暗躍者K.D.の記録
今年の大晦日はひどく怠惰だ。世間は年末だというのに、誘拐事件やら虐待事件やら殺人事件やらで、てんてこまいになっている。しかし、本日の曇天のように僕の心は暗く、何もする気が起きなかった。
自室は獰猛な冬将軍の襲来を受け、ひどく冷え冷えとしていた。僕にとってはリビングのこたつだけがオアシスであった。そうしてそこに潜り込み、みかんの皮を無心で剥きながら、ひたすらにテレビ画面へ視線を向けていた。画面上では今年話題になった芸人がコント漫才を繰り広げている。
ああ、面白いなあ。
そんな言葉が頭に浮かんだものの、僕の表情筋はピクリとも動かなかった。きっと、精神と同じで肉体も年末モードなんだろう。なんにだって休みは必要なのだ。
番組がCMに切り替わると、僕は窓の外に降りしきる雪を見た。今日の雪はやけにゆっくりと降りてくるな。なんて思っていると、気づけばCMは明け、次のコーナーが始まっている。
「……肉体派芸人コーナー……」
その字面を目にした僕はリモコンを手にし、電源ボタンに指をかける。だが、すんでのところで踏みとどまった。どうせテレビを消してもやることはないのだ。それにせっかくの年末だ、多少の時間の空費はむしろ奨励されるべき行いだろう。
『ワー!!』
「……あはは」
重々しい洋楽に合わせ、上裸のマッチョな芸人がポーズを決めている。季節外れなその様子は、年末にはあまりにも似つかわしくなく、滑稽だった。
……いや、かえって合っているのかもしれない。こんな寒々しく鈍重な空気だからこそ、逆に暑苦しく馬鹿馬鹿しい芸風がマッチするのかも。
「……はぁ」
「ずいぶんと暇そうですね。ところで、少しお付き合いいただけますか」
「いや……年末くらいはゆっくりすべきなんだ。人類の義務だよ、義務」
「じゃあ私は人間失格ってわけでしょうか」
「そういうことだ」
鴨川デルタの発言を適当にあしらうと、僕は再び画面へ意識を向けた。今度は海パン一丁の芸人が画面いっぱいに暴れ回っていた。
「元気だなあ、寒いのに……………………え?」
明確な違和感を感じた。こたつの温さで思考停止していたため、気づくのには少々タイムラグがあったが、誰しもが感じるであろう違和感だ。
なんで鴨川デルタがここにいる?
キッと彼女を睨みつけると、彼女は首を傾げて言った。
「どうしました?あ、喉乾いたなら何か持ってきますよ」
「待て待て待て待て。違うだろ。なんでお前がここにいるんだ」
「ピッキングしてきました。用事もありましたし」
その一言に思わず頭を抱える。
一瞬、通報してやろうかと思ったが、厄介ごとになるのは面倒なので止めた。先日デルタと共に巻き込まれた事件で、警察の事情聴取は死ぬほど長いことを学んだのだ。
「はぁ……というか、不法侵入しといてよくそんなに堂々としてられるな。もう少しさ、この間の探偵みたいに忍んでくれよ、せめて」
「……そうですか。では今から隠れるので目を瞑っててください」
「そういうことじゃない。いいからさっさと帰ってくれ、どんな用事でも断るからな」
「断ってしまうのですか」
すると、彼女は何やらテクテクとこちらへ歩いてきて、唐突にこたつに入って僕の横に座った。いつものことだが、どういう魂胆なのか全く想像がつかず、怪訝な目を向けることしかできなかった。
彼女は何事もなかったように、テレビに映る芸人を見ていた。そうして、こたつの上のみかんを一つ、勝手に取って皮を剥き始めると、静かに呟いた。
「最近は毎日、東公園を散歩しているのですが」
「……それがどうしたんだ。まさかこんな雪の中行くって言うんじゃないだろうな。というか勝手に人の家のみかんを食うな」
分かりきっていたことだったが、彼女は僕の忠告を無視して、一房、みかんを口に放り込んだ。
「そこの中央広場で、12月24日から毎日、午前10時から11時の間にギターを弾き続けている少女がいるんです。大道さんは見たことありますか」
「……いや、最近はあんまり出歩いてないからな……ま、あそこはいつも大道芸人とか似顔絵描きとかいるし、ミュージシャンがいたっておかしくない」
「いえ、単なるミュージシャンとは違うんです。彼女はいつも同じ曲を弾いている。録音させてもらったのですが、大道さんはこの曲を知っていますか」
「急だな……まあ暇だから少しくらいは付き合ってやるけど……。てか、そいつと接触したのか?迷惑かけてないだろうな」
「ええ、大丈夫です。10分くらいお時間をいただいただけなので」
正直信用ならなかったが、追及したところで疲労が溜まるだけだという気がしたため、スルーを決め込んだ。
「…………ならいい。で、その曲は?」
「今流しますから、みかんでも食べて待っていてください」
「客人が言うセリフじゃないからな、それ」
彼女はスカートのポケットからスマホを取り出し、ボイスメモを開いた。そうして「公園 ギター」というファイルを開くと、再生ボタンを押した。……下の方に「芋 ワンタン 粥」や「電気 死」というファイルがあったのは無視することにする。
「題名は『転々』だって最初に言ってました」
「テンテン……?」
「ええ。歌詞検索サイトで調べたのですが、一切それらしいものが見当たらないんです」
突然、公園の環境音をバックに、ギターの旋律が流れ始めた。単調かつ明るいメロディーだが、どこか切なく、悲しげな雰囲気がある。やがてイントロは終わり、透明感のある少女の声が聞こえ始めた。
大体、歌詞はこんな感じだった。
『たなびく雲を越えて 澄み渡る日々の向こう
軽快な足取りで 天まで届く一歩を』
そこまで歌い終わると、少女は突然咳き込んでしまった。鴨川デルタが「大丈夫ですか」と言いながら駆け寄る足音。それに対して少女は、「うん」と言った後、再び小さな咳を繰り返し、やがて息を整えた。
まさか、こいつが無理させたんじゃないだろうな。僕はデルタを怪訝な目で見つめたが、彼女はキョトンとした顔で首を傾げるだけだった。
「知らない曲だけど……これで終わりか」
「ええ。フルバージョンはもう少し長かったのですが。この録音後に、『今日は喉の具合が悪いから』と言って帰ってしまったんです」
「………………そうか」
何か胸の中がモヤッとした気がするが、気のせいだろう。すると、鴨川デルタは僕の顔を覗き込むようにして言った。
「大道さん、気に入りましたか」
「い、いや、そんなことはない」
「そうですか。あ、ちょっと買い出し行ってくるので、私の荷物、盗まないでくださいね」
「……おい、なんでこの後も部屋にいる前提なんだ」
「それはもちろん、私がこの部屋に居たいからです。では、行ってきます」
「はぁ……」
鴨川デルタは数時間後に帰ってきた。長々しい買い出しだったので、そのまま帰宅したかと小躍りしていたところに「ただいま帰りました」の声だ。あのときはひどくがっかりした。
ということで、なぜか僕は部屋に居座った鴨川デルタと共に年を越してしまった。彼女は「ゆく年くる年」を見終えた後、こたつできっちり7時間の睡眠をとり、「所用がある」ということで午前10時くらいに帰っていった。ああ、史上最悪の大晦日だ。
そういえば、去り際、僕はなぜか彼女を呼び止めてしまっていた。
「なんですか。申し訳ありませんが、私は現場の下見があるので行かなければなりません」
「何言ってるんだお前は……昼にさ、東公園の少女のこと、話してただろ」
「ええ。あ、曲の謎のことでしょうか。私は大体分かったので、大道さんも考えてみてください」
「違くてだな……いや、違くもないか……その、ただ……」
どうせ、年末年始は暇だ。明日明後日が祝日だろうとなんだろうと、僕のスケジュールは空白だった。だから、たまには鴨川デルタの言う通りに「考えてみて」もいい。
これは、僕の気まぐれだ。ただそれだけのこと。
「……今日もそいつ、公園にいるのか?」
1月1日、午前10時頃。初詣の人々で、大通りは賑わいを見せていた。無宗教の人々が大半なくせに、よく神社へ年始早々出向こうと思うものだ。雪が降ってないとはいえ、気温は氷点下なのに。
幸い、東公園は大通りから少し外れたところにあり、近くに人を集めそうな神社や仏閣もない。人がいるとしても、せいぜいジョギングや犬の散歩に精を出す者くらいだった。
森林に囲まれた遊歩道を抜けると、中央広場に出た。広場の周縁には僕の足首くらいまで雪が積もっていたが、ベンチ近くや歩道には除雪剤が撒かれ、歩くたびにパチパチと微かな音がした。
真ん中にある噴水を中心にぐるっと歩いていく。すると、森林を背にしたベンチに、黒いダウンジャケットを着たボサボサの髪の少女が一人、ギターを抱えながら本を読んでいた。
さりげなく様子を見ようと、散歩中のふりをして通りすがる。すると彼女は、僕の姿を視界に捉えた瞬間、読んでいた本を置いてギターを構え、聞き覚えのあるあのイントロを弾き始めた。
「あっ」と言いたくなる衝動を、精一杯胸中に押し込める。
そうして僕は、自然と興味を持ったように見せかけ、彼女の隣のベンチに座った。
「あー……ちょっと聴いててもいいかな。こういう弾き語りみたいなの、好きだからさ」
イントロを弾き続けながら、彼女は食い気味に答えた。
「え、ええ!もちろん!曲名は『転々』って言います!ぜひ聴いてってください!」
良感触だ。あとはまたあの歌声を……いや、曲の謎を解明するだけだ。
『たなびく雲を越えて 澄み渡る日々の向こう
軽快な足取りで 天まで届く一歩を』
歌は鴨川デルタの録音で聴いた部分を過ぎ、未知の領域へと突入した。
透明な歌声が、真っ青な冬空に響き渡り、周囲の木々を震わす。ギターのリズムに心が揺れる。死ぬまでずっと、この音に沈んでいたかった。
ふと、ある考えが思いついた。
「あのさ、これって録音してもいいか。ぜひ家でも聞きたいんだけど」
その瞬間だった。彼女の表情に一瞬だけ、怯みのようなものが浮かんだ気がした。
さすがに見知らぬ男がこれを言うのは気持ち悪いか、と考え直し、「ごめん、やっぱり」と口に出す。しかし、その言葉は途中で遮られた。
「あの……どうぞ。歌うので、録音してってください!」
「あ、ありがとう。無理はしなくていいけどな」
「いえ!歌……好き、なので……ぜひ!」
スマホを取り出し、ボイスメモを開く。録音開始ボタンを押すと、「じゃあ、歌ってくれ」と告げた。
彼女は一つ息を吐いた。白い吐息がやがて空気に溶ける頃、ギターの旋律が響き始めた。
『たなびく雲を越えて 澄み渡る日々の向こう
軽快な足取りで 天まで届く一歩を』
ケホッケホッ。
その咳と同時に、ギターの音色は止まった。慌てて録音停止ボタンを押すと、彼女のそばへ駆け寄る。
……またか。鴨川デルタの録音の時も、同じ流れで止まってしまった。録音されると緊張するタイプなのか?
「大丈夫か」
「え、ええ……ごめんなさい、ちょっと今日は喉の調子が悪いので、帰ります……!」
彼女はいそいそとギターをケースにしまい、本を抱えると、小走りで公園の出口の方へと向かっていった。その背中はあの曲のように、軽やかで……どこか切なく、悲しい雰囲気を纏っていた。
「……結局何も聞けなかったな」
残念そうなセリフとは裏腹に、僕の心には正体不明の充足感が詰まっていた。しかし、もちろん残念な部分もあった。フルバージョンの録音ができなかったし、それが不可能なら十分に曲の謎を解き明かすことはできまい。
「仕方ない、延長戦だ」
次の日、僕の足は再び東公園中央広場へと出向いていた。時刻は午前9時45分。彼女の来訪より15分ほど早い。
これは決して、彼女の歌を待ち望んだせいで早く来たというわけではない。ただ、事前の行動を把握しておくことも大事だと感じた。それだけだ。
やがて、彼女は55分くらいにやってきた。僕は何食わぬ顔をしながらベンチに座ってスマホをいじっていたのだが、突然、声をかけられた。
「あ、おはようございます!また来ていただいたんですか!」
「ああ、ちょっとな」
「もしや、私の歌を気に入ってくださったんですか……!ありがとうございます!」
彼女はキラキラした瞳をこちらに向けてはしゃぐが、そういうわけではない。
「違う違う。実は以前、君の曲を録音した知り合いがいたんだ。そいつが曲の謎について知ったって言うから、僕も気になって聞きに来たんだ」
「……そうですか……!でも、曲の謎ってなんですか!」
「あー……あいつは音楽かじってるからな。和音とかコード進行、みたいな?」
「褒めてくださってたなら嬉しいですっ。昨日の曲、私のオリジナルなんですよ! 歌詞は……適当、ですね!」
「自分で作曲したのか、そりゃすごいな。ああ、そういや喉、大丈夫そうか」
「あ……え、ええ!」
ここで僕は、何か疑問が喉につっかかったような感覚を覚えた。魚の小骨と同じだ、早いところ消化しておかないと健康に悪い。僕は「そういや」と切り出した。
「僕の知り合いの録音でも、一番までしか歌ってなかったな。前から喉の調子、悪いのか? あんまり無理しないほうがいいと思うけど」
「あ、その……長い間やってると喉が痛んじゃうんです!い、一日で治るから平気です!」
「……分かった。最近ますます冷えてきたしさ、健康にはお互い気をつけなきゃな」
「はっ、はい!」
喉元のつっかかりは完全に取れたわけじゃないが、このまま質問し続けても埒が開かなそうだ。寒い公園に身を置き続けるのも辛いし、一旦ここは退くべきだろう。
ただ、一つ疑念が強まったことがある。彼女はまだ、何か秘密を隠しているのではないか?
彼女は、僕と鴨川デルタの録音時に同じ曲の切り上げ方をした。それだけならまだ偶然で済まされるが、その訳が「喉の調子が悪い」、だ。先刻までのびのびと歌っていたのに、突如として喉が悪くなることなどあり得るだろうか。
……まだ疑念のままだが、一度帰ってから考えてみるか。でも、今は、ひとまず。
「……今日も曲、聴かせてくれないか?」
フルバージョンの曲を聴き終わり、僕は彼女と好きな歌手や曲について話し込んでいた。
突然、彼女は何かに気がついたように「あ、今の時間って分かりますか……!」と尋ねてきた。安物の腕時計を覗くと、時刻はとうに11時を回っていた。
「気づいたらもうこんな時間か。ごめんな、長く引き留めすぎた」
「……ぁ……あの、すみません、失礼しますっ!」
「えっ?」
彼女はギターを急いでケースにしまい、ダウンコートを着直して、乱暴に本を抱えた。そして、なぜか血の気の引いた顔で会釈をして小走りで去っていった。
何か大事な用があったのだろうか。
彼女の時間を奪ってしまったことを申し訳なく思いつつ、さて帰ろうかと立ち上がった。しかし、家に帰ってもどうせ怠惰にテレビを眺めているだけだし、何より鴨川デルタが襲来する危険性があることを思い出した。
僕は寒さと鴨川デルタを天秤にかけ、寒さを取った。そうして再びベンチに座り直し、先程の曲についてぼーっと考えてみることにした。
「……まず、『転々』ってなんだ……」
検索画面に一文字ずつ、て、ん、て、ん、と打ち込む。候補に出てきたのは映画の名前やら、焼き鳥屋の店名やら、有象無象が入り混じっていたが、どれもあの透明感ある曲にはそぐわない。
……同音異義語だろうか。
今度は、「てんてん」の後に「意味」というワードを付け加えた。検索結果に出てきたのはいくつかの辞書サイト。一番上に出てきたものを開くと、そこには「てんてん」と発音する単語がずらっと整列していた。
転転、点点、展転、天天……手ぬぐいも幼児語で「てんてん」と呼ばれるらしい。
続いて、それぞれの単語の意味をさらっと見てみたが、どれもあの歌詞とはマッチしない。もし……あえてそれを狙っていたのだとしたらお手上げだ。
最悪の可能性が外れていることを祈りつつ、僕は寒さで凍りついた脳を無理矢理稼働させた。
そういえば、あの曲の歌詞。特に僕や鴨川デルタの録音に残っていた部分では、「雲」、「向こう」、「天」といったような空をイメージした言葉が使われていた。
となると、「てんてん」の漢字は、字面からして「天天」が正解なのかもしれない。
僕はもう一度、「天天」のページを開いた。
『てん‐てん【天天】
1 頭をいう幼児語。
2 手で自分の頭を軽くたたく子供の遊び。おつむてんてん。』
「頭、ね……」
頭、頭、頭。そう呟きながら、色々と連想してみる。頭骸骨、禿頭、頭取、頭文字……。数十秒考えたものの、肝心の自らの頭がうまく回らず、僕はついにショートしてしまった。
ああ、もっといいタイトルがあっただろうに。どうしてこんな幼児言葉なんかにしたんだ。全然歌詞の内容とは関係ないというのに。
「ん……いや……わざとか」
たいていの歌の題名には、なんらかの意味が含まれているものだ。それが難解であろうと易しかろうと関係ない。
僕は先程の疑念を思い出した。彼女の行動にはどこかマニュアルがあるような雰囲気を感じたのだ。まさかこの題名でさえ、その手順に組み込まれているのかもしれない。
もしそうだとしたら。「頭」という意味を使って何を伝えたかったのだろう。例えば、歌詞の……。
「……なるほど……鴨川デルタが好みそうな事態だ」
僕は立ち上がって、少女の去った方角へと一目散に走り出した。まだ彼女が発ってから三分ほどだ、方向さえ正しければ十分追いつける。僕は新年早々、公園の近くを駆け回り、ギターを背負った彼女の姿を探していた。
やがて、駅近くのスーパーから出てくる彼女を視界に捉えた。ギターケースを背負った彼女は、大量の食材や家庭用品が入っているらしいレジ袋を手に提げ、よろよろと歩いていた。
途中、やんちゃな子供に袋をいじられたり、鳩のフンを踏みそうになっていたりと、ずいぶん災難な目にあっていたが、僕は苦々しい顔で見ていることしかできなかった。
大変そうだが、手助けはできない。黙って尾行するのが最善策だ。ここで彼女に感づかれれば、僕の目論見はおじゃんになってしまう。
気づけば僕たちは、町外れの住宅街の、年季の入ったアパート前に来ていた。ここに人が住めるのかと疑ってしまうほど、そこは廃墟のような様相をしていた。
電柱の影から階段を登る彼女の姿を観察していると、彼女は端の部屋の前で立ち止まった。そうして、ドアへ向かって小声で何か呟くと、鍵が開き、彼女は家の中へと入って行った。
……行くか。
僕は気配を最大限潜めながら、彼女が消えた部屋の前まで近づいていく。階段の軋む音にヒヤヒヤしつつも、誰も廊下に出てくることはなかった。
こっそり扉に耳を当て、室内の音を聞く。ふと、野太い男の声が聞こえた。
「おい、早く飯を作れ」
「は、はい……!すいません……!」
「……11時半までに帰ってこいって言ったよなぁ。だけどお前はその命令に逆らった。こいつの命、惜しくないのか?」
「ち、違いますっ!本当にごめんなさい、妹は殺さないでっ!」
「ちっ……うるせえガキだな、早くやれ」
「はっ、はいっ……!」
僕の予想は運悪く当たってしまった。
彼女が録音の際にあのフレーズだけを鳴らし、「天天」という題名をつけたのは、後からとあるメッセージに気づいてもらうためだったのだ。
『たなびく雲を越えて 澄み渡る日々の向こう
軽快な足取りで 天まで届く一歩を』
これらの「頭」文字をとると、そのメッセージが浮かび上がる。「たすけて」と彼女は伝えたかったのだろう。道理で聞いた際、本能的な違和感を覚えたわけだ。
男の声を聞くまでは、正直偶然かもしれないと思っていた。自由に外出して音楽を奏でている少女が、何をどう助けて欲しいのか。その疑問が今、解き明かされようとしていた。
……しかし、これは思ったよりもずっと悪い事態だ。まずい。警察を呼ばねば。
いや部屋の中の二人は気になることを言っていた。「こいつの命」、「妹は殺さないで」。これらの発言を鑑みるに、室内には男、少女、妹の三人がいる。それに加えて、妹の命は男がすぐに奪えるところにあるのだ。
変に刺激したら妹の命が危ういかもしれない。その危険性を恐れ、僕はしばらく男の様子をうかがうことにした。
「……おい、お前。明日から公園に行くのをやめろ」
「……えっ、そ、その……それは……!」
「今日みたいにゴミみてえな曲弾いて、気持ち悪いナンパ男とくだらねえ話して、そのせいで飯が遅れたんだろ?明日から外で余計なことしたら、妹はぶっ殺すからな」
「っ……!」
最初、男が何を話しているのか分からなかった。「ゴミみてえな曲」。「気持ち悪いナンパ男」。そのどちらにも心当たりはなかったからだ。
しかし、「今日みたいに」という言葉から予測すると、前者は彼女の透明感ある素晴らしい歌、後者は鴨川デルタのどうでもいい興味に付き合ってやっているだけの僕のことを指していると分かった。
……あの男は頭が悪いな。的外れすぎるじゃないか。
僕の怒りは沸点近くまで上昇し、危うくドアを蹴破って突入しそうになったが、なんとかその衝動は抑えた。
僕は途方に暮れた。どうやって少女と妹を救うか、その算段が全く浮かんで来なかったのである。仕方なく、僕は再び、ボロアパートの廊下で扉に耳を当て続ける変態になることにした。
突然、男は低い声で言った。
「今日お前と会ったのは、公園のナンパ男、スーパーの店員、スーパー近くでいたずらしたガキ。音からはこいつらしか分かんねえが……他の奴らと会って、逃げる算段とか立ててねえだろうな」
「はい……!その人たちだけですっ……!」
「ふん……ま、明日からはスーパーとここを行き来するだけだからな。お前の残りの人生は全て俺に尽くせ、クソガキ」
「っ……はっ…………はい……!」
今すぐ室内に飛び込みたい。だが、少女の妹の命が奪われるかもしれない。板挟みになった僕は、ドアの前で歯軋りをしつつ、気持ちを落ち着かせるために現状を整理していた。
おそらく、男のセリフからして少女の外出時の音声は全て聞かれている。だからこそ、歌にそれとなくメッセージを隠し、「たすけて」と直接言えなかったのだろう。
また、時間を知って青ざめていたのは男の反応が怖いからだ。ましてや妹の命を彼に握られているのだから、あの焦りようも無理はない。
やはり……ここは警察を呼ぶべきか。扉の前でうじうじしていたところで、何も事態は動かない。警察に事情を話せば、妹の命も奪わせず、なんとか穏便に彼を捕まえてくれるはずだ。そう信じたい。
携帯を握り、電話アプリを開く。1、1、0。それから受話器のボタンを押すと、すぐに警察に電話がつながった。あらかた話を終えた後、僕は身の安全が確保できるところで待機しているよう指示された。
……これで、なんとかなるか。電話を終えた後、僕は静かに、長い息をついた。
その瞬間だった。
ジリリリリッ!ジリリリリッ!
けたたましい目覚まし時計の音が、扉を突き破らんばかりに聞こえてきたのだ。唖然として立ち尽くす僕だったが、室内では地獄のような騒ぎが起こっていた。
「お、おい!クソガキ!なんだこれはっ!」
「……なにこれ、何の音!?」
「ガキ!早くどうにかしろ!どっから鳴ってるんだよこれ!」
その目覚ましの音はあまりにも大きすぎて、音の発信源が分からないほどだったのだろう。部屋の中を乱暴に歩き回る男の足音が、アラームの中にかすかに聞こえた。
「おいガキ、押し入れからだ!……あんなとこに目覚ましを入れてた覚えはねえ。おい、もしやてめえの買い物袋の中じゃねえのか!」
「……え、買い物袋……!」
「クソッ。カスみてえな真似しやがって。こいつを止めたら、妹の首を掻き切ってやるからな」
そのセリフと同時に、僕は扉へ向かって思いっきりタックルした。警察が来るまで待つ方が当然安全だが、今のままでは少女の妹が危ない。その考えが浮かんだ瞬間、自然と体が動いていた。
古いアパートだったせいか、ドアは簡単に破ることができた。アラームの大音量の中、玄関にドアごと倒れ込んだ僕へ、男と少女、そして奥で拘束された少女の妹が一斉に視線を向けた。
「……は?」
素っ頓狂な男の声。途端に僕は駆け出した。
押し入れに向かって歩いていく姿勢のまま、男は固まっていた。しかし、コンマ数秒後に現状を把握したのか、ナイフを拾ってこちらへかざす。
僕は情けないことに、本当に情けないことに、その刃先を見て足を止めてしまった。
アラームは鳴り響き続ける。部屋に張り詰める緊張感を演出するかのように。
僕と男は互いを睨みつけながら、ただじっと様子を伺っていた。彼が突撃してくれば、僕はなんとかしてナイフを奪うつもりでいた。その方法は全く思いついていなかったが、自信を保たねば殺られる気がしたのだ。
男はナイフを構えたまま叫んだ。
「おいガキ、動くなよ。一歩でも動いたら俺はてめえを真っ先に殺しに行く。その後は妹もだ。いいか、俺の命令に従え!」
ああ、何の手出しもできない。このまますぐ警察が来てくれればいいが、到着が遅れた場合は悲惨だ。何しろ僕はなんの武器も持っていないのである。もし男が攻撃を仕掛けてきたとき、彼に対抗できなければ、待っているのは死だ。
「ああああっ!!!」
突然、叫び声がした。少女の声だった。部屋の中央に立っていた彼女は、叫びながら押し入れの方へ走った。
この異常事態に錯乱したのだろうか。それとも、逃げようとしたのだろうか。分からない。ただ一つ言えるのは、事態はさらに悪化したということだけだ。
「……おい嘘だろ」
「てっ、てめぇっ!ぶっ殺してやる!」
男は顔を真っ赤にし、押し入れの方へドタドタと向かった。
僕も同じく走らざるを得なかった。このままだと、少女と妹が殺されてしまうのだ。
リビングに出ると、押し入れの横の壁に、少女はへたり込んでいた。男は僕を警戒しながら、ジリジリと彼女の方へにじり寄っていく。
「へっ、残念だ。せっかく忠実なペットを捕まえたと思ったらこのザマなんだからな。おいガキ。あの世で後悔しとけよ」
ああクソ、またこれか。コンビニの時だって、僕の手で鴨川デルタを助けることはできなかった。今回も僕の力では誰も助けられないで終わる。
男はナイフを振りかざした。これで、終わりか。
「……ん?」
この部屋にいる誰しもが、唐突な環境の変化に襲われた。
アラーム音が鳴り止んだのである。
男は手を止め、押し入れを注視する。先程まであんなに長々と続いていたアラームがいきなり止まったのだ、僕が同じ立場だとしても理由が気になるだろう。
彼は少女の胸元をガシッと掴んで逃げられないようにしつつ、押し入れの襖の取っ手に指をかけた。
しかし。彼が襖を開ける前に、襖はぶち破られたのである。
「ばぁん」、という呑気なセリフとともに。
「大道さん、やっちゃってください」
僕の頭には、真に単純な疑問が浮かんだ。
なんで鴨川デルタがここにいる?
だが、その答えがないことも瞬時に察せられた。あいつの行動にいちいち理由をつけていたら気が狂ってしまうのは承知している。追求するだけ無駄だ。
僕は畳を蹴り、硬直して石像のようになっている男へと全速力で走った。脱力した彼のナイフを取り上げ、少女から手を振り解き、床に押さえつけた。
抵抗はほとんどなかった。おそらく、持ち合わせていた力の大半を現状理解へ費やしたのだろう。
「……………………へ?」
男が飲み込みきれない現状をどうにか咀嚼し終えたとき、事はすでに終わっていた。
先日、鴨川デルタの部屋にいる探偵を捕まえた時のように、彼女の持っていたロープで男を縛ったのだ。ついでに口にガムテープも貼っておいた。彼はポカンとした顔のまま、ただ縄から抜け出そうと懸命にもがいていた。
警察はまもなくやってきて、男を逮捕してくれた。その後、僕たちも色々事情を尋ねられ、全ての用件が終わったときには、時刻は既に夕方だった。
後からニュースで聞いた話では、どうやら彼女たちは十一月初旬から行方不明になっており、その時期に男に誘拐されたと見られているらしい。
彼の下での生活はひどいものだったそうだ。毎日男の身の回りの世話をさせられ、暴力は日常茶飯事、常に精神的苦痛を味わっていたという。
そんな環境下で少女が公園にいられたのは奇跡だった。彼女があんまりに鬱々していると近隣住民に怪しまれると思ったのだろう、男は自らの世話の合間にリフレッシュの時間を与えたのだ。もちろんその期間は音声を録音し、管理下に置いていたのだが。
……今思えば、弾き語りをしているときの彼女は、男と会話している時とはまるで別人だった。僕が「録音させて」と言ったとき、少し言葉に詰まっていたが……それは、彼のことを思い出させたからかもしれない。
僕たちは1月2日以来、少女とその妹には会っていない。当然、自身の回復に時間はかかるだろうし、無理に会いたいとも思わない。
だけど、正直に言うが…………僕はあの歌が大好きだったのだ。
またいつか。彼女の傷が少しでも癒えたとき。咳払いのない「天天」を、ぜひ録音させてもらいたいものだ。
あれから季節は過ぎ、春の足音が目の前まで近づいてきていた。暖房いらずの自室で、ゆったりとソファーに腰掛けながら、僕は静かにコーヒーを飲んでいた。
隣にはなぜか、鴨川デルタ。「出て行け」と言ったものの「用事がある」と言ってまるで聞く気配がないので、僕たちは仕方なく、年始の事件について話をしていた。
「……そういや、聞いてなかったが……」
ここでの「聞いてなかったが」は、「聞いてもだるそうだから」を省略している。
「なんであの時は押し入れにいたんだ?」
「買い出しの最中に『天天』の意味が分かりまして、そのあと偶然彼女を見つけたんです。尾行したら大変な状況にいたものですから、どうすれば助けられるかと考えた結果、ああなりました」
「……探偵の影響か?」
「ええ。探偵さんの時に、押し入れを利用して隙を作ることができたので、あの男にも同じ手法を仕掛けました。元日の夜にピッキングで侵入したんです。お腹が鳴りそうで焦りましたが」
ピッキングという五文字に頭が痛くなりそうになる。僕は自分なりの抵抗のつもりで、作戦への批判を捻り出した。
「……だとしても、上手くいったのは色んな偶然が重なったからじゃないか。あの目覚まし時計だとか、ギター少女が押し入れの方に行ったりとか……」
いや……待て。まさか、全部……。
おそるおそるデルタを見ると、彼女は無表情のままVサインをした。思わずため息をついてしまう。ダメだ、こいつにはいつも上を行かれる。いや、上じゃないな。斜め上だ。
「実は、人を雇ったんです。そして、彼女の買い物袋に目覚まし時計とメモを入れておきました」
「待て、まさか『人』って……小学生くらいの子供だろ」
「ご存知でしたか。あの子はいつもスーパー近くで遊んでいるんです。元日に会った時、『明日、ギターを背負った黒いダウンの少女の袋にこれを入れてください』と言いました。お年玉を付けたおかげでしょうか、簡単に引き受けてくれました」
「なるほどな……んで、メモには自分が押し入れにいるって書いた、と」
「ええ。盗聴だけならばメモの内容はバレませんし。『いざとなったら押し入れまで来てください』とも記載しました」
ここで突然、彼女の作戦の不備が頭に浮かんだ。あの探偵のときは、僕と彼女の二人掛かりで、しかも探偵がか弱かったため捕まえられた。しかし、誘拐犯は男だ。彼女もその事実を分かっていたはずなのに、よく作戦を実行に移せたものだ。
僕はその旨を彼女に伝えた。しかし、疑問文に返ってきたのはまたもや疑問文であった。
「大道さん。なぜ私が少年に、『明日』を指定したのか分かりますか?」
「……下見が必要だったからじゃないのか」
「それは大晦日に済ませました」
「じゃあ何なんだ」
僕の発言を無視して彼女は続けた。いつものことだ、僕はもう何とも思わなくなってきてしまった。
「元日中ではダメな理由があったんです。まあ、根拠が不十分な理由ではありますが」
「……理由?」
「ええ。一日だけじゃ、大道さんが『天天』の意味に気づかないと思って」
その返答は、僕の問いに対する回答も兼ねていたのだろう。デルタは僕の死んだ魚のような目をじっと見つめていた。
……頭を抱えるしかなかった。ああ、そうか。最初からずっと、こいつの掌の上にいたのか。
彼女は僕を待っていたのだ。僕が曲の謎を解き、男の部屋まで行き、突入する所まで……鴨川デルタの作戦では全て織り込み済みだったのだ。
「はぁ……でも、それでもだぞ。僕がいても犯人に敵わない可能性だってあっただろ」
「いや、それはありません」
彼女はそう言い切った。僕は珍しく食い気味な様子に驚いたが、どうせ変な根拠が飛び出してくるのだろうと斜に構えながらコーヒーをすすった。
鴨川デルタは呟いた。
「私、大道さんを信じていますから」
ゴホッゴホッ、と思わず咳払いをしてしまう。彼女の口から「信じている」なんて単語が出るとは夢にも思わなかったのだ。
彼女に背中をさすられながら十数秒咳をし続け、ようやく治った後、僕は告げた。
「あのな、不意打ちは卑怯だ」
「不意打ちとは……?」
「……もういい。それで、用事ってなんだ」
すると彼女は、大晦日の時と同じようにスマホを取り出すと、ボイスメモを開いた。何やら「餅つき機 コーンフレーク」だの「山田さん インタビュー」だの「ママ カラオケ」だの新しいファイルが増えているが、気にしないことにする。「大道さん ゴキブリ」は後で小一時間問い詰めるが。
彼女はその中の、「YouTube 東公園 3/25」というファイルを開いた。
「ネットで話題になっているみたいですね、この弾き語り。音声だけ拾ってボイスメモに入れたのですが」
「これ、まさか……!」
「ええ。聞いてみますか?」
「ああ!」
再生ボタンが押されると同時に、公園の環境音が流れてきた。鳥のさえずり、柔らかな風の音。やがて、それに合わせて聞き覚えのあるイントロが流れてきた。
どこか切なく悲しかったイントロは、前よりも優しい印象になっていた。季節感のせいか、それとも彼女自身が変わったのか。まあ、真実はどちらでもいい。
「なんか、前よりいいな。こっちの雰囲気の方が」
「ええ。私もそう思いました」
続いて、あの透明感ある声が鼓膜を震わした。
『たなびく雲を越えて 澄み渡る日々の向こう
軽快な足取りで 天まで届く一歩を』
その部分を過ぎても、彼女の歌は止まらなかった。もう録音されても、「たすけて」なんてメッセージは発信しなくて良いのだ。彼女の歌声に、怯えている様子はまるでなかった。
……やっぱりいい歌だ。そう思いながら彼女の歌声を聴いていた。
だが、フルバージョンの「天天」の三分の二くらいのところで音声は止まってしまった。
「……あれ、どういうことだ」
「元動画の概要欄にあったのですが、どうやら撮影者の携帯の充電がここで切れてしまったみたいですね」
「あー、そう……」
僕は肩を落としたが、満足感のような感情も心に残っていた。彼女は戻ってきたのだ。完璧に心の傷が治ったわけではないだろうが、自分の歌を歌いに、また東公園に。
なんとなく、僕は鴨川デルタに尋ねてしまった。彼女からまともな回答が得られるとは思っていなかったが、自然と聞かずにはいられなかったのだ。
「また……曲、聴きに行っていいのかな。あの事件を思い出させることになっちゃうか」
「……二番。歌詞、変わってるんですよね」
「え?」
「『明けない夜を越えて 理由もなく進もう
ガラクタだった私へ 永遠に果てないエールを』」
突然、鴨川デルタは口ずさんだ。少女のような透明感は当然ないし、音程も所々ずれている。歌声にオーラもなく、なんだかロボットが歌っているような感じだ。
だけど、そんな歌でも僕は自然と笑っていた。あの無表情なデルタですら、ごくわずかに、うっすらと笑みを浮かべている気がした。
「……なるほどな、今度はここで咳をするかもな」
「ええ。一緒に行きますか、東公園。さっきの動画の概要欄によれば、最近は彼女、毎日いるらしいですし」
「そうなのか……まあいい。付き合うか」
「珍しいですね。一緒に来てくださるとは」
「……どうせ会うなら、まとめて会った方があっちも効率いいだろ」
「なるほど。じゃあ、いつにします? 私はいつでもいいですが」
今回の休暇は恐ろしく暇であり、僕の予定もがらんどうだった。だけれど、一瞬一秒でも早く、あの歌を生で聴きたかった。
強くなった陽光が室内に差し込み、僕らを暖かく包む。早いもんだな……もう春か。そんなことを思いながら、僕は鴨川デルタに言った。
「……明日も彼女、公園にいるのか?」




