『だからダメだって言ったのに』
静かな話です。
派手な事件も、大きな謎もありません。
それでも、
最後の一行だけは、
少しだけ胸に残るかもしれません。
よろしければ、
そのまま最後までお付き合いください。
最初に呼ばれたとき、私は少しだけ安心していた。
事情聴取、という言葉は重いけれど、
私には何もやましいことがなかったからだ。
「あなたが、最後に会った方ですね」
刑事は、淡々とした声で言った。
机の上には、古い家の写真と、亡くなった男性の名前。
「はい。
昨日の夕方、いつも通りに」
それは事実だった。
週に三回、決まった時間に通う。
掃除をして、洗濯をして、食事を用意する。
独り身の老人だった。
身寄りはなく、口数も少ない。
それでも、私には分かった。
人は、誰かが来る音だけで、少し元気になる。
「特に変わった様子は?」
「いいえ。
いつも通りでした」
嘘はついていない。
ただ――
いつも通り、だっただけだ。
⸻
老人は、感謝を口にしない人だった。
礼を言わないわけじゃない。
でも、言葉が足りなかった。
「すまんね」
それだけ。
それでも、私は通った。
面倒を見るのは、嫌いじゃなかった。
むしろ、得意だった。
食事を作る。
話を聞く。
黙って隣に座る。
それで、誰かの一日が少し楽になるなら、
悪くない仕事だと思っていた。
ただ一つだけ、
どうしても欲しいものがあった。
「ありがとう」
それだけでよかった。
⸻
老人が倒れたのは、夜だったらしい。
警察の話では、心不全。
持病もあった。
「事件性は、低いと思われます」
刑事はそう言った。
だから、私は安心した。
でも、彼は続けた。
「ただ、一点だけ」
私を見る。
「昨日、あなたが帰ったあと、
少し容体が悪くなった形跡がある」
胸が、少しだけ痛んだ。
「……それは」
「いえ。
責めているわけではありません」
刑事は言った。
「介護に慣れている方ほど、
“いつも通り”を信じてしまう」
私は、うなずいた。
そう。
いつも通りだった。
⸻
帰り道、私は思い出していた。
昨日の夕方。
老人は、いつもより少しだけ息が荒かった。
「大丈夫ですか?」
「平気だ」
そう言われて、私は引き下がった。
本当は、分かっていた。
“いつも通り”じゃないことを。
でも、私は言わなかった。
病院へ行きましょう、とは。
救急を呼びましょう、とは。
代わりに、
いつもより丁寧に、
食事を用意した。
柔らかくて、
消化のいいものを。
それを食べながら、
老人は、ぽつりと言った。
「……世話になるな」
それだけ。
私は、少し笑って答えた。
「いえ」
でも、心のどこかで思っていた。
――違う。
それじゃ、足りない。
⸻
翌朝、老人は亡くなっていた。
私は、泣いた。
周囲は言った。
「あなたがいたから、幸せだったはずだ」
「最期まで、面倒を見てもらえて」
その言葉を聞くたびに、
胸の奥が、少しずつ冷えていった。
違う。
私は、
そんな言葉をもらいたかったわけじゃない。
⸻
数日後、刑事から連絡があった。
「一応、報告だけ」
そう前置きして、彼は言った。
「亡くなる直前、
血圧が急激に下がっています」
私は、黙って聞いていた。
「服薬の時間が、少しずれていたようです」
少し、間があった。
「……ですが」
刑事は続けた。
「それが直接の原因かは、断定できません」
私は、電話を切ったあと、
しばらく動けなかった。
ずれていた。
そう。
私は、少しだけ、ずらした。
“いつも通り”から。
⸻
老人が、最後に私を見たときの顔を、
私は覚えている。
苦しそうで、
それでも、どこか安心している顔。
私は、そのとき、
こう思っていた。
――今なら、言ってくれるかもしれない。
ありがとう、と。
だから、私は、
救急を呼ばなかった。
ほんの少しだけ、
様子を見ようと思った。
その“少し”が、
戻れない一線だった。
⸻
遺品の整理で、
私は一枚の紙を見つけた。
震える字で、短く書かれていた。
『ありがとう』
私は、その場に座り込んだ。
遅い。
遅すぎる。
そのとき、頭の中で、
自分の声が聞こえた。
静かで、冷たい声。
だから、ダメだって言ったのに。
それは、
誰かに向けた言葉じゃない。
あの日の私に向けた、
最後の忠告だった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この話は、
「悪意のない行動」が、
どこまで人を追い詰めるのかを書いてみた短編です。
優しさと欲は、
とても近い場所にあります。
もし何か感じるものがあれば、
一言でも感想を残していただけると嬉しいです。




