被害者K.D.の記録
安易な楽器の音に酔いしれるほど、僕は単純な人間ではない。
だから昨晩、鴨川デルタの部屋から延々と流れてきたウクレレの音階は、僕の耳を悪い意味で刺激した。うるさい隣人は注意するに限るが……彼女に再び会いたいとは思わなかった。むしろ即刻退けて欲しいくらいだった。
あの訪問から二ヶ月が経ち、色々とあったのである。それについてはまた、別の機会に話したい。
小一時間ほどしても、甲高いウクレレの音は正確に音階を刻んでいた。一時間ほど我慢できた僕、一時間ほど音を垂れ流している彼女、どちらも常人離れしているだろうが、流石に僕はもう限界だった。
軽く上着を羽織ると、僕はドアを開け、彼女の部屋まで駆けていった。一瞬、彼女がやったようにチャイムを五連続で鳴らしてやろうかと思った。自分の中では復讐の一種だったが、彼女と同類になることに気付いて止めた。
チャイムを一回鳴らすと、彼女はすぐに出てきた。だが一つ、おかしいところがあった。
彼女は何も着ていない、生まれたままの状態だったのである。
「……えっ」
「どうしましたか、もう十時ですが」
「いや、その……まず服を着てくれ。頼むから」
「そういうものですか。わかりました」
そう言うと彼女は静かに戸を閉める。
今更だが、鴨川デルタには頭のネジがないのだろう。五歳児ですら、訪問者に全裸で応対する子はいないと思う。なのに、彼女はさも当たり前のように出てきた。……そういう性癖なのだろうか。
隣人の非常識さに頭を抱えていると、再びドアが開く音が聞こえた。ようやくか、と思いながら顔を上げると、僕は唖然とした。
彼女は白パーカーだけで出てきたのである。平然と僕の顔を見つめる彼女に、もう突っ込む気力はなかった。
あまりこういったシチュエーションに耐性はなく、早いうちに苦情を伝え、退散しようと思いながら話しかける。
「九時ごろからずっと、音が鳴り響いててうるさいんだ。歌ならいい……良くないけどマシだ。でも謎の音階が延々と聞こえてて、ノイローゼになりかけてる。あれ、やめてくれないか」
彼女は相変わらず無表情のまま、「いいですよ」とあっさり承諾する。若干拍子抜けした感もあるが、これで一件落着である。
「頼むから、周りに迷惑かけることだけはやめてくれ。じゃ、夜遅くにごめんな」
「こちらこそご迷惑をおかけしたならすみません。『うくれれ』というものを練習していたので」
「……練習? 」
「ええ。ご飯を食べるのも忘れて練習してしまうのです。今度は、別の場所で練習することにします。人影がない、他の方と被らない練習場所で。それではおやすみなさい」
彼女は淡々とあいさつを告げ、扉を閉じた。
いや待て、あれが練習だったのか? 彼女はまさか、一時間休む間も無く、延々と音階を弾き続けていたのか? 全然疲れているそぶりも見せなかったのに?
そう考えた瞬間、正体の知れぬ恐怖が湧き上がってきた。なんだかとても疲れてしまい、今夜は早寝をしようと決意しながら、僕は自室へ戻った。
次の日の昼間、僕は尽きてきたカップラーメンを補充しに、近所のコンビニへと出かけた。ちょうど好きなサスペンス漫画の続刊も発売され、僕の気分はその日の天気のように晴れ晴れとした水色に染まっていた。そのせいか、なぜか僕はいつもは行かない遠くのコンビニへ寄ることにした。
コンビニの自動ドアを抜け、慣れない空気が飛び込んでくる。人は誰一人いなかったが、延々と鬱陶しいコンビニのCMらしき音声が響き続け、静寂とは程遠かった。
手前から三番目の棚に、カップラーメンは整然と並べられていた。こう見ると、僕は食事において食べ物を美味しく味わっているわけではなく、ただ単に栄養を摂取するための過程なのだなとしみじみ思う。もう少し生活の中のちょっとした感覚を磨く体験はしたいと思うが、毎日の仕事に追われてそれどころではない。ただ、なんとなく感動を求める衝動に駆られ、新発売の商品をカゴの底に置くと、いつものようにレジへ向かった。
「よっ、大道」
急にどこからか、軽快な呼び声が聞こえた。信頼できる相棒とも、悪魔の囁きとも取れる声だ。そして、この声には聞き覚えがあった。
「何ぼーっとしてんだ、アタシだよ、船見だ」
「船見……!?」
声の主は、レジにいた。彼は青と白のストライプの制服を着こなし、まるでコンビニの設備の一つであるかのように、この環境に同化していた。だから僕も、まさかレジの彼女に呼び掛けられたとは思わなかったのだ。
彼女こと船見羊花は、十年来の友人である。いわゆる悪友というやつで、彼女とともに犯した様々な悪業は、危うく僕の大学推薦を取り消すところであった。まあ、それらの日々が楽しかったのは確かだが。
卒業後、僕は大学へ行った。彼女は父親の豆腐屋を継ぐと言っていたが、その後連絡は途絶え、疎遠になっていた。高校時代の思い出を形成した彼女が、自分の生活から存在を消していくのは寂しいことだったが、そういうのが人生なのだろうと許容し、今の今まで生きてきた。
だが、心のどこかでは彼女と再会したいという気持ちがあったのだろう。彼女の姿を見た瞬間、堰を切ったように懐かしさと喜びが溢れ出てきた。
「ここで働いてたのか、船見。随分様になってるな」
「まあな。『働く』っつっても、ほとんど人は来ないんだけど。……あれから豆腐屋継いで、今もやってんだけど、親父が病気になっちまってさ。さらに金が必要だから色んなところで働いてんだ」
「病気? 船見のお父さん大丈夫か?」
「ああ、そのうち治るやつだって医者は言ってたし」
「良かった……でも大変じゃないのか、最近はそんなに職場って見つかるもんじゃないだろ。お前もそのうち倒れないか心配だけど」
「大丈夫大丈夫。体力はクラスでトップだったろ。それに、高校時代の同級生に色々助けてもらってるんだ。ここ以外の職場はそいつに紹介されてるとこもある」
「そいつって……」
「綿部沙月だよ。学級委員長だったあいつ」
「嘘だろ……」
一方は高校きってのワル、もう一方は絵に描いたような優等生であり、どこに接点があったのかまるでわからなかった。そのため、船見が綿部に助けてもらっているというのが、どこか間の抜けた冗談のように聞こえたのだ。……表情を見るに本当のようだが。
「まあ、色々あったんだよ。話すと長くなるから今はやめとくぜ。あれだけで小説の一、二本は書けるくらいな。それで、大道は今何やってんだ」
「郊外の天文台の職員をやってるんだ。まあまあ楽しい仕事だよ」
「そうか……昔からそういう宇宙系好きだったもんな、小難しい記事なんか読んだりしてさ」
「ああ、ぼちぼち満足してる」
そう言いながら、脳裏には鴨川デルタの忌まわしい顔が浮かんでいた。思わず顔をしかめる僕を、彼女はきょとんと見つめていた。話題を逸らすように、僕はあっけらかんと言った。
「そうだ、トイレ借りてく」
「あー、故障中っていうか、それでもというか……とにかく今は使えねえんだ」
「そっか、じゃあ急ぎ目で帰んないとな」
すると突然、自動ドアが開く音がし、僕たちは我に返る。中年男性が店に入ってきたのだ。客がいなかったとしても、あくまで勤務中だった彼女と他愛ない会話を楽しんでしまったことに申し訳なさを覚えた。
彼女は「じゃ、また」と小声で言って、手際よくレジ仕事を終えた。久しぶりの邂逅を、あくまで店員と客というそっけない関係で終わってしまうのは惜しいことだった。しかし、最後に別れの言葉を言う暇もなく、彼女は次の客の相手をし始めてしまった。
また来よう。そうすれば、メアドか電話くらいの交換はできるかもしれない。
そう決意しながら、僕は店を去ろうとした。はずなのに。
「お、お前ら、全員、手を上げろ。こっちは銃を持ってんだぞ。早く、ほ、ほら、手を上げろこの野郎」
背後から急に、ヒステリックを起こしたかのような怒鳴り声が聞こえた。突然の出来事に、僕はしばらく目をパチクリさせていた。
とりあえず手を上げ、ゆっくりと首を回すと、先程店へ入ってきた中年男性が……なんと、黒い覆面を被り、船見にハンドガンを突きつけていたのだ。お手本のようなコンビニ強盗である。
船見は、丸い顔を深いブルーに染めながら、生気のない表情で中年男性の顔を見つめている。様々な悪業を犯したやんちゃな彼女でも、銃を突きつけられたら当然恐怖を感じるだろう。
中年男性の方にも目を向ける。彼は初犯なのだろうか、額に汗をかき、まるで彼自身が被害者であるような顔色だった。右手でなにやらカバンの中を漁り、左手で銃をそれらしく構えているが、目を凝らすと小刻みに震えている。相当焦っているであろうことは歴然だった。
彼はカバンの中からエコバッグらしき黄土色の袋を取り出すと、船見に突きつけた。
「は、早く、金を出せ。ありったけ、レジにあるやつ全部だ。そこの自動ドアんとこに立ってるやつも、う、う、動くなよ」
船見は青ざめたまま、急いで金をかき集め始めた。そうして、集めた札や小銭を一気に袋に流し込むと、再び手を上げて銃口を見つめていた。その荒っぽい手つきには、彼女らしさが残っているような気がして、相応しくない懐かしさを覚えてしまう。
その一連の流れを見て、中年男性は安堵の表情を浮かべていた。強盗においてのヤマ場を超えた、ということだろう。となれば、後は茶番である。彼は「そうだなあ」と呟きながら、店内を見回した。
「おい、て、手を出せよ」
「手……?」
「ああ、両手だ。腹の前にちょっと突き出すだけでいい。後は、な、なにもするなよ」
僕も船見も、その突然の要求に、キョトンとして突っ立っていた。「金を出せ」というフィクションのような脅しから、次は「両手を出せ」という誰でもできるような陳腐な要求に成り下がったことを、どこか落胆している自分がいた。
彼は、もともと使うつもりだったのか、偶然持ち合わせていたのか、カバンから真っ黒な手錠を取り出し、船見の手に取り付けた。そして素早く鍵をかけると、その鍵をカバンの中へ放り込んだ。彼女は驚愕し、慌てて両手を振り回して暴れたが、元々くっついていたようにまるで取れない。その中年男性は、下卑た笑いを浮かべた。
その手錠からは、長い鎖のようなものが伸びていて、鎖の先にもまた、手錠があった。彼はそれを、レジスターの液晶部分の柱に取り付け、ガチャガチャと音を立てて鍵をかけた。
一瞬、逃亡後のことを考えての行動かと思った。通報を遅らせれば、警察から逃げきる時間は十分に確保できる。
その場合、僕も拘束されなければ利に合わない。要はこの場にいる者に通報されなければ良いわけで、彼にとってそれが最上の選択だと思う。
しかし。彼はそれを実行しなかったのだ。完全に動けなくなった船見を見て満足げに笑うと、今度は僕に銃口を向けた。そして、再びカバンの中を漁ると、今度は大きな黒いエコバッグを取り出して、僕の方へと投げたのだ。バッグは、僕の目の前に、ジャラジャラと音を鳴らして落ちた。
「お前には、べ、別の仕事がある。入り口から一番目と、に、二番目の棚の間を通って、向こうの棚の酒類を全部それに詰め込め。それが終わったら、そ、その中にはオートロックの拘束具が二つ入ってるから、そ、それで両足と両手を拘束しろ」
……酒か。
僕は、半ば呆れ返っていた。彼は先程、船見からかなりの大金をせしめていたように見えた。だがこの男は、それでも物足りないらしい、今度は酒をせびってきた。
だが、ここは指示に従うしかない。あんな外道に怪我をさせられるなんて、たまったものではない。
ゆっくり、ゆっくりと、僕は手を上げながら奥の棚へ向かった。彼は僕に銃口を向けながら、右手で金の入った袋に触れ、度々見つめている。除夜の鐘があっても消したりないほどの煩悩が、この男に詰まっているように思えた。
……何かおかしい。そんな違和感も覚えたが、まずこのシチュエーションが一番おかしいのだ。
そうして、ビールの缶が大量に並んだ棚へと到達した。ほんの数十秒間の出来事だったのだろうが、数時間にも感じられた。
彼は銃を横に構えていた。おそらく、僕の様子を伺うためだ。逃げたかったが、監視されているのなら、到底無理なことだ。
「早く入れろ、は、早くだ、急げ!」
彼は声を荒げた。至近距離で聞けば耳をつんざくような叫びだったのだろうが、相変わらず呑気に流れているCMの音声のせいで、若干響きがマイルドになっている。
先程まで鬱陶しかったものが、今では感謝の対象となるとは、と僕は運命の皮肉を感じながら、声とCMに耳を澄ました。
そのとき、はっとした。
何か、二種類の音声以外にも、聞こえるものがある。ドリンク類の棚の横にある、トイレの方から、優しく快活な、暖かい南国の太陽のような響きが。
どこかで聞き覚えのある、単調な音階とともに。
「ウクレレ……?」
先程まで高ぶっていた鼓動が、徐々に落ち着きを取り戻していく。この音の主には確信があった。
「人影がない、誰とも被らない場所」。
見事に合致しているじゃないか、鴨川デルタの発言と。
「な、何してんだ、早く詰め込め!」
彼は乱暴に銃を振り回しながら怒鳴った。さっきまでなら、ビクビク怯えて仕方なく指示に従っていただろう。しかし、僕は意外なほど冷静になっていた。
今まで僕たちは、あんな外道に震え上がり、頭を下げて言うことを聞いていた。誇張気味だが、生きるか死ぬかの瀬戸際だった。
しかし、そんな僕たちの側で、彼女はのんびりとウクレレの音階を弾き続けていたわけだ。あの単純かつ味気ない作業を、延々と繰り返していたわけだ。おそらくあのトイレの中だけは、緊張も怒声もなく、牧歌的なウクレレの音だけが響く平和な世界が広がっていたのだろう。
この差は、あまりにバカらしいことに感じられ、あっという間に心は冷めていた。
……ここで、僕はこの状況を切り抜ける解決策に気がついた。ひょっとしたら、鴨川デルタのウクレレの音階よりも単純なものだった。
これを説明するには、あの中年男性がついている嘘について説明しなければならない。
彼は、銃についてよく分かっていないのだ。もしかしたら、あの銃が偽物だということもあるかもしれない。
違和感を感じたのは、僕がビールの棚まで移動しているときだ。彼は銃を片手で持っていた。至近距離にいた船見相手なら分かるが、ほどほどに離れた相手にそんな持ち方をしていては、当たる確率は低いだろう。それに、もし当たったとしても致命傷でなければ、即刻次の弾を撃たねばならない。片手で撃った時の反動を考慮していないのだ、彼は。
そして、マフィア映画で得た情報だが、銃の横持ちにメリットはないらしい。というか普通に考えればそうだろう。縦に持って使うためのものを、わざわざ横に持つ必要はない。よほど混乱していない限りはだ。
彼が、実力を隠した天才銃使いという可能性を考えなければ、ただの素人なのだ。
……だが、そんな真相を知ったところで、どう動けばいいのかは分からなかった。彼が銃を使えないというのはあくまで推理に過ぎないし、怪我するリスクだって十分ある。もし銃が使えなかったところで、どうやって奴を倒すんだ、僕は。
すると、ガラーッと戸が開く音がした。場に似つかわしくない、陽気とさえ言える音だ。その音はドリンク売り場の隣から鳴り、そこに何があるか、僕はよく知っていた。
「偶然ですね。ところで、今はどのような状況なのでしょうか」
鴨川デルタは、シェル・ピンクのウクレレと、それを収納するケースを抱え、のこのことトイレから出てきた。彼女の周囲だけ、時の流れが遅くなっているのではないかと本気で考えるほど、呑気な表情をしていた。
彼女は店内を見回し、向こうで銃を構えながら呆気にとられている中年男性を目にして、全てを理解したようだった。
「昼食を食べていなかったので練習を中断したのですが、もう少し早めに切り上げた方が良かったでしょうか」
彼女は無表情のまま、淡々と話した。
「ワーストタイミングだったな」
僕はため息をついた。
「……お、おい、なんだ、お前! 手を上げろ! 早くしろ!」
中年男性は、不測の事態にしどろもどろになっていた。店内に僕と船見がいると考えて入店し、二人を上手いこと操って慢心していたところに、この呑気なウクレレ娘が現れたわけだ、混乱するのも当然である。
気づけば、鴨川デルタの目は中年男性をじっと見つめていた。品定めをするような、冷静かつ無駄のない視線であった。
「あの方の銃、本物でしょうか」
「さあな。僕は偽物だと思ってるけど、あくまで推察だ」
「そうですか。では、行ってきます」
「……え?」
すると……なんと、彼女はウクレレとケースを抱えたまま、強盗へ向かって突進したのだ。
あまりに無謀なことだった。ひょっとしたら、彼女が死ぬかもしれない。焦燥感が心を埋め尽くし、とうとう僕まで走り出した。
「な、なんだ、こら、撃つぞ!」
「ご自由に」
なんとしてでも止めたかったが、僕から彼までは遠すぎる。それに、既に銃口は彼女に向いていて、素人でも射程距離範囲内だと分かるくらいに近付いていた。
自分の無力を悔やんだ。後悔なんて、人生で何回したかわからない。しかし、その中でもとりわけ大きな後悔であった。つい数ヶ月前に知り合った、特に思い入れのない少女に対して、こんな思いを抱くとは。意外でもあった。
次の瞬間、甲高い銃声が店内を震わした。あの銃は、紛れもなく本物だった。
「鴨川っ!」
僕は思わず叫んだ。しかし、返事はない。
店内には、相変わらず間の抜けたCM音声。それ以外に音はない。体から力が抜け、床にへたり込んでしまう。
……救えなかった。
その事実だけが、僕の心に鋭い棘となって突き刺さった。悔やんでも、悔やみきれない。そんな感情を体験したのは、初めてのことだった。
「なあ、大道……」
船見の声が聞こえる。しかし、返事をする気力は残っていなかった。
「知り合いなのか、その娘」
静かに頷くことしかできなかった。
ああ、鬱陶しい、奇怪とか言ってた割には結構、僕は鴨川デルタのことを気に掛けていたらしい。その証拠に今の僕は、彼女を失ったことで、心に穴が空いたように感じている。
「仕方ない、恩に免じて金はとらないでやるか」
「……何言ってるんだ」
「ちゃんと見ろよ、ほら」
船見は目の前を見るように促した。静かに瞼へ力を込め、唾を飲む。今から見るものは、僕の過失が引き起こした事だ。彼女を止められていれば、こんな事態は避けられたのに。
「おいしいですよ、これ」
「……は?」
聞き覚えのある声が耳に飛び込んできたが、その声はもう聞く事のないはずのものだった。
ゆっくりと顔を上げる。そこには、真紅の血にまみれた彼女の姿……ではなく、純白のクリームにまみれた彼女の姿があった。
「何が……どうなってるんだ?」
素っ頓狂な声を上げてしまった僕は、まるで異世界に来たように、今自分のいる状況が掴めていなかった。
そんな僕を見て、船見は豪快に笑った。
「ああ、撃たれたと思ってたのか、デルタちゃんが。あん時、アタシがあいつの背に頭突きして、それで軌道がズレたんだ。なんとか攻撃するチャンスを探してたんだが、あの娘が強盗に隙を作ってくれたんだ、感謝しなきゃな」
「そして、逸れた弾丸がシュークリームに当たって、中身が飛び散ったというわけです。せっかくなので、それを頂いているところです。私自身は早々に帰ろうとしたところを撃たれただけなので……船見さんのおかげですね、助かりました」
彼女たちは親しげに言葉を交わしている。鴨川デルタの無表情も、どこか和らいでいるような感じがあった。
「……どういうこった」
「面白い顔しやがって。デルタちゃんと知り合いなの、意外だったか? まあ今日が初対面でさ、トイレが故障中だって言ったら、そこを『ウクレレの練習に使わせてくれ』って。店長がいない時間だったから許可したんだよ」
「……バカなのか?」
「あ? 破天荒って言いな」
現状把握まで十数秒を要したが、僕は大きなため息をつくと、安堵と疲れがドッとのしかかってきた。先程まで覚えていた後悔は全て無駄だったと考えると、羞恥心と困惑まで加算され、もう何も考えたくはなかった。
「一件落着ですね」
「……もう勘弁してくれ」
こうして、物騒な午後の出来事は終幕した。
その後の警察の対応は、まあまあ丁寧で、まあまあ鬱陶しく、結論から言えば面倒だった。これも彼らの仕事だと言うならそうなのだろうが、疲労の募った被害者をさらに苦しめる真似をして楽しいのだろうか。
そういえば、あのとき鴨川デルタについて考えていたことも、今では嘘っぱちではないかと思っている。僕は「鴨川デルタを気に掛けている」訳ではなく、ただ機械的に日々を貪り、時々彼女に振り回されて疲弊するだけだ。
たとえ真実がそうでなくても、そういうことにしよう。今日はひどく疲れたんだ。僕はもう、何も考えずに寝るつもりだ。




