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『だからダメだって言ったのに』

作者: くろめがね
掲載日:2026/01/31

静かな話です。

派手な事件も、大きな謎もありません。


それでも、

最後の一行だけは、

少しだけ胸に残るかもしれません。


よろしければ、

そのまま最後までお付き合いください。

 最初に呼ばれたとき、私は少しだけ安心していた。


 事情聴取、という言葉は重いけれど、

 私には何もやましいことがなかったからだ。


「あなたが、最後に会った方ですね」


 刑事は、淡々とした声で言った。

 机の上には、古い家の写真と、亡くなった男性の名前。


「はい。

 昨日の夕方、いつも通りに」


 それは事実だった。


 週に三回、決まった時間に通う。

 掃除をして、洗濯をして、食事を用意する。


 独り身の老人だった。

 身寄りはなく、口数も少ない。


 それでも、私には分かった。

 人は、誰かが来る音だけで、少し元気になる。


「特に変わった様子は?」


「いいえ。

 いつも通りでした」


 嘘はついていない。


 ただ――

 いつも通り、だっただけだ。



 老人は、感謝を口にしない人だった。


 礼を言わないわけじゃない。

 でも、言葉が足りなかった。


「すまんね」


 それだけ。


 それでも、私は通った。


 面倒を見るのは、嫌いじゃなかった。

 むしろ、得意だった。


 食事を作る。

 話を聞く。

 黙って隣に座る。


 それで、誰かの一日が少し楽になるなら、

 悪くない仕事だと思っていた。


 ただ一つだけ、

 どうしても欲しいものがあった。


「ありがとう」


 それだけでよかった。



 老人が倒れたのは、夜だったらしい。


 警察の話では、心不全。

 持病もあった。


「事件性は、低いと思われます」


 刑事はそう言った。

 だから、私は安心した。


 でも、彼は続けた。


「ただ、一点だけ」


 私を見る。


「昨日、あなたが帰ったあと、

 少し容体が悪くなった形跡がある」


 胸が、少しだけ痛んだ。


「……それは」


「いえ。

 責めているわけではありません」


 刑事は言った。


「介護に慣れている方ほど、

 “いつも通り”を信じてしまう」


 私は、うなずいた。


 そう。

 いつも通りだった。



 帰り道、私は思い出していた。


 昨日の夕方。


 老人は、いつもより少しだけ息が荒かった。


「大丈夫ですか?」


「平気だ」


 そう言われて、私は引き下がった。


 本当は、分かっていた。


 “いつも通り”じゃないことを。


 でも、私は言わなかった。


 病院へ行きましょう、とは。


 救急を呼びましょう、とは。


 代わりに、

 いつもより丁寧に、

 食事を用意した。


 柔らかくて、

 消化のいいものを。


 それを食べながら、

 老人は、ぽつりと言った。


「……世話になるな」


 それだけ。


 私は、少し笑って答えた。


「いえ」


 でも、心のどこかで思っていた。


 ――違う。

 それじゃ、足りない。



 翌朝、老人は亡くなっていた。


 私は、泣いた。


 周囲は言った。


「あなたがいたから、幸せだったはずだ」


「最期まで、面倒を見てもらえて」


 その言葉を聞くたびに、

 胸の奥が、少しずつ冷えていった。


 違う。


 私は、

 そんな言葉をもらいたかったわけじゃない。



 数日後、刑事から連絡があった。


「一応、報告だけ」


 そう前置きして、彼は言った。


「亡くなる直前、

 血圧が急激に下がっています」


 私は、黙って聞いていた。


「服薬の時間が、少しずれていたようです」


 少し、間があった。


「……ですが」


 刑事は続けた。


「それが直接の原因かは、断定できません」


 私は、電話を切ったあと、

 しばらく動けなかった。


 ずれていた。


 そう。

 私は、少しだけ、ずらした。


 “いつも通り”から。



 老人が、最後に私を見たときの顔を、

 私は覚えている。


 苦しそうで、

 それでも、どこか安心している顔。


 私は、そのとき、

 こう思っていた。


 ――今なら、言ってくれるかもしれない。


 ありがとう、と。


 だから、私は、

 救急を呼ばなかった。


 ほんの少しだけ、

 様子を見ようと思った。


 その“少し”が、

 戻れない一線だった。



 遺品の整理で、

 私は一枚の紙を見つけた。


 震える字で、短く書かれていた。


『ありがとう』


 私は、その場に座り込んだ。


 遅い。


 遅すぎる。


 そのとき、頭の中で、

 自分の声が聞こえた。


 静かで、冷たい声。


だから、ダメだって言ったのに。


 それは、

 誰かに向けた言葉じゃない。


 あの日の私に向けた、

 最後の忠告だった。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


この話は、

「悪意のない行動」が、

どこまで人を追い詰めるのかを書いてみた短編です。


優しさと欲は、

とても近い場所にあります。


もし何か感じるものがあれば、

一言でも感想を残していただけると嬉しいです。

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