第八話 はじまりの日
あれほど濁っていた気配は、今はもう、ほとんど感じられない。
残っているのは、震えるような不安と空腹の名残だけ。
「……行った、のか」
ルドーさんが、槍の柄を握ったまま小さく息を吐いた。
「はい。群れの方角は、あっちです」
僕は、教えた方向を指さす。
「……本当に、行かせちまってよかったんですかね?」
バードさんが、弓を下ろしながら言う。
「グラムさんをあそこまでやったやつですからね。ちょっと見逃せないって思っちゃいますけど」
ホルスさんが、静かに言う。
「目の前にいたのは、帰りたがってる迷子だったんだろ」
「だったら、斬ることはできねぇだろ」
その言葉に、ルドーさんも小さくうなずく。
「ホルスさんが、そう言うならな……」
少し不思議な感覚だった。
さっき繋がっていたとき、確かに感じた。
ただ飢えて、怖くて、帰り道をなくしていた。
それに少しだけ手を貸しただけだ。
シアンさんが魔杖を片付けながら、その場の全てを見ていた。
「テイムって本当に、あるんだね」
「……まだ自分でもよく分からないです」
僕は正直に答える。
「声が聞こえて、放っておけなくて……気がついたら、勝手に手が伸びてました」
「正直、最初はすごく怖かったです」
「あの赤い目に睨まれた瞬間なんて、逃げ出したくて仕方なかったです」
「でも、繋がってみたら、怖がってるのは、向こうも同じでした」
バードさんが、くすっと笑う。
「いやぁ、見張り台の人だと思ってたら、いきなりモンスターと心の会話とか、世の中分からないもんですねぇ」
「確かにそうですね」
そんなやりとりで、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
「ノエル、大丈夫か?」
ホルスさんが後ろを振り返る。
少し離れたところで、ノエルさんは小さくうなずいた。
「はい、大丈夫です」
「みなさんがお怪我されなくて、本当によかったです」
「とりあえずここで立ち尽くしてても仕方ねぇか」
「日が落ちる前に森を抜ける」
「よし。じゃあ帰るぞ」
ホルスさんが先頭に立ち、僕たちは森を引き返し始めた。
さっきまで胸を圧迫していたあの濁った気配は、もうない。
代わりに、遠くからうっすらと伝わってくる。
(あたたかい におい みんな いた)
少しだけ落ち着いた感情の欠片。
それを最後に、気配は森の向こうに溶けていった。
⸻
アルミ村の門が見えたころには、空はオレンジ色から藍色へと変わり始めていた。
「戻ったよぉー!」
バードさんが手を振りながら声を上げる。
門の上の見張り台から、見慣れた声が返ってきた。
「おかえり!」
セラだ。
村の中に入ると、数人の村人たちがこちらに顔を向けた。
治療所の前から、ケールさんが足早にやってくる。
「みんな無事ね。……その顔だと、何かあったみたいだけど」
「色々とな」
ホルスさんが苦笑する。
「とりあえず、詳しい話は、あとで村長も交えてする」
「……そう」
ケールさんは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐにうなずいた。
「ホルスさんとフライさんは、一度休まれた方が……」
ノエルさんが静かに言う。
「いや、村長のところにすぐ行く」
ホルスさんが首を振った。
「こいつも一緒にな」
「僕もですか?」
「当たり前だろ。今日の主役だ」
そう言われてしまっては、断る理由もない。
「じゃあ、わかりました」
「私も行くわ」
ケールさんが手を上げた。
「ヒーラーとしても、ちゃんと聞いておきたいしね」
「あたしは、グラムさんの様子見てる」
セラは少しだけ唇を噛んでから、笑って言った。
「じゃあ、ちゃんと寝てるように言っといてね」
「あいつ、すーぐベッドから出ようとするから」
「あたしの言うこと、聞けばいいですけど……」
セラは手を振って、治療所へと戻っていった。
(……誰も傷つかなかった)
その事実だけが、足取りを軽くしてくれていた。
⸻
おじいちゃんの家の奥の部屋に入ると、昨日と同じ顔ぶれが揃っていた。
おじいちゃん、ホルスさん、ケールさん。
そこに今日は報告に、ハンター達も加わっている。
「戻ったか」
おじいちゃんが、僕とホルスさんを見てうなずいた。
「……まずは、おかえり」
「ただいま、おじいちゃん」
椅子に腰を下ろすと、どっと疲れが押し寄せてくる。
「で、本題に入るが、どうだった?」
その問いに、ホルスさんが苦笑した。
「赤目のモンスターは、いなくなったと言っていいだろう」
「どういうことじゃ?」
視線が、自然と僕へ向く。
ホルスさんが、「話してみろ」と合図した。
僕は一度息を整えてから、森での出来事を順に話していった。
森の様子。
赤目の登場。
狂ったような赤い気配。
声が、はっきりと聞こえたこと。
それを鎮めて、群れに返したこと。
そして――。
「……ただ、帰れなくなってただけでした」
言い終えたとき、部屋の中は静まり返っていた。
「帰れなくなっていた……か」
おじいちゃんが、繰り返す。
「獣やモンスターを可哀想と思いすぎるのは、危ない考え方じゃ」
「だが今回に限って言えば、フライのやったことは、間違いでもないんじゃろうな」
「俺もそう思います」
ホルスさんが、はっきりと言った。
「出会ったときの赤目と、フライに接触してからの赤目は、もう別物でした」
「“狂暴な獣”から“迷子”になってた」
ルドーさんも、ゆっくりとうなずく。
「ホルスさんがおっしゃる通りで、殺気の圧が、明らかに薄まってました」
「槍を構えていても、こいつを仕留めるのが正しいのかって、迷うくらいです」
「バードは?」
「俺は……」
バードさんは、肩をすくめる。
「射抜けって言われたら射抜けます」
「ただフライくんがアレをやったあとで、矢は射ちたくはなかったです」
「シアンは?」
「わたしは……」
シアンさんは、指先をいじりながらも、はっきりと口を開いた。
「フライが間に入らなかったら、きっともっと長い戦いになってましたね、誰か怪我してたかも」
「……ノエルは」
最後に、ノエルさんに視線を向ける。
「私には戦いのことは分かりませんが……」
「誰も傷つかなかったのは、間違いなくフライさんのおかげです」
部屋の視線が、自然と僕に集まる。
「フライ」
おじいちゃんが言う。
「昨日わしが言った“テイム”という言葉、覚えておるな」
「うん」
「今日お前がやったのは、それなのか?」
ゆっくりと言葉を続ける。
「モンスターの声を聞き、迷いと恐れを知り、帰り道を見つけてやる」
「それは、特別な力でもないとできんことじゃ」
「わからない……でも、心の声が、赤目の声が聞こえたんだ」
思わず、そうこぼしていた。
「なるほどのぉ」
おじいちゃんは静かに言う。
「見て、聞いてしまったから」
「倒す以外にもできることがあるって、知っちゃったから、やらなきゃって思って」
「そうか」
おじいちゃんは目を細める。
「とにかく、生きて帰って来てくれてよかった」
「生きていれば、そうすれば、次にできることが増えるじゃろう」
「……うん」
⸻
話し合いが終わり、皆が部屋を出ていく。
ホルスさんは、廊下で僕の肩を軽く叩いた。
「よくやったな」
「……ありがとうございます」
「ホップにも、いつか話してやらねぇとな」
「フライはモンスターテイマーになりつつあるぞってな」
「やめてくださいよ、そんな大げさな」
「まだなりつつあるだからな」
ホルスさんはそう言って笑い、夜の村へと消えていった。
⸻
家に戻ると、母さんが台所で何かを煮ていた。
「おかえり、フライ」
「ただいま」
「今日はたくさん歩いたでしょ。スープ、いつものより多めにしておいたからね」
「お腹ぺこぺこだよ」
「じゃあ、作った甲斐があったわね」
そんなやりとりをしながら、椅子に座る。
「そういえば、文鳥が昼間来ていたわよ」
「……文鳥?」
「お手紙だわ。あなたに」
母さんから手紙を受け取る。
筒を外して中を見ると、見慣れた癖のある文字が目に飛び込んできた。
『フライへ』
最初の一行だけで、誰からかすぐに分かった。
ホップだ。
椅子に腰を戻し、手紙を広げる。
『ガルディアについた』
『城は思ったよりでかくて、人も多くて、ちょっとだけ迷子になりかけた』
いつもの調子で始まっている。
『騎士見習いとして、剣の稽古をつけてもらってる』
『ここの先輩は、親父より厳しい』
『でも、お前と祠から帰ってきた日の、激怒した親父より怖くはねぇかな』
思わず笑ってしまう。
『村はどうだ?みんな元気だといいな』
『あと変な料理はほどほどにな』
僕は苦笑する。
『それはそうと、お前はお前で、頑張れよ』
『いつか、どっかで肩を並べれたらそれでいい』
『ホップより』
熱い感情と共に、指輪が、かすかに熱を帯びた。
「テイムか……」
呟きながら、窓の外の夜空を見上げる。
ホップがいるガルディアの方向は、どっちだろう。
リュミエールが眠る山の上には、いつもより星が多く瞬いているように見えた。
読んでくださり、ありがとうございます。
力とその使い方をどうするか、少しずつフライも成長して行きます。
次話も読んでいただけると嬉しいです。




