることも許されず、ただ「完璧」であることだけを強要されてきた。だからこそ、イザベラにはマリアの無邪気さが、そしてそれを無条件で許すレオンの甘さが許せなかった。
『間違っているのはあの方たちだ。私は正しくあるべきだ』
そう自分に言い聞かせ、イザベラはさらに分厚い氷の仮面を被り、鋭い茨を周囲に張り巡らせてきた。だが、その茨は相手を傷つけるだけでなく、イザベラ自身の心をも深く、静かに削り取っていた。
胸の奥が、ひどく痛む。
息が詰まるような学術院の空気に耐えきれず、イザベラは午後の授業を抜け出した。向かったのは、敷地の最奥にある旧温室。今は誰も使っていない、忘れ去られた廃墟のような場所だ。ここだけが、完璧な公爵令嬢が「ただのイザベラ」に戻れる唯一の隠れ家だった。
しかし、錆びついた扉を押し開けた瞬間、イザベラは息を呑んだ。
「……あら?」
「うわっ、ととっ!」
温室の中には、土まみれの青年がいた。
彼は大きな鉢植えを抱えたままバランスを崩し、ドサリと尻餅をついた。金茶色のボサボサの髪に、土で汚れたエプロン姿。学術院の生徒には見えない。
「……何者ですか、あなたは。ここは立ち入り禁止のはずですけれど」
イザベラはとっさに氷の令嬢の仮面を被り、冷たく言い放った。
しかし、青年は怒るでも怯えるでもなく、困ったように頭を掻いた。
「すみません。俺はリアム。学術院の庭師見習いです。ここ、日当たりがいいのに誰も使ってないから、弱った植物の療養所代わりにさせてもらってて……って、ああっ! シムラソウの葉が!」
リアムはイザベラの冷たい視線など気にも留めず、ひっくり返った鉢植えに駆け寄り、折れかけた葉を愛おしそうに撫でた。
「ごめんな、痛かったよな。すぐ土を足してやるからな……」
その横顔があまりにも優しく、真剣だったので、イザベラは毒気を抜かれてしまった。公爵令嬢である自分を前にして、植物の心配を優先する人間など初めてだった。
「……あなた、私が誰だか知らないの?」
「えっと……銀髪に青い瞳、それにその制服の刺繍。公爵家のイザベラ様、ですよね?」
「知っていて、そんな無礼な態度をとるの?」
「無礼、でしたか? すみません、平民なもので作法に疎くて」
リアムはへらっと笑い、立ち上がって手をパンパンと払った。
「でも、イザベラ様こそ、こんな埃っぽいところでどうしたんですか? ……なんだか、ひどく疲れているみたいに見えますけど」
その言葉に、イザベラの心臓が跳ねた。
「疲れている」などと、誰にも言われたことがなかった。誰もがイザベラを「完璧で冷酷な女」としてしか見ていなかったからだ。
「……勘違いしないで。少し散歩に来ただけよ」
「そっか。なら、よかったです」
リアムはそれ以上踏み込んでこなかった。ただ、部屋の隅にあった小さな丸椅子を袖で拭き、イザベラに差し出した。
「ここ、お気に入りの場所なんでしょう? よかったら座ってください。俺はちょっと、この子たちの植え替えをするんで、気にしないで」
そう言って、リアムは再び土いじりに戻っていった。
イザベラは戸惑いながらも、椅子に腰を下ろした。
静かな温室の中、リアムが土を掘り返すカサカサという音だけが響く。それは不思議と心地よく、イザベラの胸の奥で張り詰めていた糸を、ほんの少しだけ緩ませた。
*
それから、イザベラは度々、旧温室を訪れるようになった。
リアムは決してイザベラを特別扱いしなかった。媚びることも、恐れることもなく、ただ「よく来る客」として扱い、時には淹れたてのハーブティーをマグカップで手渡してくれた。
「イザベラ様、今日は顔色が悪いですね。カモミールを多めにしておきました」
「……余計なお世話よ。でも、いただくわ」
ある日の午後。温室の窓を叩く雨音を聞きながら、イザベラはぽつりと零した。
「……リアム。あなたは、植物が枯れそうになったらどうするの?」
リアムは手元の作業の手を止め、不思議そうに首を傾げた。
「そうですねぇ。水が足りないのか、光が足りないのか、それとも根が腐っているのか、原因を探して環境を整えます」
「……環境を整える? 悪い部分を切り捨てるのではなく?」
「切り捨てるのは最終手段ですよ。弱っている時にハサミを入れたら、余計に傷ついて枯れちゃいますから。まずは、その子が安心できる場所を作ってやらないと」
その言葉が、イザベラの胸に深く突き刺さった。
『お前のような冷酷な女は見たことがない』
レオンの言葉が蘇る。
イザベラはマリアの至らない点を、常に「切り捨てる」ように指摘してきた。それが王妃としての「正しい教育」だと思っていたからだ。
だが、それは本当に「正しかった」のだろうか?
マリアは右も左も分からない平民出身で、不安でいっぱいだったはずだ。それなのに、イザベラは彼女が「安心できる場所」を作るどころか、正論というハサミで彼女を切り刻んでいただけなのではないか。
「……私は、間違っていたのかしら」
ぽつりと、声が漏れた。
「え?」
「私は……自分を完璧だと思っていたわ。正しく指導することが義務だと。でも、誰も私についてこない。誰も、私を見てくれない。……ただ、怖がられるだけ」
気づけば、抑え込んでいた感情が決壊していた。
大粒の涙が、ポロポロとイザベラの頬を伝って落ちた。完璧な氷の令嬢が、声を上げて泣いていた。
リアムは驚いたように目を丸くしたが、慌てて慰めるようなことはしなかった。ただ静かに立ち上がり、綺麗なハンカチを取り出すと、イザベラの手にそっと握らせた。
「……イザベラ様は、この『トゲバラ』に似てますね」
リアムが指さしたのは、温室の隅にある、鋭い棘ばかりが目立つ不格好なバラの鉢植えだった。
「このバラ、環境が合わなくて不安だと、花を咲かせるエネルギーを全部『棘』を作ることに回しちゃうんです。自分を守るために必死に棘を尖らせて、周りを遠ざける」
リアムは優しく、そのバラの葉を撫でた。
「でも、ちゃんと適度な水と、温かい太陽の光を当ててやれば……ほら、棘が落ちて、こんなに綺麗な花を咲かせるんですよ」
そこには、棘の間から顔を出した、小さくも美しい白薔薇が一輪咲いていた。
「イザベラ様の棘も、きっと同じです。誰にも甘えられなくて、自分を完璧に保とうとして、必死に棘を張っていただけなんじゃないですか?」
リアムの言葉は、魔法のようだった。
ずっと誰かに分かってほしかった。完璧でなくてもいいと、怖がっていただけなのだと、認めてほしかった。
「……っ、ああ……っ」
イザベラはハンカチに顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。リアムは何も言わず、ただ温室の雨音が彼女の泣き声を優しく包み込むのを待っていた。
*
その日から、イザベラの中で何かが確実に変わった。
自分が「正しい」と信じて疑わなかった独りよがりな正義を捨て、相手の立場に立って物事を考えるようになった。
学術院の廊下でひそひそ声が聞こえても、もう睨みつけたりはしなかった。すれ違う生徒には自然な笑みを向け、落とし物をした下級生には自ら手を差し伸べた。
最初は怯えていた生徒たちも、次第にイザベラの変化に気づき、戸惑いながらも挨拶を返してくれるようになった。
「イザベラ様、最近雰囲気が柔らかくなりましたね」
「そうかしら? ……リアムが淹れてくれる、甘いお茶のせいかもしれないわね」
温室で笑い合う時間が増えた。イザベラは、もはやリアムの前で氷の仮面を被ることはなかった。泥でドレスの裾が汚れることも気にせず、彼と一緒に土をいじり、植物の世話をする時間が何よりも好きになっていた。
だが、現実の時間は無情に進む。
学術院の卒業パーティーが、目前に迫っていた。
それは同時に、イザベラとレオンの婚約が正式に披露される場でもある。しかし、最近のレオンとマリアの親密さを考えれば、そこで何が起こるかは容易に想像がついた。
(……きっと、婚約破棄を言い渡されるわね)
かつてのイザベラなら、公爵家の権力を使ってマリアを排除し、力ずくで王太子妃の座を死守しただろう。
しかし、今のイザベラにその執着はなかった。
愛のない結婚。氷のように冷たい王宮。そこは、イザベラにとって太陽の当たらない場所だ。そんな場所で、また自分を守るために棘を張り巡らせて生きるのは、もう嫌だった。
「……リアム」
卒業パーティーの前日。温室で鉢植えの手入れをしながら、イザベラは静かに口を開いた。
「明日、私はきっとすべてを失うわ」
「……」
「公爵令嬢としての地位も、王太子妃という未来も。……ただの、出来損ないの悪役としてね」
リアムは土から手を離し、真っ直ぐにイザベラを見つめた。
「イザベラ様は、悪役なんかじゃありません。俺が知っているのは、弱ったシムラソウのために一緒に泣いてくれる、優しくて不器用な女の子です」
「リアム……」
「何を失っても、イザベラ様がイザベラ様であることは変わりません。……もし行き場がなくなったら、俺と一緒に花を育てませんか。うちの親方、人手不足でいつもボヤいてるんで」
それは、あまりにも不敬で、あまりにも温かいプロポーズのような言葉だった。
イザベラの瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちる。それは悲しみの涙ではなく、心が完全に氷解した、温かい涙だった。
「……ええ。約束よ」
*
王立学術院の卒業パーティー。
シャンデリアが眩く輝く大広間の中央で、予想通り、事態は動いた。
「イザベラ・フォン・ローゼンバーグ! お前との婚約は、今日この場をもって破棄させてもらう!」
レオン王太子の声が広間に響き渡る。彼の隣には、不安げに寄り添うマリアの姿があった。
周囲の貴族たちがざわめき、冷ややかな視線が一斉にイザベラへと突き刺さる。
「お前は、未来の王妃という立場にありながら、マリアに対して数々の陰湿な嫌がらせを行った! そのような冷酷で傲慢な女に、この国の国母は任せられない!」
レオンの糾弾が続く。
誰もが、氷の令嬢であるイザベラが烈火の如く怒り狂い、見苦しく弁明するだろうと思っていた。
しかし。
イザベラは静かに進み出ると、ドレスの裾を優雅に持ち上げ、完璧なカーテシー(淑女の礼)をとった。
「……イザベラ・フォン・ローゼンバーグ、殿下のお言葉、謹んでお受けいたします」
「な、なに……?」
予想外の反応に、レオンは拍子抜けしたように言葉を詰まらせた。
イザベラは顔を上げ、かつての婚約者ではなく、その隣にいるマリアへと真っ直ぐに視線を向けた。
「マリアさん」
「ひっ……!」
マリアが怯えてレオンの背に隠れる。無理もない。これまでイザベラが彼女に向けていたのは、絶対零度の軽蔑だったのだから。
「怯えさせてしまってごめんなさい。……あなたに、謝らなければならないと思っていました」
広間が、水を打ったように静まり返る。
氷の令嬢が、平民上がりの男爵令嬢に頭を下げているのだ。
「私はずっと、自分が正しいと信じていました。王妃として完璧でなければならないと、その価値観をあなたにも強要しました。あなたの不安や孤独に寄り添うこともせず、ただ正論という刃であなたを傷つけてしまった。……本当に、申し訳ありませんでした」
深く、深く頭を下げるイザベラ。その声には一切の誤魔化しがなく、真摯な後悔が滲んでいた。
マリアは目を丸くし、レオンも呆然と立ち尽くしている。
「殿下。今まで私を支え、導いてくださり、ありがとうございました。どうか、マリアさんと末永くお幸せに」
最後にそう微笑んだイザベラの顔は、氷の魔女などではなかった。
それは、棘を落とし、陽だまりの中で咲き誇る白薔薇のように、清らかで美しい笑顔だった。
そのあまりの美しさと気高さに、広間にいた誰もが息を呑み、糾弾する言葉すら忘れてしまった。
イザベラは踵を返し、広間を後にする。
背後からは何の非難も聞こえなかった。ただ、一人の少女が、重い鎖を断ち切って自由へと歩き出す、静かな足音だけが響いていた。
*
それから数ヶ月後。
王都から少し離れたのどかな街に、小さな、しかし花と緑に溢れた可愛らしい花屋がオープンした。
「リアム! このシムラソウ、もう少し日陰に移した方がいいかしら?」
「いや、今の時期ならそのままでも大丈夫だよ、イザベラ。それより、そっちの鉢の土を入れ替えてくれないか?」
泥だらけのエプロンに、すっきりとまとめた銀色の髪。
かつて「氷の令嬢」と恐れられたイザベラは、今はただの「町の花屋の看板娘」として、太陽の下で汗を流していた。
婚約破棄の後、イザベラは自ら公爵家の継承権を放棄した。父親である公爵は激怒したが、最後は彼女のあまりにも清々しい笑顔に毒気を抜かれ、僅かな持参金と共に彼女を送り出してくれたのだ。
「いらっしゃいませ!」
店の扉が開く鈴の音に合わせて、イザベラが満面の笑みで振り返る。
そこには、もう誰も傷つけない、棘のない柔らかな日々があった。
自分が心から安心できる場所。自分を完璧な人形ではなく、一人の人間として愛してくれる人。
イザベラは、隣で優しく微笑む土まみれの庭師を振り返り、幸福に目を細めた。
氷の悪役令嬢はもういない。
そこにあるのは、陽だまりの中で愛を育む、一輪の美しい白薔薇だけだった。




