第8章:そして、世界は回り出す
神崎恒一という一人の男が王都を去ってから、ちょうど一年が経過した。
王国財務局・調達課の窓口には、今日も朝から多くの人々が訪れている。だが、そこにはかつてのような殺気立った怒号も、事務官たちの絶望に満ちた溜息も存在しない。石造りの執務室を支配しているのは、静謐な紙の音と、確かな論理に基づいた対話の響きだった。
デスクに座るミレイユは、以前のような「ただ指示に従うだけの受付嬢」ではなかった。彼女の傍らには、ページが擦り切れるほど読み込まれた『王国調達運用基準マニュアル』が置かれている。
「……今回のポーション供給契約ですが、この条項だと配送遅延時のリスク分担が不明確ですね。SLA(品質保証合意)の基準値を下回った場合の補填についても、修正を求めてください。私たちは、現場の騎士たちが『届かない薬』を待つ時間を一秒でも減らすためにここにいるんですから」
凛とした声で指示を出す彼女の瞳には、かつての諦念は微塵もない。恒一が残したのは、単なる書類の束ではない。不条理に対して「それはおかしい」と声を上げ、論理で戦うための「自立した意志」そのものだった。
王都の大通りに店を構える「ドグマ魔法工房」の軒先では、最新型の魔導具が人々の注目を集めていた。
「へへっ、見てな。これが俺たちの新作『高効率魔力循環コンロ』だ。故障を恐れて縮こまるのはもうやめたんだ。万が一の不具合が起きても、契約に基づいた正当な保守予算が降りる。……あの眼鏡の野郎に叩き込まれた通りだ。挑戦ってのは、安全な足場があって初めてできるもんなんだな」
ドグマは豪快に笑いながら、若手の職人に設計思想を説いている。かつて「技術を殺す」と危惧された契約は、今や職人の冒険心を支える、最も強固なセーフティネットへと変貌を遂げていた。
一方、王城の最上階。
エレナ・ヴァルシュタインは、執務室の窓から黄金色に輝く王都の街並みを見渡していた。
王国の財政状況は、恒一の改革によって驚異的な黒字に転じている。浮いた資金は医療や教育、そして領地の開発へと再投資され、国全体に活力が満ち溢れていた。反発していたラグナス侯ら保守派も、透明化された予算がもたらす「健全な成長」という実利を前に、もはや旧時代の利権に固執する力すら失いつつある。 エレナは、かつて恒一が座っていた空っぽのデスクに視線を落とした。そこには今も、彼が最後に愛用していた黒いインク瓶が一つ、ポツンと置かれている。
「……神崎。あなたの言った通りになったわ。あなたは自分を切り捨ててまで、この国に『回り続ける歯車』を植え付けていった。……本当に、どこまでいっても合理的すぎる男ね」
エレナは小さく微笑み、一通の極秘報告書を閉じた。そこには、王国の辺境で「井戸の利用権」や「馬車の関税」といった、ありとあらゆる地方の不合理をロジックで解体し、住民たちから『眼鏡の賢者』と慕われ始めている謎の男の足跡が記されていた。
その頃、王国の最果て、荒野の小さな村。
埃っぽい木賃宿の一角で、一人の男が相変わらず難しい顔をして、古い羊皮紙と格闘していた。
「……この村の聖域管理費、徴収根拠が前世紀の宗教行事に基づいているな。維持費の算出も不透明だ。これは、村の農業投資を阻害している致命的なバグだと言わざるを得ない」
恒一は眼鏡を指で押し上げ、手元の真っ白な紙にさらさらとペンを走らせる。
そこには、新たな戦いの始まりを告げるタイトルが刻まれた。
『辺境聖域におけるサービス等価交換及び透明化に関する合意(案)』
彼の表情に、悲壮感など微塵もない。あるのは、新たな不合理を見つけた時の、事務屋としての尽きることのない執念と、どこか楽しげな輝きだけだった。
「さて……。誰が損をしているのか、まずはそこから整理するとしよう」
異世界の空は、どこまでも高く、青い。
彼が描く新たな「契約書」の白さが、差し込む陽光を反射して、この世界の明日を照らすように眩しく輝いていた。
――全章 完――




