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掲載日:2026/04/25


最初は、ただの偶然だった。


「見たよ」

その一言を、

軽く笑って流せると思っていた。


駅前のコンビニの前。

缶コーヒーを片手に、そいつは笑っていた。


「昨日。あのホテル街の裏でさ」

心臓が、妙な打ち方をした。

一瞬だけ、足元が浮く。


「いや、別に言いふらすつもりはないけどさ」

——じゃあ、なんで言う。

喉まで出かかった言葉は、飲み込んだ。

代わりに、口角を少しだけ上げる。


「勘違いじゃない?」

「いやいや、あんたでしょ。見間違えるわけないって」

軽い。

あまりにも軽い。

その軽さが、妙に現実味を奪った。


「まあ…困るよね。バレたら」

そいつは、缶を傾けながら言った。

視線はこっちを見ていない。


「俺もさ、色々あるし。

助け合いってことで」

助け合い。


その言葉が、やけに耳に残った。

それから、生活の音が変わった。

スマホが鳴るたび、胃の奥が縮む。

通知の振動が、皮膚の内側に響く。


「今日、会える?」

「少しだけでいいから」

「無理なら、奥さんに連絡するけど」

短い文章。

句読点もない。

なのに、逃げ場がない。


最初は数千円だった。

次は、もう少し。

理由はいつも曖昧で、

断る理由だけが鮮明だった。


断れば終わる。

終わるのは、こっちだ。


風呂で、何度も同じことを考える。


どうして、あの時。

どうして、あそこを見られた。

どうして、あいつなんだ。

もっとマシな人間ならよかった、と思った瞬間、自分で笑った。

マシな人間なら、そもそも脅さない。


風呂上がり、スマホの画面を何度もスクロールする。

「防犯カメラ 設置場所」

「どこにある 街中」

「見られない場所」

検索履歴が、やけに整っていく。

コンビニ。駅。駐車場。

エレベーターの中。

マンションの入口。


——当たり前のことばかりだ。

どこにでもある。

つまり、どこにも逃げ場がない。


夜に出る回数が増えた。

理由はない。

ただ、確認しないと落ち着かない。

同じ道を、何度も歩く。

一度目は普通に。

二度目は、少しだけ意識して。

三度目は——

もう、歩き方がわからなくなる。

角を曲がる前に、減速する。

自然に、自然に。

そう思うほど、足がぎこちなくなる。

曲がったあとで振り返る。

一回だけ。

いや、不自然か。

もう一度。

——多すぎる。

コンビニの前を通る。

ガラスに映る自分の姿が、妙に固い。

肩が上がっている。

腕の振りが小さい。

こんな歩き方、していたか?

その場で一度、立ち止まる。

立ち止まる理由を、考える。

考えている時点で、もう不自然だ。

店内に入る。

何も買うつもりはなかったのに、カゴを取る。

手ぶらだと怪しい気がした。

棚の前で、意味もなく商品を手に取る。

戻す。

また取る。

視線が、天井の隅に吸い寄せられる。

黒いドーム。

見ていないふりをする。

見ていないふりが、うまくできているのか、自分ではわからない。

レジに並ぶ。

何も入っていないカゴを持ったまま、列の途中で気づく。

引き返す。

後ろの客と目が合う。

一瞬の沈黙。

軽く会釈をする。

その角度すら、ぎこちない。

外に出た瞬間、心臓が強く打つ。

何をしている。

何を見られている。

何を疑われている。

——まだ、何もしていないのに。

歩きながら、無意識に顔を逸らす。

街灯の下を避ける。

影の濃い方へ寄る。

気づいて、戻る。

不自然だ。

避ける方が、目立つ。

普通に歩け。

普通に。

その“普通”が、もう思い出せない。

ある日、ふと気づく。


「いつまで?」

鏡に映った自分が、少し痩せていた。

頬が削れて、目の下が暗い。

これ、どこまで続く?

一ヶ月?

半年?

一年?

一生?

その想像だけで、吐き気がした。


「次、まとまった金ほしいんだよね」

夜、呼び出された居酒屋で、そいつは言った。

煙草の煙が、やけに濃い。

「無理」

初めて、即答した。

そいつの手が止まる。

「無理だって。そんな金」

「ふーん」


間。


その“間”が、やけに長い。

「じゃあさ」

ゆっくり顔を上げる。

「終わらせる?」

終わらせる。

その言葉に、心臓が跳ねた。

「全部」

そいつは笑っていた。

「楽になるよ?あんたも」


帰り道、足がやけに軽かった。

決まった。

いや、決まってしまった。

もう、選択肢がない。

頭の中で、何度も繰り返す。

場所。

時間。

人目。

どうすればいい。

どうすれば、自然に。

どうすれば、疑われない。

一度、夜に外へ出た。

街灯の下で立ち止まり、天井を見上げる。

黒い半球。

あれも、そうかもしれない。

ただの照明かもしれないし、違うかもしれない。

見分けがつかない。

それが、妙に怖い。

歩くたびに、視線を感じる。

誰も見ていないのに。

見られている前提で、身体が動く。

立ち止まる場所。

振り返るタイミング。

ポケットに手を入れる仕草ひとつまで。

不自然じゃないか。

普通に見えるか。

——普通って、なんだ。


「ここなら」

ふと、足が止まる場所があった。

人通りが少ない。

灯りはあるが、陰も深い。

頭の中で、線が引かれる。

ここから、ここまでは見える。

ここは、死角になっている気がする。

“気がする”だけだ。

確証はない。

なのに、そこに立っている自分がいる。


その瞬間、吐き気が込み上げた。

何をしている。

何を確認している。

自分は今、何を前提に世界を見ている。

夜。

約束の時間より少し早く着いた。

周囲を見渡す。

静かだ。

人もいない。

——大丈夫だ。

そう思った瞬間、首が勝手に動く。

上。

建物の二階。

三階。

ベランダ。

窓。

暗いガラスの向こうに、誰かいる気がする。

カーテンの隙間が、こちらを見ている気がする。

その場で、動けなくなる。

不自然だ。

立ち止まりすぎだ。

わかっているのに、足が動かない。

やっと一歩、踏み出す。

ぎこちない。

まるで、自分の身体じゃないみたいだ。

——こんなんで、できるのか。

ふと、思う。

足音がした。

近づいてくる。

あいつだ。

間違いない。

いつもの歩き方。

いつもの、無防備な背中。

反射的に、背筋を伸ばす。

自然に見せろ。

普通に。

普通に。

でも、さっきまでの自分を知っているのは、自分だけだ。

この不自然さを、一番わかっているのも、自分だ。

ここだ。

今だ。

いや、まだ。

もう少し。

もう一歩。

もう少し引きつけて。

タイミング。

タイミングを間違えるな。

鼓動がうるさい。

耳の奥で鳴っている。

世界の音が、少し遠い。

視界が、狭くなる。

あいつしか見えない。

あと、数歩。

手を伸ばせば、届く距離。

今。

いや、

まだ。

その一瞬を、逃したら終わる。

でも、その一瞬を掴んだら——

戻れない。

喉の奥で、何かがひっかかった。

それでも、足は止まらない。

手が、ゆっくりと上がる。

「なあ」

振り返る気配。


——今だ。



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