第四十四話 眼鏡の奥
平野の外れ。
夕陽はほとんど沈みかけていた。
僕が少し離れた場所から見守る中、フードを脱いだホルスさんが一歩前に出る。
「久しぶりだな」
低い声が、静かな平野に響いた。
「元気そうじゃないか、オーガス」
目の前の男が、肩を震わせる。
「……あなたは……まさか」
掠れた声。
「シグル、ですか?」
「ああ、そうだ」
ホルスさんは、短く答えた。
「生きていたんだな、オーガス」
その一言で、オーガスさんの顔から血の気が引いた。
それでも、すぐに形だけの笑みを浮かべる。
「……あなたこそ、無事で何よりです」
目だけが笑っていない。
「でも、どうして」
オーガスさんは、ぎゅっと拳を握る。
「あれから、十八年ですよ……」
「十八年か……お互い、色々長かったな」
ホルスさんは、空をちらりと見上げた。
「……なるほど、あなたですか」
オーガスさんが、ぽつりと呟いた。
「何がだ」
オーガスさんは、眼鏡の位置を指で少しだけ直した。
「いいえ、こちらの話です」
しばしの沈黙。
「どこまで、察していますか」
静かな声。
「多分、大体な」
オーガスさんの笑みが、少しだけ歪む。
「そう、ですか……」
一瞬、表情から血の気が消え――
次の瞬間、爆発するように叫んだ。
「あなたに……」
「お前に、何が分かるんだ!!」
声が、平野に響く。
僕は、思わず肩をすくめた。
(……)
「分かんねぇよ、だからここにいるんだろ!」
オーガスさんが、息を詰まらせる。
「何も分からないくせに、私の邪魔を、するんじゃない!」
「邪魔しに来たわけじゃねぇ」
ホルスさんは、一歩も引かない。
「お前がライゼルのとこにいた時から、何があったのか」
「話してくれねぇか、オーガス」
「聞いて、どうする」
オーガスさんの声が低くなる。
「もう……全て遅い」
「咎めるか?」
「殺すか?」
「それとも……許すなんて言うつもりか?」
「どれもできねぇよ」
ホルスさんは、即座に返した。
「だからせめて、真実を知りたい」
短く息を吸う。
「オレの曇っていない眼で見る」
オーガスさんの眉が、ぴくりと動いた。
「……私の」
「私の眼が曇っているとでも……言いたいんですか?」
「そうだな」
ホルスさんは、目を逸らさない。
「少なくとも、選んできた眼じゃねぇ」
「選ばされた眼をしてる」
「……」
オーガスさんは、しばらく何も言わなかった。
沈黙が、二人の間に流れる。
やがて。
「……あながち」
小さく笑った。
「間違いでは、ないのかもしれませんね」
その笑みは、笑いと呼ぶにはあまりに苦しかった。
「だから話してくれ、オーガス」
ホルスさんが、静かに言う。
「……あなたは、昔からその悟ったようなことを平然と言う」
オーガスさんは目を細め、かすかに目を伏せた。
「だからライゼル様も、あなたを……」
そこから先は、言葉にならなかった。
オーガスさんは、深く息を吐く。
「いいでしょう」
顔を上げる。
「真実を、知るがいい」
その目が、どこか諦めたように笑った。
「この世には、どうにもならないことがあると知ればいい」
「……あれは」
オーガスさんは、遠い何かを見るように空を見上げた。
「まだあなたも、私も、若かった頃の話です」
⸻
十八年前。
ガルディア王城から東に行くと、軍神ライゼルの、ウルズ大森林を見張るための城があった。
「おーい、シグルはいるか!」
どこか豪快で、よく通る声が響いた。
「飲みだ! 飲み!」
「おいおい」
カウンターの奥から、若い男の声が返る。
「酔い潰れの介抱は勘弁だぜ、ライゼル」
髪を後ろでまとめた青年が、腰の剣を外しながら振り向いた。
今より少し線が細く、表情もいくらか柔らかい。
「堅いこと言うなよ、シグル!」
マントを肩に引っかけた男が、金色に近い髪をがしがしとかきむしり、椅子にどかっと腰を下ろす。
「今日はウルズ大森林がひと段落したお祝いだぜ?」
「戻ってきたら、まずは酒だ!」
「はいはい」
シグルは、肩をすくめながら隣に腰を下ろす。
「しょうがねぇなぁ」
「お前、酒好きなくせに弱ぇんだよな」
「おいおい、わかってねぇなシグル」
「酒も、人も、鍛錬して強くなるもんよ」
ライゼルは得意げに笑った。
「前回も同じこと言って、三杯で潰れただろ」
「今日は四杯いく!」
「誇るな」
そんなやり取りに、周りの兵士たちから笑いが漏れる。
軍神ライゼル。
戦場では軍神と呼ばれる男は、酒場ではただの酒に弱い友達だった。
「おーい、こっちも頼む!」
「シグル様もいつものですね!」
「おう、軽めで頼む」
そんな賑やかな時間。
扉の方から、慌てた足音が近づいてきた。
「ライゼル様はいますか!?」
息を切らしながら、黒髪をきっちり撫でつけた青年が飛び込んでくる。
「ライゼル様――」
言いかけて、固まった。
テーブルの上には、すでに出来上がったライゼルの姿。
「……また、ですか」
青年が、額を押さえた。
「オーガス」
シグルが、笑いをこらえながらグラスを傾ける。
「遅かったな」
「門兵に聞きましたよ」
オーガスは、ため息をつきながら近づいてくる。
「どうして、いつもこうなるんですか……」
「これからウルズの今後について話し合うと言ってあったのに」
「聞いた聞いた」
シグルが肩をすくめる。
「こいつがだな、ひと段落したらまず祝勝会だって聞かなくてよ」
「止めたんですか?」
「止めた止めた」
ライゼルの肩をぽんぽん叩きながら、シグルが言う。
「話は明日でもできるだろ、って言いながら、もう三杯目だけどな」
「もう、いいです」
オーガスは、諦めたようにライゼルの腕を取る。
「ライゼル様は連れ帰ります」
「それに、エルナ様になんて言えばいいか」
小声でぼやく。
「ブラーヴ様だって、生まれたばかりだというのに……」
「そういや」
シグルが、ちらりとオーガスを見る。
「お前のところも、そろそろ生まれるんだろ?」
「えっ」
オーガスが、わずかに頬を染めた。
「い、いや……ええ、まぁ、その……そうですが」
「それ! 今、関係ないですよね!?」
オーガスが照れながらツッコむ。
「あるさ」
シグルは、にやりと笑った。
「奥さんのためにも、たまには早く帰ってやるこった」
「……お前の…………」
「ん?」
オーガスが、じろりと睨む。
「お前の、その軽口のせいで、いつも私の仕事が増えるんですよっ!」
周囲から、また笑い声が上がる。
ライゼルは、半分寝ながらも、にやにやしていた。
「いいじゃねぇか」
シグルが、グラスを掲げる。
「こうして、今日も無事に帰ってきたんだ」
「明日からまた、いくらでも真面目な顔して、ウルズのこと考えればいい」
「……まったく」
オーガスは、呆れたようにため息をつく。
けれど、その横顔はどこか柔らかかった。
「ライゼル様」
そっと肩を支えながら、オーガスは呟く。
「せめて、エルナ様の前では……もう少しかっこよくいてくださいよ」
「かっこいいだろ、俺はぁ……」
半分寝た状態で、ライゼルがぼそっと反論する。
「なぁ、シグル……」
「はいはい」
シグルは、笑いながらグラスを飲み干した。
「ほら、帰るぞ」
⸻
十八年前。
そんな、取り留めもない日常が。
ライゼルと、その側にいたシグルとオーガスにとっての、当たり前の景色が。
何でもない笑いや、からかい合いが続く日々が――
あの日までは。
変わらず、続いていたのだ。
⸻
オーガスは、現在のガルディアの夕空を見上げる。
その目には、ほんの一瞬だけ、あの頃と同じ光が戻ったようにも見えた。
「さぁ、シグル」
静かに口を開く。
「ここからが、本題です」
「私が、ライゼル様を裏切ることになるまでの話を――」
「あれは――」
オーガスさんは、遠くをにらむように目を細めた。
「ファラが生まれて、一ヶ月が経った頃だ」
夕暮れの平野の外れ。
街の灯りが少しずつ点り始めるのが見える中で、オーガスさんの声だけが、静かに時間を巻き戻していく。
⸻
十八年前。
「ジーナ! 帰った!」
少し息を弾ませながら、若い日のオーガスは扉を開けた。
「ファラは……ファラちゃんは元気なのか!?」
「はーい、ファラちゃーん」
奥の部屋から、明るい声がする。
「たまにしか帰ってこないパパが帰ってきましたよー」
「ジーナさん、その……」
オーガスは、気まずそうに視線を泳がせた。
「言い訳はしない。仕事で、だなんて言うつもりもない。だから、その……」
「冗談ですよ、ふふ」
ジーナは、赤ん坊をそっと抱き上げながら笑った。
「たまにでも、ちゃんと帰ってこようとしてくれるんですもんね」
揺られる小さな緑髪を撫でる。
「ファラだって、きっと分かってくれますよ」
「ジーナ……」
オーガスは、思わず言葉を飲み込んだ。
「……愛してる」
「私もです」
ジーナは、当たり前みたいな顔でそう言った。
「だから、無茶はしないでくださいね」
「あなたは国を守る人でしょう?」
「ファラにも、いつか誇らしく話せるように」
「……ああ」
胸の奥が熱くなる。
「任せてくれ」
「ファラちゃーん!」
オーガスは、ベッドの上の小さなファラを覗き込んだ。
「うわ……可愛すぎる……」
思わず声が漏れる。
握りこぶしほどの小さな手が、空をつかもうとしている。
泣き声も、息づかいも、全部が愛おしかった。
そんな、ごくありふれた日々が、たしかにあった。
あの日までは。
⸻
その日も、城では軍議が続いていた。
「軍議はこれだから疲れんだよ」
会議室から出てきたライゼルが、両腕を大きく伸ばす。
「何時間だよ、いったい」
「まだ三時間です」
書類を抱えたオーガスが、淡々と答える。
「そんな簡単に物事は決まりませんよ」
「それに、またウルズの方で動きがあったらどうするつもりです?」
「その時は手遅れです」
「わーったよ、わーった」
ライゼルは、子どものように頬を膨らませる。
「最近のライゼル様」
オーガスは、溜息をつきながら言った。
「シグルが移りつつありますね」
「いいではないか」
ライゼルの口元に笑みが浮かぶ。
「奴の砕けた感じは、王族にはたまらんのだよ」
「戦のことだけ考えていると、胸が潰れる」
「だから俺はガルディアにはいかねぇんだ」
「それに、たまに、ああやって笑わせてくれる者がいないとな」
「……ほどほどにお願いします」
オーガスは、思わず真面目に返してしまう。
ライゼルと、シグルと。
戦と、酒と、それに友。
そんな日常が、当たり前のように続くはずだった。
⸻
その夜のことだった。
オーガスが執務室で書類を片付けていると、扉が勢いよく開く。
「オーガス様!」
一人のオーガス側近の兵士が、血相を変えて飛び込んできた。
「大変です!」
「どうした?」
嫌な予感が、瞬間的に背筋を走る。
「ジーナ様が!」
「……なに?」
椅子が倒れる音がした。
⸻
城から家までは、普段ならそこそこの距離がある。
だが、その夜ほど道が遠く感じられたことはなかった。
息を切らして家の前にたどり着くと、そこは――
「……」
玄関の扉は半分壊れ、室内には荒らされた跡が散らばっていた。
棚は倒れ、家具は引きずられ、床には割れた陶器やガラス。
何より。
ジーナの姿も。
ファラの姿も。
どこにもなかった。
「……な、なんだこれは……」
オーガスの顔色が変わる。
「一体、何が――」
「それじゃ、ここで」
隣に立っていた側近の兵士が、ふっと力の抜けた声を出した。
「じっくり考えるんだな」
「……は?」
オーガスが振り返るより早く、その兵士は扉の外へと遠ざかっていた。
床の上に、一枚の紙切れが落ちている。
オーガスは、震える手でそれを拾い上げた。
⸻
そこには、軽い調子の文字が躍っていた。
『やあ、オーガス君だね』
『初めまして』
『君に、ちょっとお願い事があるんだ』
読んだ瞬間、胸の奥が冷たくなった。
『断ったら、分かってると思うけど、どうする?』
『決めるのは君だよ、たのしいねえ』
『さぁてと、本題だ』
『君はこれから大事なことを選ばなくちゃいけない』
『家族を捨てるか、君主を裏切るか、ってね』
『たのしいねえ』
紙を持つ指が、さらに震える。
『こっちがやってもらいたいことは簡単だ』
『ライゼルや王族以外を、城から全部出してもらえないかな?』
『簡単だよね、ウルズ管理の一任者のオーガス君なら』
『ウルズでモンスターが大量発生、叩きに出ないと大変だ』
『そう言って、兵も騎士団も外へ出しちゃえばいい』
『君の一言で、ね?』
『時は五日後』
『過ぎたらどうなるかは、言わなくても分かるよね』
『僕たちはね、こういう交渉が得意でね』
『うまくやろうじゃないか』
『あ、赤ん坊は返すね』
『うるさいし、だるいし、別にジーナちゃんだけで足りてるからね』
『じゃあ吉報を待ってるよー』
⸻
「……」
文字を追い終わった瞬間、頭が真っ白になった。
「ざ……」
声にならない音が喉から漏れる。
「ざけ……」
握りしめた紙が、くしゃりと音を立てた。
「ざけるなよおおおおおおおッ!!」
叫び声が、空っぽになった家の中に響く。
「おぎゃあああああああ!!」
その叫びに混ざるように、小さな泣き声が聞こえた。
奥の部屋の籠の中に、ファラだけが泣いていた。
「ファラ!」
オーガスは、慌てて駆け寄り、抱き上げる。
「怖かったな……」
「大丈夫だ……大丈夫だからな……!」
腕の中の温もりだけが、唯一現実を繋ぎ止めてくれていた。
⸻
「その日からの四日間の私は」
オーガスの声が、現在へと戻る。
「すっかり別人のようだったと思う」
夕闇の中、ホルスさんは黙って聞いていた。
「考えても、考えても、考えても、考えても」
「答えは出なかった」
オーガスさんは、こぶしを握りしめる。
「軍議の最中も、報告書を書いている時も」
「ライゼル様がジョッキを片手に笑っているのを見ている時も」
「頭の中では、ジーナの泣き顔と、ファラの泣き声だけがぐるぐる回っていた」
その四日間の記憶は、今もほとんど霧の向こう側だ。
覚えているのは、睡眠も食事もまともに取れていなかったことと――
それでも、時間だけは残酷に進んでいったという事実。
⸻
「よぉ」
ある夜、城の廊下で、シグルが声をかけてきた。
「お前んとこのガキ、生まれたんだろ?」
手には小さな包み。
「これ、祝だ」
「え、ええ……どうも」
オーガスは、瞬きをする。
「最近どうした」
シグルがじっと顔を覗き込んできた。
「なんかいつもの調子じゃねぇな」
「仕事は、ちゃんとこなしているぞ」
「そういう意味じゃねぇよ」
シグルは、肩をすくめる。
「でも、ちゃんと家に帰ってやってるのはいいことだな」
「で? 名前はなんてーんだ?」
「男の子か?」
「いや、お前の場合は女の子っぽいな」
「……うるさい」
オーガスは、思わず口を噤んだ。
「いや、なんでもない。仕事があるからまた」
「祝い、ありがとうございました」
「お、おう?」
シグルは、釈然としない顔でその背中を見送った。
⸻
そして、現在――
「今思えば、あの時からお前、おかしかったもんな」
ホルスさんが小さく言う。
「目が、どこ見てんだか分かんねぇ目だった」
「私はずっと混乱していた」
オーガスさんは、静かに言った。
「何が正しくて、何が間違いかも、分からなくなっていた」
「……だろうな」
ホルスさんの声は、責めるでも、慰めるでもない。
「とにかく、家族さえ、無事でいてくれさえすれば」
オーガスさんは、言葉を続ける。
「そこから私は、私であることを捨てた」
「家族のためでもなんでもない」
「その道は、自分で決めたのだ」
「違うな」
ホルスさんが、きっぱりと言った。
「お前は、選ばされたんだ」
「誰のせいでもない――」
「お前のせいですら」
「違うッ!!」
オーガスさんの叫びが、夕闇に響く。
「選んだのは私だ!」
「私が!」
「この地獄を選んだのだ!!」
肩が、小刻みに震えている。
「シグル、お前は本当に……」
絞り出すように呟く。
「いつも、そんなタイミングで現れる」
「……」
ホルスさんは、何も返さない。
「あと少しだ」
オーガスさんは、かすれた声で続けた。
「もう少しなんだぞ」
「ジーナは……まだ」
そこで、言葉が途切れる。
喉の奥で、何かがつかえたようだった。
「聞かせてくんねぇか?」
ホルスさんが、静かに口を開く。
「その先を」
「辛いだろうが」
「俺も、向き合いてぇ」
オーガスさんは、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと目を閉じる。
「……ここから先は、地獄だぞ」
「分かってる」
ホルスさんは、即答した。
「それでも、聞きたい」
「お前が何を選んで」
「何を失って、今ここに立ってるのか」
オーガスさんは、長く息を吐いた。
「いいだろう」
かすかな笑いとも、諦めともつかない息が漏れる。
「話の続きをしよう」
「ライゼル城が、地獄になったあの日のことを」
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次話も読んでいただけると嬉しいです。




