表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

外来者K.D.の記録

 その日は、朝から空が低かった。

 六月の終わり、湿った空気が街の隅々にまでこびりつき、呼吸をするたびに肺が沈むような不快感があった。アスファルトからは土の匂いが立ち上り、遠くの地平線ではねずみ色の雲が、誰かがこぼした墨汁のようにじわじわと広がっている。


 午後を過ぎたあたりで、空が割れた。ゲリラ豪雨だ。その言葉通り、暴力的なまでの雨粒が、街の色彩を塗り潰していく。


 僕と船見は、駅前の古い喫茶店で、窓の外を叩きつける雨を眺めていた。店内に流れる安っぽいジャズは、激しい雨音にかき消され、もはや断続的な雑音にしか聞こえない。


「……聞いてる? 大道」


 向かい側に座る船見が、ストローでアイスコーヒーの氷をカラカラと鳴らした。彼女の肌は、この蒸し暑い季節にあってもどこか乾いていて、不健康なほどの活力を帯びている。


「聞いてるよ。最近の強盗犯の傾向がどうだとか、そんな話だろ」

「違う違う。あんたの隣人の話。例の、鴨川デルタ」


 その名前を聞いた瞬間、僕の奥歯がわずかに疼いた。あの冬の誘拐事件から数ヶ月。春を通り過ぎて初夏に至るまで、僕の日常は、彼女という名の不規則な重力に振り回され続けていた。ある時は奇怪な調査に同行させられ、ある時は深夜にチャイムを鳴らされ、ある時は……いや、枚挙に暇がない。


「彼女との仲は、どうなの。あれから進展したわけ?」


 船見がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる。彼女にとって、僕と鴨川デルタの関係は、退屈な日常を紛らわせる格好のゴシップに過ぎない。とんだ迷惑な話だ。


「進展なんて、そんな高尚な言葉で語れるものじゃない。あれはただの自然災害だ。台風が通り過ぎるのを待つみたいに、僕はじっと我慢してるだけなんだよ。感情なんて介在する余地はない」


 僕は吐き捨てるように言い、冷めきったコーヒーを飲み干した。


「でも、あんた。あの子を何度も部屋に上げてるんでしょ? こないだも、コンビニで助けてもらった恩があるからって、なんだかんだ面倒見てるみたいじゃない」

「あいつが勝手に入ってくるんだ。ピッキングか、あるいはもっと物理の法則を無視した何かで。僕に拒否権なんてものはない」

「通報すればいいじゃない、本当に嫌ならさ。警察だって、あんたの言い分を聞いてくれるよ。一度ならず二度までも事件を解決した功労者なんだから」


 船見の言葉に、僕は言葉を詰まらせた。確かに彼女の言う通りだ。ストーカーであれ不法侵入であれ、しかるべき機関に委ねれば、僕の「安楽の地」は守られるはずだった。だが、僕はそうしなかった。いや、しようと思わなかったのだ。


「……それは、後の手続きが面倒だからだ。事情聴取だの現場検証だの、あいつと関わるよりもずっと疲れるだろ」

「ふーん。まあ、そういうことにしておいてあげよう」


 船見はそれ以上追及せず、最近読んだというサスペンス小説の結末について喋り始めた。僕は相槌を打ちながらも、胸の奥に澱のように溜まったもやもやとした感情を拭い去ることができなかった。雨は一向に止む気配を見せず、喫茶店の窓は結露で白く曇り、外界との境界線を曖昧にしていた。


 店を出る頃には、雨足は幾分弱まっていた。まあ、それでも傘を差さなければ、数十秒でずぶ濡れになるほどの強さだった。僕は船見と別れ、水溜りを避けながらアパートへと歩を進めた。


 駅からの道すがら、僕は自分がなぜ鴨川デルタを許容しているのかを自問自答した。……彼女は理解不能だ。思考の回路も、行動の動機も、常人のそれとは明らかに逸脱している。だが、その異質さが、僕の灰色で平坦な日常に、ある種の「手応え」を与えていたことも否認できない。彼女というノイズがあることで、僕は自分が生きているという実感の断片を、かろうじて拾い集めることができていたのかもしれない。


 アパートの階段を上り、自分の部屋の前に辿り着いたとき、僕は足を止めた。


 鴨川デルタがいたのだ。


 彼女は、逃げ場のない雨に晒された野良猫のように、僕のドアの前で丸まっていた。水色のワンピースは肌に張り付き、透き通るような白い肩が細かく震えている。いつもの無表情は崩れていなかったが、その瞳には、これまでに見たことのない空虚な光が宿っていた。


「……何をしてるんだ、こんなところで」


 僕が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。濡れた髪が頬に張り付き、滴が顎から滴り落ちる。


「大道さん。お帰りなさい」

「おかえりじゃない。鍵はどうした。いつもみたいに勝手に開けて入ればいいだろ」

「……追い出されました」


 その一言は、雨音に混じってひどく小さく、だが重く響いた。


「追い出された……あの大家に?」


 優しげな老夫婦の顔が浮かぶ。彼らと「追放」という言葉とは、どうも食い合わせが悪いようだった。


「いえ、外部から契約を絶たれたのです。私の居場所は、あちら側にはもう残っていないようです」


 彼女はそれ以上何も語らず、じっと僕の顔を見つめた。その視線に耐えかねて、僕は隣室……彼女が住んでいたはずの二〇二号室に目を向けた。


 一瞬、背筋に寒いものが走った。ドアの横にあるはずの「鴨川」という表札が、剥がされていた。いや、剥がされた跡すらなく、最初からそこには誰も住んでいなかったかのように、無機質な金属の面が露出している。


 幻覚だろうか。昨日まで、確かにそこは彼女の部屋だったはずだ。


「冗談だろ……家賃を滞納したのか? それとも大家さんに何か失礼なことでも」

「大道さん。この部屋に住ませてください。今すぐ。ここでなければ、私は消えてしまいます」


 彼女は一歩、僕に詰め寄った。冷たい雨の匂いと、彼女特有の、あの甘い果実のような香りが混ざり合って僕の鼻腔を突く。


「断る。冗談じゃない、僕の生活をこれ以上かき乱されてたまるか。どこへでも行け。ネットカフェでも、交番でも……」

「……アアアアアアアア!!!」


 突如、彼女は肺の全てを使い切るような勢いで、天に向かって絶叫しようとした。僕は慌てて彼女の口を手で塞ぎ、周囲を見渡した。幸い、この豪雨の中で廊下を歩いている住人はいなかったが、これ以上騒がれれば、明日には僕がアパートを追い出されることになりかねない。


「わかった! わかったから! 入れ、入ればいいんだろ!」


 僕は呪詛を吐きながら鍵を開け、彼女を室内に押し込んだ。


 部屋に入ると、彼女は玄関で突っ立ったまま、ポタポタと床に水滴を垂らしていた。僕は溜息をつき、クローゼットから予備のタオルと、適当なスウェットの上下を取り出して彼女に投げつけた。


「とりあえずシャワーを浴びてこい。風邪を引かれたら、それこそ厄介だ」

「了解しました」


 彼女は脱ぎ捨てたワンピースを玄関に放置したまま、浴室へと消えていった。


 僕はリビングのベッドに倒れ込んだ。

 左耳からは、窓を叩くゲリラ豪雨の断続的な重低音が聞こえる。右耳からは、浴室で水が流れる高い音が響いてくる。二つの異なる水音が、僕の脳内で混ざり合い、平衡感覚を狂わせていく。


 鴨川デルタ。彼女はいったい何者なのだろうか。

 

 そもそも、彼女は何の仕事をしていたのか。学生だったのか? 親兄弟はiいるのか? 地元の友人は…………考えてみれば、僕は彼女について、何一つ具体的なことを知らなかった。彼女が語る言葉はずっと浮世離れしていて、どこまでが真実で、どこからが妄想なのかの判別もつかない。


 そして、隣の部屋の表札。あれは一体どういうことだ。本当に管理会社が剥がしたのか? それとも、最初から……。思考が泥濘にはまっていく。僕はそれを強引に振り払った。


 関係ない。僕には関係のないことだ。明日になれば、彼女を無理矢理にでも追い出せばいい。そうすれば、僕の平和な、ねずみ色の日常が戻ってくる。  そう、これで厄介払いが――。


 カチャリ、と浴室の扉が開く音がした。

 僕は顔を上げ、そして絶句した。


 リビングに現れた鴨川デルタは、一糸まとわぬ姿だった。水滴が真珠のように白い肌を滑り落ち、湯気が彼女の輪郭をぼやかしている。


「お前……! 着替えを渡しただろうが!」


僕は反射的に視線を逸らし、叫んだ。


「あれは、誰のものですか」


彼女の声は、珍しく不満げな色を帯びていた。


「誰のだっていいだろ、僕のだよ。サイズは大きいかもしれないが、着ないよりはマシだ」

「大道さんの……つまり、これを私に着ろと言うことは、大道さんが女装趣味だという認識でよろしいでしょうか」

「どういう論理の飛躍だよ! いいから早く着ろ。変な噂を流されたら死ぬのは僕なんだ」


 彼女は無表情のままスマホを取り出し、どこかへ電話をかけようとした。


「ちょっ、おい、誰にかけるつもりだ!」

「警察、あるいはSNSに投稿します。『隣人の大道さんは、私に自分の服を着せて女装の疑似体験をさせている』と」

「待て待て待て! ストップだ!」


 僕は飛び起き、彼女の腕を掴んだ。壁際に彼女を追い詰める形になり、至近距離でその瞳と向き合う。


 その瞬間、僕は息を呑んだ。

 鴨川デルタの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちていた。


「……大道さん。私、居場所がなくなってしまいますよ。本当に」


 その声には、いつもの人を食ったような余裕も、無機質な響きもなかった。ただ、深い深淵から響いてくるような、真に切迫した孤独があった。


「……何があったんだ。正直に話せ。警察に突き出すとか、そんなことは後回しにしてやるから」


 僕は掴んでいた腕を緩め、努めて冷静な声を出しながら聞いた。

 彼女は瞬きを一つし、涙を拭うこともなく、静かに口を開いた。


「母星から与えられた調査ノルマを、こなせませんでした。地球という惑星の、個体間における感情の機微、および社会構造の脆弱性……。私は、大道さんというサンプルに固執しすぎたようです。その結果、収集データに偏りが生じ、調査官としての適性を疑われました。いえ、結局はあちら側も、私のようなイレギュラーを厄介払いしたかったのでしょう」


 真剣な顔だった。冗談を言っているようには見えなかった。


 だが、その内容は相変わらず、三流SF映画のプロットよりも稚拙なものだった。母星。調査ノルマ。宇宙人。


 僕は鼻で笑うこともしなかった。否定することもしなかった。ただ、一瞬だけ視線を逸らし、部屋の隅に溜まった埃を見つめた。これまでも、彼女は似たようなことを口にしていた。自分は「観察者」であるとか、この世界の住人ではないとか。そのたびに僕は「はいはい、電波だね」と聞き流してきた。


 だが、今の彼女の表情は、どうしようもなく「本物」だった。それが彼女の狂言であれ、高度な虚言であれ、あるいは救いようのない真実であれ、今この瞬間、彼女が行き場を失い、この宇宙のどこにも自分の座標を見出せずにいるという事実だけは、確かな温度を持って僕に伝わってきた。


「……で、今日はどうするつもりなんだ。その『母星』とやらに帰るのか。それとも、別の星にでも行くのか」


 僕は話半分に聞く態度を装いながら、努めて突き放したように尋ねた。


「ここにいられなければ、適当な場所を探します……おそらく、大気圏外へ放出されるか、この惑星の塵として分解されるかのどちらかですが」


 その声には、いつもの軽さがなかった。


 僕は彼女を観察した。彼女が本当に宇宙人なのか、それともただの情緒不安定な家出少女なのか、そんなことはどちらでもよかった。目の前にいるのは、居場所を剥奪され、雨の夜に放り出されようとしている一つの命だ。


 今、ここで彼女を追い出せば、明日には彼女の姿を二度と見ることはないだろう。それは僕が待ち望んでいた「平和」の到来を意味する。


 窓の外では、雨音が不気味に静まり返っていた。静寂が、部屋の中を支配する。


「今日は……泊まれ。そこにスウェットがある。早く着ろ。明日どうするかは、明日考えればいい」


 僕はベッドに背を向け、ぶっきらぼうに言った。

 それ以上の約束はしなかった。彼女を救うとも、ずっとここにいていいとも言わなかった。


「……了解しました」


 彼女は短く答え、衣擦れの音が聞こえてきた。


 その日の夜は、沈黙の中に更けていった。

 僕はベッドに潜り込み、背中越しに彼女の気配を感じていた。鴨川デルタはソファに座り、僕が貸したブカブカのスウェットに身を包んで、窓の外をじっと眺めている。


 雨はいつの間にか弱まり、規則正しい滴の音が、メトロノームのように時を刻んでいた。僕は隣室……二〇二号室の存在を意識しないように努めた。あそこの表札がどうなっていようが、管理人が誰であろうが、今は関係ない。


 彼女は時折、スマホを操作しては、小さな溜息をついていた。通信機能が死んでいるのか、あるいは誰からも返信が来ないのか。彼女が地球の調査に来た外来者だという「設定」を、僕は否定もしなければ肯定もしない。ただ、彼女という存在がこの部屋にあり、その重みが床をわずかに沈ませているという現実だけを、静かに受け入れていた。


 僕たちは、一言も交わさなかった。

 彼女はその夜、僕の生活に無理に踏み込もうとはしなかったし、僕も彼女の深淵を覗こうとはしなかった。その距離感は、これまでと変わらないようでいて、決定的に何かが違っていた。


 これまでは、彼女が一方的に「侵入」し、僕が「防衛」する構図だった。だが今は、僕がその境界線を、自らの手で曖昧にしていた。


 ……翌朝。カーテンの隙間から差し込む光が、僕の瞼を刺した。雨はすっかり上がっていた。身体を起こすと、リビングの窓が開けられ、初夏の瑞々しい空気が入り込んでいた。


 玄関の方を見ると、鴨川デルタはすでに靴を履き、ドアノブに手をかけていた。


「少し、様子を見てきます」


彼女は振り返ることなく、淡々とした声で言った。


「……好きにしな」


 僕もまた、視線を合わせずに答えた。

 どこへ行くのか。戻ってくるのか。そんなことは聞かなかった。


 彼女が出ていった後、僕はふと思い立ち、廊下に出た。

 湿った空気の中、二〇二号室の前に立つ。


 そこには……「鴨川」という、見慣れた安っぽい表札が、元通りに付いていた。あるいは、最初から一度も剥がされたことなどなかったかのように。それとも、僕の網膜が、そこにあるべきものを勝手に補完しているだけなのか。


 僕はそれをじっと確認することをやめた。指で触れて確かめることもしなかった。


「……気のせいだろ」


 僕は小さく呟き、自室へと戻った。


 その後、鴨川デルタがどうなったのか、僕は明確な答えを持っていない。

 彼女は、夕方になると何食わぬ顔で、僕の部屋のチャイムを五回鳴らすこともあれば、数日間、音沙汰がないこともある。隣の部屋の電気が点いている夜もあれば、真っ暗なままの夜もある。


 僕はそれを問い詰めることはしない。理由を確かめることもしない。彼女が宇宙から来た調査官であれ、妄想に取り憑かれた少女であれ、あるいは僕の孤独が生み出した幻影であれ、彼女という「外来者」が僕の人生の一部に混入したという事実は、もはや取り除くことができない。


 僕は時折、彼女にコーヒーを淹れてやる。彼女はそれを無表情で飲み、時折、地球の、あるいは彼女の故郷の、とりとめもない話を始める。僕はそれを話半分に聞きながら、窓の外の空を眺める。空はねずみ色から青へ、青から茜色へ、そして深い闇へと、絶え間なくその相を変えていく。


 これは「外来者K.Dの記録」だ。

 だが、同時にこれは、僕自身が何かを受け入れた記録でも、拒絶した記録でもない。僕は彼女を救ったわけではない。彼女を追い払ったわけでもない。ただ、あの一晩、自分と世界の間に引いていた境界線を、わずかに曖昧にしただけだ。


 その曖昧さこそが、外来者と共に過ごした時間のすべてであり、この不確かで、ままならない世界で僕たちが共有できる、唯一の真実なのかもしれない。


 明確な結論は、最後まで与えられない。

 ただ、初夏の風が部屋の中を通り抜け、微かに果実の香りを残していくだけだ。


 ……と、そんなモノローグに浸っていたとき。

 ふと、五連続でノックの音が響いた。


 僕は、次の雨が降るのを、静かに待っていたらしい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ