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第四十五話 崩れた日常

「あれは……ファラが生まれて、一ヶ月ほど経った頃です」


 オーガスさんは、夕暮れの草原の向こうを見ながら、ゆっくりと口を開いた。


「すべてが、幻だったかのように壊れた日」



「ファラ、すまないね」


 若い日のオーガスは、小さな家の揺り籠を覗き込みながら、そっと頬を撫でた。


「毎日一緒にいられなくて……」


 赤ん坊のファラは、きょとんとした顔で父を見上げる。

 泣き出すでもなく、笑うでもなく、ただ真っ直ぐに。


「もうすぐ、お世話の人が来るからね」


 オーガスは、揺り籠の上に布をかぶせるようにして、そっと揺らした。



 その前夜。


 オーガスが家に帰ると、また一通の封書がポストに置かれていた。

 見慣れぬ封蝋。嫌な予感しかしない。

 オーガスは、震える指で封を切った。


『やあ、オーガス君。今、絶対地獄みたいな顔してるよね』


『見なくても、だいたい分かるよ。たのしいねえ』


 最初の一行だけで、胸の奥が苦しくなる。


『さてと、本題』


『まず、ジーナちゃんは元気だよ。ちょっと嬉しい?』


『まあ、どうでもいいんだけどね』


 そこだけ、妙に感情の温度がなかった。


『それより、お願いの方が大事だねえ』


『ついに明日だよね。まだ決意が決まらないなら教えてあげるよ』


『もしオーガス君が動いてくれない場合、その最悪の想像通りになるよ。たのしいねえ』


『明日、天秤をどちらかに傾けないと、おしまいだからね』


 オーガスの手が、紙を握る指先から白くなっていく。


『ちなみに、お願いを聞いてもらえたとしても、ジーナちゃんは戻らないよ』


『まだオーガス君には、やってもらいたいことがあるからねえ。たのしいねえ』


『それは全部終わったあと、また僕から連絡する』


『じゃあ、あと少しの苦悩、がんばってね』


 最後の一文を読み終えた後、


「……もう」


 紙を握りつぶしながら、オーガスは唇を噛みしめた。


「もう……やめてくれ……」


 机に額を押しつける。


「私には……選べない」


 喉の奥から、絞り出すような声が漏れた。


「選べない……」


 肩が震える。


「選べないんだあああああっ!!!」


 叫びが、狭い家の壁にぶつかって跳ね返る。


 しばしの沈黙。


「ふぇぇ……ふぇ、ふぇええええええええええん!」


 かすかなファラの泣き声が聞こえた。


 オーガスは、ゆっくりと顔を上げる。


「……私は」


 誰に向けるともなく呟く。


「家族のせいにはしない……いや、家族のため」


 自嘲のような笑みが浮かぶ。


「一緒だ」


 立ち上がり、ぐしゃぐしゃになった手紙を引き出しの奥に押し込んだ。


「それなら全部、自分の責任で選ぶ!」


 震える声を、無理やり押しこめるように言った。


「ファラだけは……絶対に」


 オーガスは、揺り籠の小さな娘の顔を、じっと眺めた。



 翌朝。


 オーガスは、揺り籠の横に膝をつき、眠る娘を見つめていた。


 そっと額に口づける。


「……でも、パパは」


 自分に言い聞かせるように。


「お前を守るために、行ってくる」


 ファラの髪が、ほんの少し揺れた。



 その日は、軍議の日だった。


 重々しい空気が漂う作戦室。

 地図の上には、ウルズ大森林周辺のマーカー。


「……それは本当か?」


 シグルが、地図の一点を指さしながら顔を上げる。


「かなりの数のモンスターが、ウルズの方からこちらへ動き始めている」


 オーガスは、淡々と報告した。


「報告では、これまでの群れとは次元が違うとのことです」


「確かに……」


 シグルは腕を組む。


「あれから妙に静かすぎたからな」


「先に少数で偵察に出ていただけませんか」


 オーガスは、目を伏せた。


「軍議のあとで本隊も向かわせます」


「まかされた」


 シグルは、椅子を蹴るようにして立ち上がる。


「騎士団、借りるぞ」


「ご武運を」


 その声は、少しだけ掠れていた。



 軍議が一段落したころ。


「なにっ、本当か!?」


 ライゼルの声が、作戦室に響いた。


「シグルも出ているのだな?」


「はい」


 オーガスは深く頷く。


「すでにウルズ方面へ向かっています」


「それほどか……だとすれば」


 ライゼルは地図を睨みつけた。


「それだけでは足りん! ウルズに兵を回していい!」


 決断する目つきに変わる。


「その通りに……」


 オーガスは、静かに頭を下げた。



 数刻後。


 城の兵たちも、ほとんどがウルズ方面へと出払った。

 残されているのは、最低限の守備兵のみ。


「……妙だな」


 ライゼルは、廊下の窓から外を見下ろしながら呟いた。


「これほど兵を動かす事態なら、もっと早く兆候が出ていてもいいはずだが」


 ライゼルは、軽く息を吐いた。


「シグルももう向かった以上、今さら引き返すこともできん」


「無事帰ってくると信じよう」



「……ライゼル様」


 別の兵士が駆け込んできたのは、その直後だった。


「どうした」


「城の……城の周囲に、不審な軍勢が! 港の方角から続々と!」


「何だと!?」


 ライゼルは窓に駆け寄る。


 城壁の外。


 見たことのない紋章を掲げる軍旗が、夕陽の中でひらめいていた。

 太陽と黒い蛇。サラーム国の軍旗。


「サラーム、だと……?」


 ライゼルの背筋に、冷たいものが走った。


「兵士の数は……?」


「多くはありませんが」


 兵士が、唾を飲み込む。


「妙な魔術師たちが混じっております。黒いローブに、魔剣を……」


 その時だった。


『ラーイゼールくーん?』


 城壁の向こうから、間の抜けた声が響く。


『出てきてくんないかなあ?』


『君、もう詰んでんだよねえ。たのしいねえ』


「……あれは、一体?」


 ライゼルは、眉をひそめた。


「見張りからの報告では」


 兵士が震える声で続ける。


「あの少年みたいな声の男が、一行の指揮官らしき男だと」


「オーガスは!?」


 ライゼルは、反射的に名を呼んだ。


「オーガスはどこだ!」


「それが……」


 兵士は、言い淀む。


「オーガス様は、その者に捕らえられたと……門兵が……」


「くそっ!」


 ライゼルが拳を握りしめた、その時⸻


『おーい、飽きてきたよー』


 また、あの声が響く。


『どーすんのさー? 攻めていいのー?』


『こっちも時間ないんだよねー』


 その軽薄な調子とは裏腹に、城壁にはじわじわと黒い魔力が滲み始めていた。


「こんな時にシグルまでいないとは……」


 ライゼルは歯を噛みしめる。


「エルナは?」


「おそばに」



「いけません、ライゼル」


 奥の間で、エルナがライゼルを見つめていた。


「貴方が出てどうなさるのです、それでは敵の思う壺です」


「しかし、このままでは……」


 ライゼルは苛立ちを隠せない。


「兵もほとんど出払っている。籠城もままならん」


 そこへ、また兵士が駆け込んできた。


「報告!」


「出てこない場合、数刻後に城に攻め入るとのことです!」


『おーい』


 遠くから、楽しげな声が重なる。


『もう待てませーん』


『戦ってねー。たのしいねえ』


 次の瞬間。


 耳をつんざく轟音とともに、城壁の一部が爆ぜた。


「!?」


 部屋が揺れる。


「魔法か……!」


 ライゼルは、咄嗟にエルナを庇った。


「もう時間がない……兵士も、いない……」


「ライゼル」


 エルナが、そっとライゼルの手を握る。


「なんとしてでも、ブラーヴだけは」


 揺り籠の中で眠る小さな命。


 ライゼルは、固く頷いた。


「ブラーヴ」


 息子の名を呼ぶ。


「我が息子だけは、必ず助ける」


「酒場の地下に通路がある。そこから隠し小部屋へ出られる」


 城の構造図を頭に思い浮かべる。


「そこに避難させよ。エルナ、お前もだ」


 そう言いながらも、ライゼルの目に迷いはなかった。


 自分が残るという覚悟。



 城の下層。


 酒場は既に無人で、棚は倒れ、床には割れた瓶と酒が広がっていた。


 その奥。


 重い扉を開けると、階段と、奥にはひっそりとした小部屋。


「ああ、ブラーヴ」


 エルナは、胸に抱いた赤子をそっと、その小部屋に寝かせる。


「どうか……どうか、必ず生きて」


 涙で声が震える。


「あなたには、大事な⸻」


 その時⸻


 上階から強烈な魔法を受けて、今度は城そのものが揺れるような衝撃音。


「……!」


 すると、小部屋へ続く通路が崩れ、ブラーヴが中に取り残された。


「エルナ!」


 ライゼルはエルナの肩を掴み、引き寄せる。


「ライゼル……」


『ライゼルくーん、いるうー?』


 あの声が、どこか近くから響いてきた。


『来ちゃったよー?』


 軽く叩くような音とともに、誰かが扉を探っている。


 ライゼルは振り返らずに、音のする方へと駆け出した。


「サラームの者だな!」


 廊下に出て、声を張り上げる。


「こんな真似をして、ただで済むと思うなッ!」


「いいねえ、お怒りだあ」


 廊下の向こう、黒いローブの男が笑った。


「この城邪魔だから落とさせてもらうよお」


「君、軍神なんだってねえ。強いのかなあ?」


「我は、軍神ライゼル!」


 ライゼルは、腰の剣を抜き放つ。


「ここにいる者に手は出させん! お前だけは、必ず屠る!」



 一方その頃。


 シグルたちは、ウルズの手前で立ち止まっていた。


「……確かにモンスターはいる」


 森の縁に、ちらほらと魔物の影。


 だが⸻


「これで全軍が出払うレベルじゃねぇぞ」


 シグルは眉をひそめる。


「どうなってんだ」


「シグル様!」


 兵士が、早馬に乗って駆け寄ってきた。


「伝令です!」


 伝令の兵士は、息を切らしながら叫ぶ。


「城が……! ライゼル城から、煙が上がっていると!!」


「なんだと!?」


 シグルの顔色が変わる。


「後ろの兵に伝えろ! 全力で城に引き返せ!」


 怒鳴るように命じた。


「はっ!」


 兵士たちが散っていく。


「早馬でも、城まで数刻はかかるぞ……」


 シグルは歯を食いしばる。


「持ってくれ、ライゼル……! 俺たちも全力で戻る!」


 馬を持つ者たちが、一斉に駆け出す。


「馬のある者は、全速で城に駆けろ!」


 土煙を上げながら、一行は反転した。



 そして数刻後。


 ライゼル城の姿が見えた時、シグルの胸に走ったのは、嫌な予感などという生易しいものではなかった。


 黒い煙に崩れた城壁。

 城門の前には、折れた槍と血で黒ずんだ地面。


「……なんだ、これは」


 馬を飛び降り、駆け込む。


 城の中には、戻ってきていたはずの騎士団、兵士たちが⸻ 床に倒れ、二度と動かない。


「だ……れが、こんな……」


「ライゼル!!」


 シグルの叫びが、虚しく石壁に響く。


「誰か!」


 かすかなうめき声。


「う……」


 血だまりの中で、ひとりの兵士がかろうじて息をしていた。


「おい!」


 シグルは膝をつき、その男を抱き起こす。


「しっかりしろ!」


「教えてくれ……なんなんだこれは!」


「サ……ラームが……見たことない……」


 兵士の焦点の合わない目が、虚空を見つめる。


「攻めて……全員……殺され……」


 途切れ途切れの声。


「……城の中に……ブラ……うう……」


 最後の息が、兵士の口から漏れた。


 シグルは、しばらくその体を抱いたまま動けなかった。


「……くそっ」


 絞り出すような声。


「どうなってんだよ……!」


 奥歯を噛みしめる。


「ちくしょうおおおおおおおおおおおおおおお!!!」


 天井に向かって、声を張り上げた。

 その叫びが、崩れかけた城にこだました直後だった。


「……ぎゃ……」


「おぎゃ……おぎゃあああああああ……!」


 どこか、遠くから。

 か細い赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。


「……まさか、ブラーヴ!?」


 シグルの全身が、びくりと反応する。


「どこだ!?」


 泣き声を頼りに走り出す。


 廊下を抜け、階段を駆け下り、崩れかけた酒場へ。



 酒場は、見る影もなかった。


 棚は倒れ、椅子は砕け、床はガラスと酒と血でぐちゃぐちゃに濡れている。


 だが、その奥から⸻


「おぎゃあああああああ!」


 はっきりと、泣き声が聞こえた。


「ここか……!」


 シグルは、倒れた棚を押しのけ、奥の扉を蹴り開け、瓦礫をどける。


 狭い小部屋。


 粗末な布の上に、ひとりの赤ん坊が置かれていた。


 ブラーヴだった。


「おぎゃ……おぎゃあ……」


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔。


 それでも、力の限り泣き続けている。


「ちくしょう……」


 シグルは、震える手で赤子を抱き上げた。


「ライゼル……どこ行ったんだ……」


 戦友であり、友人だった男の顔が脳裏に浮かぶ。


「どうして……」


 声が掠れる。


「オーガスも……どこだよ……」


 返事はない。


 あるのは、崩れた城と、沈黙だけ。


「みんないなくなっちまった」


 シグルは、ブラーヴを抱いたまま床に膝をついた。


「どうすんだよ……俺だけ残っちまって……」


 腕の中で、ブラーヴが小さくしゃくり上げる。


「おぎゃ……」


 その小さな手が、無意識にシグルの服を掴んだ。


 シグルは、目を閉じる。

 ライゼルの声が、胸の奥で蘇る。


 酒場で交わしたくだらない話。

 戦場で背中を預け合った日々。


 そして⸻


「ブラーヴだけは、必ず」


 あの言葉。


「……そうか」


 シグルは、ゆっくりと目を開けた。


「ライゼルは……」


 抱いた赤子の額に、そっと額を押し当てる。


「多分、ここに来るのが俺だって、分かってたんだな……」


 笑うにも泣くにもならない声が漏れた。


「分かったよ、ライゼル」


 シグルは、震える膝に力を込めて立ち上がる。


「俺が⸻」


 崩れた天井の隙間から覗く空を見上げた。


「俺が、必ずこの子を……」


 腕の中で、ブラーヴが小さく息を整え始める。


「この小さな希望だけは」


 シグルは、静かにそう呟いた。



 そして今。


 夕暮れのガルディア城外。


 オーガスさんの語る言葉が、ホルスさんの胸の中で、過去の景色と重なっていく。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

次話も読んでいただけると嬉しいです。

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