第5章:正しい制度、予期せぬ副作用
改革の断行から数ヶ月、王国財務局の回廊を吹き抜ける風には、以前のような澱んだ重苦しさはなかった。
恒一のデスクに積み上がる報告書は、劇的な改善を数字で示していた。不透明な価格設定を廃した新契約への移行率は八割を超え、無秩序な請求によって流出していた金貨の山は、目に見えて王国の宝物庫に留まり始めている。帳簿上の数字は、恒一が緻密に組み上げた数式の通りに、完璧な調和を保って整列していた。
だが、その「正しさ」の裏側で、王国の末端には、数字では捉えきれない奇妙な静寂が広がり始めていた。
異変を最初に感じたのは、調達課の受付窓口だった。
恒一は、窓口に並ぶ冒険者たちの顔色の悪さに気づき、眉を寄せた。そこには以前のような剥き出しの怒りも、規約に対する無知ゆえの強気もない。代わりに漂っているのは、透明な膜で締め付けられたような、息苦しい「困惑」と「萎縮」だった。
「……神崎さん、これを見ていただけますか」
ミレイユが震える手で差し出したのは、現場の冒険者たちから吸い上げた聞き取り調査票の束だった。そこには、皮肉という言葉では片付けられない残酷な現実が、震える文字で記されていた。
「道具の故障件数は、確かに激減しました。でも……みんな『規約が怖くて、魔法道具を使えない』って言っているんです。特に、新人の子たちは」
恒一はすぐに席を立ち、王都近郊の迷宮都市にある出張所へと向かった。
そこで目にしたのは、衝撃的な光景だった。薄暗い迷宮の入り口で、モンスターの気配が漂っているというのに、一人の若手冒険者が戦闘を放棄して、必死に『魔法灯』の汚れを拭っていたのだ。
「なぜ使わない? 視界がこれだけ悪いんだ、一秒でも早く周囲を照らすべきだろう」
恒一の問いかけに、若者は弾かれたように顔を上げ、怯えたように答えた。
「……だって、規約に書いてあったんです。『不適切なメンテナンス、および過失による損壊は全額自己負担』って。もし、戦っている最中にこのレンズに傷がついたら? 泥や砂が入って、動作不良だと判定されたら? 俺たちが命がけで手に入れた今月の報酬じゃ、一回の手入れ代と弁償代で全部消えちまう……。それなら、暗闇を歩く方がまだマシだ」
若者の手は、過度な清掃のせいで赤く腫れ上がっていた。恒一の導入した「責任分界点の明確化」は、責任感の強い現場の人間にとって、逃げ場のない「脅迫状」へと変質していたのだ。
さらに深刻な事態は、ドグマの魔法工房でも起きていた。
かつての活気が嘘のように消え、静まり返った工房。ドグマは火の落ちた炉の前で、未完成の試作魔導具を寂しそうに見つめていた。
「よう、調達官。あんたの作った契約書通り、故障報告はゼロだ。修理コストも最低記録を更新中だろうよ。……だがな、見ての通りだ。誰も新しい挑戦をしなくなっちまった」
ドグマは、誇り高き職人の顔ではなく、疲れ切った老人のような溜息を吐いた。
「『仕様外の動作で壊れた場合は保守対象外』。その一文が、職人の冒険心も、使い手の信頼も、全部削ぎ落としちまった。冒険者は標準的な使い方しかせず、俺たちもマニュアル通りの道具しか作らない。……正しすぎる制度ってのは、時に毒よりも鮮やかに技術を殺すんだな」
恒一の胃のあたりが、冷たく、重い氷の塊に支配されたような感覚に陥った。
(俺は……何を間違えた? 数字は整合している。理屈は誰に対しても公平だ。なのに、なぜ世界がこれほどまでに縮こまっているんだ)
かつて日本で見てきた、合理化の果てに「心」を削ぎ落とし、ただ数値目標だけを追って自滅していった企業たちの死に顔が、今の王国の風景と重なり合う。
夜の財務局。一人、暗い執務室で自責の念に沈む恒一の前に、エレナが静かに姿を現した。彼女は湯気の立つ温かい茶を置くと、窓の外の、火が消えたように静まり返った王都を見つめた。
「神崎。あなたは『完璧な仕組み』を作った。でもね、制度は人を動かすための潤滑油であって、人を型に嵌めて殺すための鋳型じゃないのよ。リスクを完全に排除するということは、その先にある可能性まで摘み取ってしまうということなの」
「……ええ。わかっています。俺が作ったのは、組織を守るための冷たい壁だった。でも、その壁が高すぎて、誰も外へ足を踏み出せなくなっている」
恒一は、自分の震える拳を見つめた。正論だけでは、世界は救えない。
彼は、自分が生み出した「完璧な契約」という名の怪物を、自らの手で解体し、再構築するための新たなロジックを、血を吐くような思いで組み立て始めた。リスクを恐れさせるのではなく、リスクを適切に分散し、挑戦を許容する――すなわち「攻めの調達」への転換。
しかし、その懊悩の裏側で、改革によって莫大な利益を奪われたラグナス侯ら保守派が、この「現場の混乱」を千載一遇の好機と捉えて、静かに、執拗に、恒一を葬り去るための包囲網を縮めていた。




