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観察者K.D.の記録

 その日は、朝から陰鬱なねずみ色の雲が空に腰掛け、図々しく居座って離れなかった。いっそ大粒の雨が降ってくれれば清々しいが、奴は何をするのも億劫らしい。雨の代わりに、僕たちの心にはぼんやりとした不安が降りかかってきた。

 そんな天気のため、せっかくの休日でも出かける気にはなれなかった。仕方なく家に引きこもり、友人から勧められて買った、マイナー作家の全集を読み進めようと、あくびをしながら一ページ目を開いたところだった。


 ピンポーン、と間延びした呑気な音がした。何か頼んでたっけ、と僕は応対しに立ち上がる。だが、その時。

 続けて四回、チャイムの甲高い音が部屋中を飛び回った。思わず、顔をしかめた。こんなことをする奴は、僕の知る限り一人しかいない。鴨川デルタである。

 彼女は先日、僕の隣の部屋に引っ越してきた。もし戸を開ければ、会うのは二度目になる。しかし、そのつもりはさらさらなかった。奴は非常に厄介な隣人であり、関わるのは気が進まなかった。


 ワイヤレスイヤホンを耳穴へ突っ込み、適当に「おすすめ」と出たショパンのノクターンを流した。クラシックには疎かったが、どこかで耳にしたことがあるな、とは感じた。

 再び小説に意識を戻すと、最初の作品は「曇天」という名前だった。まさに今日読むのにはふさわしく、心に温もりが宿ったような感覚を覚える。

作品の始まりはこうだった。


『羽溜平野を真っ二つに切り裂くよう、渡瀬川は雄大な風土と百姓たちの誇りを抱え、今日も日本海へと注ぐ、半永久的な徒労を繰り返していく。次郎吉は、その自明の一事を、まるで自らの持病に関して話すかのように、真に嘆いていた』


 どうやら、羽溜平野に住む次郎吉という名の百姓の話らしい。彼は、平野を流れる渡瀬川をまるで自らの家族のように捉え、なんの感慨もなく灌漑に利用される彼──次郎吉にとっては渡瀬川を指すらしい──の怠惰かつ犠牲的な日々を嘆いていた。そうして、百姓仲間に呼びかけた。「渡瀬川のことも大切にしてやってくれないか」、と。

 だが、当然変人である彼の言うことを真に受ける者はいなかった。次第に次郎吉は厄介者扱いされ、百姓たちから陰湿な嫌がらせを受ける。田んぼに引くはずの水が忽然と消え、作物は目も当てられぬほど荒れていた。彼がその被害を訴えても、村人たちは見向きもしなかった。

 そのうち次郎吉は村八分にされ、十分な食料も得られずに衰弱していく。そして、最期の力を振り絞って川へと手を伸ばすが、あと僅かのところで力尽き、河原で無残な姿となって絶命した。

 ここで、物語は幕を閉じる。


 あまりに後味の悪い話である。

 村人たちの所業は度を越していると思ったが、現実に次郎吉のような人間がいたら、間違いなく忌避はしてしまうのだろう。命も感情もないただの川に、彼は並々ならぬ愛情を注ぎ、川のために怒り、川のために死んだ。別に誰かを救ってもらっただとか、長年使い続けているとか、彼にはそのような因縁もない。一体どのように気が狂えばそんな人間になれるのだろう。僕には到底理解不能である。

 本をゆっくりと閉じた後、窓の外を眺めると、やはり黒雲の暗澹たる雰囲気が町を支配していた。


 突如、ピンポーンという音が、部屋を飛び込んできた。一瞬、また彼女が来たのかと思った。しかし、今度のチャイムは五回ではなく、一回きり。ということは、鴨川デルタではなく、宅急便か何かだろう。

 僕は陰鬱な気を吹き飛ばすように、玄関へ早足で向かう。様になっていない走り方ではあったが、自分の筋力不足を痛感するには十分であった。

 そうして、戸を開ける。その瞬間だった。


 続けて四回、けたたましいチャイムの音が、部屋を吹き飛ばすような勢いで鼓膜に叩きつけられた。

 気づけば僕の目の前には、鴨川デルタの澄ました顔。

 嵌められた。まだ状況が掴みきれていない頭の中で、その一事だけは確かに理解できた。


「大道さん、やはりいましたね、要件があるのですが」

「すまんな、今忙しいんだ」


 扉を静かに閉めようとしたその瞬間、彼女はなんと、扉と壁の間に左足を差し入れた。これではまるで、悪徳な宗教勧誘や訪問販売員のようである。いや、この小柄な少女には、それ以上の厄介な気が帯びられていた。考えすぎかもしれないが。


「大事な要件です。聞いていただかなければ困ります」

「……大事な要件? ほぼ初対面だろう」

「そこをどうかお願いします」

「まあ……言うだけ言ってみな。多分無理だが」


 彼女は無表情のまま、真っ直ぐに僕の瞳を見つめていた。あいにく僕の網膜には薄灰色のフィルターがかかっている。例え、いたいけな少女の命乞いか何かでも、凍てつくような視線を浴びせてしまう。鴨川デルタももちろん、例外ではない。

 すると、彼女は何かを気にするように周囲を見渡した。そして、誰もいないことを確認して頷くと、一呼吸おいて呟いた。


「私の部屋に、知らない女性がいるのです」


 一瞬、冗談かと思った。それが本当ならば、まぎれもない事件だからだ。そんな簡単に、テレビや新聞でしか見聞きしない他人事が、自分の元にやってくるはずがない。そう信じているし、そう信じたがっていた。

 だから、「冗談はやめてくれ」という願望込みで、彼女に語りかけた。


「……そういうのはいらないから。本当だとしても、まず警察に通報してくれ。僕がなんで、友人でもないお前の家のことに関わらなくちゃならないんだ。勝手にそっちで解決してくれ」

「警察には電話したくないのです」

「いやいや、なんでだ。そしたらもう、自分で解決するほかない。周りの人に飛び火はNGだ」


 すると彼女は、しばらくぼーっとして動かなかった。怪訝な目で見つめていると、突然、彼女は再び話しかけてきた。


「しかし、あなたにメリットがないわけではありません。周辺の治安を良くすることにつながりますし、なにより……」

「なにより?」

「私との仲が進展します」

「それになんの得があるんだ?」


 むしろ損だ、と内心毒づいた。そんな僕の心も知らず、彼女は平然と答えた。


「生活になにか良い影響があるわけではありませんが……。周囲の人間から見れば私は容姿がいいようですし、そのような女性と交流する機会を頂けているというのは中々のステータスになり得ると思います」

「いや、そっちから交流しに来てるだけだろ。というか、そんなステータスはいらん」

「では……」

「まだ粘るのか」

「ええ。こうなれば、有る事無い事、悪い噂を流させていただきます」

「おい待て、おい」


 踵を返して立ち去ろうとする彼女を、思わず手を伸ばしてまで呼び止めた。さすがに、近所での評判が下がるのは避けたい。せっかく得た安楽の地──最近は鴨川デルタのせいでその名も揺らいでいるが──なのだ、今更逃すわけにはいかない。


「わかった、話は聞いてやる。話だけはな」

「ありがとうございます。では、立ち話もなんなので、あなたの部屋のリビングへ行きましょう」

「それはお前が言うセリフじゃない」


 そう言いながら、僕は彼女を家に上げざるを得なかった。無表情ながら、叛逆を許さない絶対的支配者の眼光を放っていたし、半ば脅されているような状況なのだ、仕方ない。

 彼女は知らない街を散策するように、上下左右、僕の部屋のあらゆる物を目にしては、何やら頷いていた。何に納得したのかは定かではないし、全くもって興味はない。

 二、三分してようやくリビングのダイニングテーブルに腰かけた彼女は、突然語り始めた。


「気づいたのは、昨晩のことでした。クローゼットが少し開いていて、その中に女性の影が見えたんです。おそらく背中を向けていたので、私が彼女の存在を知ったことは気付かれていませんが」

「昨晩気付いたなら、なんで今なんだ。まあ来て欲しくはないが、来るなら昨晩でよかったじゃないか」

「実害はなかったので、いるだけならばいいかと思ったのです」

「んで、実害が出たから来た、と」

「理解が早くて助かります」


 特段、理解はしていなかった。理解を諦めただけである。

 彼女はたびたび視線を右へ向けていた。何を見ていたかは大体想像がつく。おそらく、先日買った春季限定の粉末ココアである。粉末ココアと季節になんの関係があるかは知らないが、気分転換にと、みすみす企業の策略にはまってしまったわけだ。


「……飲みたいのか」

「いいのですか。お言葉に甘えましょう」


 飲みたいのか否か聞いただけで、「飲んでいい」とは一言も言ってないのだが。


「はぁ……仕方ないな、ちょっと待ってろ」


 彼女に何かを与えるのは気にくわないことだったが、それ以上に客に菓子の一つも出さない自分の無礼さに気づき、僕はキッチンへ向かった。なんとなくだが、彼女の前で非常識さは見せたくなかったのだ。

 そうして、洗ったばかりの白いマグカップを取り出すと、高価な美術品を扱うような丁寧さで袋を開け、静かに粉を注いだ。冷蔵庫から牛乳を取り出し、粉を覆うようにコップへ流し入れる。スーパーで一番安値の牛乳も、扱い方次第で搾りたてと見紛うほどだった。

 そして数回、スプーンをココア色の水中に泳がせた。中心から外側へ、綺麗な渦巻き模様を描くように。そうしてマグカップを電子レンジにかけてから、僕は肝心なことを鴨川デルタに尋ねた。


「……んで、実害ってのは、何をされたんだ。窃盗か、盗撮か、それとものぞきか?」

「いえ、どれでもありません。当然不法侵入ですが……意図が不明です」

「何をやらかしたんだ、そいつ」

「一度出かけるふりをして、部屋に潜んで様子を伺ってみたのですが、私がいなくなったのを確認すると、即座にベランダに出てカメラを構えながら、何かを一心不乱に見つめていました。集中するためか分かりませんが、彼女はこっそり限定品のミントガムを盗んでいたのです」


 深刻な表情──といってもほとんど変わりはしないのだが──をして彼女は言った。思わず拍子抜けしてしまうが、改めて彼女について考えれば、こんな感じの理由で来るのだろうな、と予想はできたはずだった。


「……なんだよ、それだけか。それにしても、カメラを構えるだけ……か。向かいのマンションを覗いてんのかもしれないが、わざわざ他人の部屋からやる必要はないな」


 すると、彼女はしばらく何かを考えるように目線を逸らした後、突然立ち上がり、僕に告げた。


「そこで、です。彼女をひっ捕らえて、事情を聞きましょう」

「……は?」

「探偵でもない人間が推測するよりも、当人に聞いてしまった方が何倍も早いです。やりましょう」

「お前、それ今思いついたろ」

「……なぜ分かったのですか」

「表情が分かりやすいんだよ、お前は。あと、その考えは無茶すぎる。その女が凶器でも持ってたらどうするんだ? 自分から飢えたライオンの檻に入るようなもんだぜ。やめた方が賢明だ」


 ど正論をかました僕に、彼女は何も言い返せないようで、目をパチクリさせていた。いくら変人とはいえ、この世の真実には勝てないのだ。


「すいません、何か誤解させてしまっているようで」


 ……誤解? 今の会話の、どこが?


「確かに危険であることはわかります。でも、そのための、大道さんです」

「……つまり?」

「成人男性ならば、ある程度は戦えるかと」


 別に正論をぶつけられて怯んでいるわけではなかった。単に、会話に齟齬が生じていただけなのだ。彼女は僕を、盾か何かと勘違いしている。


「来ていただけますよね、私と親しくなれますよ」


 その言葉は、脅迫に近かった。来なければ変な噂をばらまく。そう言っているのと違いはない。全く鴨川デルタは、底知れぬ恐ろしさを秘めている。

 ああ、と力なく答えた僕は、では行きましょうと腕を引っ張る彼女の後を、トボトボとついていくほかなかった。


 彼女の部屋に足を踏み入れると、独特の甘い果実のような匂いが飛び込んできた。どこか不思議だが悪い気はしない。悔しいことに、むしろ良い。だんだんとそう感じられてしまった。

 僕は密かに「あのクローゼットか」と指をさす。しかし、彼女は首を振るばかりだった。


「え、いないのか」

「ええ。今は外出しているようです。私が外出するときに合わせて、たまに彼女もコンビニかどこかへ行くみたいです。バレバレですけれど」

「結構大胆なやつだな……んで、僕は何すればいいんだ」

「ああ、そうですね、言い忘れていました。あなたには、そこのクローゼットに入ってもらいます」


 クローゼットなんてこの部屋にいくつもあっただろうか。そう思いながら、鴨川デルタの指差す方向を見る。

 いや、おかしい。クローゼットは一つだけで、後は殺風景なミニマリストの部屋が広がっている。なんだか嫌な予感がする……どうせ、確信に変わるのだろうけど。


「どうしたのですか、不思議そうな顔をして。あの女が入っていたクローゼットに身を潜めていただければいいのです。彼女が驚いている隙に不意を突きます」

「……そういうことかよ」


 このイカれた少女の言うことは、いつも事前になってからしか予想がつかない。気付いた時には暴走は止められないのだ。現に今も、謎のロープを手にしている。こいつの行動は全てが濃霧に包まれ、意図が読めない。だが、今回ばかりは断らなければ、自分の身の安全が保障できない。


「あまりに無茶だ。流石に僕だって、近所の評判と自分の安全だったら後者をとるさ。なんでも言うこと聞くと思わないでくれ」

「そうですか…………待ってください、よく耳を澄まして」

「……耳?」


 鴨川デルタが黙りこくると、一気に部屋に静寂が広まった。それと同時に、ある音が鼓膜を震わす。リズムよく、廊下のコンクリートを刻む音。

 ……まさか、例の女が帰ってきたのか。

 まずい。これは非常にまずい。


「急いでください、大道さん。早くしないと見つかってしまいます」

「え、あ、ちょ、ああ……!」


 僕は激流に流されるようにして、自然とクローゼットの中へ身を沈めた。どうやら鴨川デルタはソファーの陰に隠れたらしい。これで安心だ。

 ……いや待て。泥棒でもなんでもない僕らが、なぜビクビクしなきゃならないんだ? これまたまずい。嵌められた。


 コツ、コツ、コツ。


 足音は次第に近づき、とうとう、玄関の開く音が聞こえてきた。部屋に入ってきたならば、後は一直線にこちらへ向かってくるのみだ。

 まずい、考えろ、僕。もし奴が鋭利なナイフを持っていたとしたら? いきなり飛びかかって奪い取ってやろうか。いやしかし、土壇場に追い込まれた人間ほど恐ろしい存在はない。ここで彼女を激昂させて僕に何かメリットがあるか? だが、そうじゃなかったら大人しく身を潜めていろとでも言うのか。こんな狭いクローゼットでは無茶すぎる。


 万策尽きた僕は、覚悟もつかないまま半ば諦め気味で、彼女の近づいてくる音を聞いていた。危うく走馬灯が流れ出す寸前であった。

 突如、ピタッと足音が止まる。丁度クローゼットの真ん前で、だ。いよいよ奴が入ってくる。心の準備はまるでできていなかったし、もうどうなってもいいやという諦観に僕は包まれていた。


 ガラーッ。


 呑気な音とともに、僕の視界にはクローゼットの外、奴の視界にはクローゼットの中が映る。当然そこには、見知らぬ謎の人物の顔が見て取れた。

 彼女はボサッとしたロングヘアをして、黒Tシャツと黒ズボンを身にまとっていた。形容するとすれば、黒子かカラスであろうか。そんな彼女は、「えっ」と声を上げたきり、固まってしまった。

 今だ。運良く、凶器も持ち合わせてなさそうだ。

 僕は半分自棄になりながら、「うおおおお」と間抜けな大声を上げ、彼女に飛びかかった。石像のように固まっていた彼女は、あっけなくフローリングに倒れる。そしてそのまま、加勢した鴨川デルタと僕の手によって、見事にロープで縛られてしまった……鴨川デルタの魂胆にまんまと乗せられたのは、悔しいことだが。


「おとり役どうも、大道さん」

「……何も言わないでくれ」

「な、なんなのよ、あんた達!?」

「『なんなのよ』はこっちのセリフだ。なんでこいつの部屋に侵入してるんだ、お前」

「……そんなの、どうでもいいでしょ」

「よくない。犯罪だぞ? まあどうせ警察に引き渡すから、ここで喋る必要はないな」

「警察?」

「ああ、そうだ。犯罪者の対処は警察って昔から決まってるだろ。当然お前も例外じゃない」

「いや…………それだけは……!」


 なんて身勝手な奴だ、と心の中で毒づく。勝手に不法侵入しておいて、それでいて捕まるのが嫌だなんて。

 鴨川デルタも、厳しい目──とはいっても普段とほぼ変わらないのだが──で彼女を見つめている。勧善懲悪が成り立つであろうこの状況は、見ていてとても心地が良い。

 すると鴨川デルタはおもむろに口を開いた。この時ばかりは心の片隅で、「言ってやれ」と応援していたのである。

 しかし、飛び出したのはまたもおかしな言葉だった。


「……警察に突き出すのはやめましょう。こちらの条件を飲んで頂けるなら」

「……え?」

「……は?」


 女は、まるで救世主を見つめるように瞳を輝かせた。

 僕は、まるで極悪人を蔑むように瞳をねずみ色に染めた。

 ……やはり、まともな発言を期待した僕が馬鹿だったか。何を言ってるんだ、この反社会的非常識ガールは。


「ほ、本当!? 本当に通報しないでくれるの!?」

「ええ。ただし、一つ条件があります」

「……条件?」


 指を立てる鴨川デルタを、女は怪訝な目で見つめる。先ほどとは打って変わって、相手の手を読む賭博師のような顔つきだ。全く、こんな奴を世に放しておいていいのだろうか。


「簡単なことです、あなたに損はありません。私たちに、ここの部屋に数日間潜伏していた理由を教えていただきたいのです。それと、ベランダからしきりに覗いていた対象も」


 あまりにも簡単なことだ。犯罪を見逃すには割に合わなすぎる。

 ……と思っていたのだが、突然、女の顔は青ざめ、額に汗が浮かぶ。何か知られたくないことがあるな。そう確信するのには十分な判断材料だった。


「どうしたんですか。早めに言っていただければ助かるのですが」

「いや……その……」

「言いたくないのですか。……分かりました、では通報します」

「待って待って! 分かった、言うから!」


 完全に手懐けてるな。

 鴨川デルタが飼い主だとしたら、女は猫じゃらしを追いかけて飛び回る猫のようなものだ。その姿は哀れでもあり、どこか喜劇のように愉快でもあった。


「私は……向かいのマンションのある部屋が見たかったのよ」

「ある部屋……ですか」

「ええ。二〇一号室に女が住んでいるでしょう? そいつの部屋から男が出てくる写真が撮りたかった。あいつ、別の女の彼氏と浮気してるのよ。だから、その現場を取り押さえてやろうと思ったの」

「……つまりは、私怨か」

「いや、私怨というか……単なる…………」


 何か言いづらそうにしている彼女を見て、僕の頭にはある一つの考えが浮かんだ。別に、彼女は本来ならば口ごもる必要はないわけだ。浮気しているかどうか知りたいのが私怨ならば、この場で言ってしまった方が通報されるリスクが減る。

 だが、実際の彼女はなぜか言い淀んでいる。プライドが高いならば部屋に潜むような真似はしないだろう。というかそもそも、そんなに精密な調査を自分の為に行おうなんていう意欲のある奴にはとても見えない。

 ……それは、何か別の存在が発言するかどうかを左右しているということではないのか。


「まさか、お前……探偵か? 依頼人がいるなら、そりゃあ許可も取らずに言っていいのか迷うよな」

「えっ…………いや、そういうわけじゃ……ないかも……いや……」

「図星のようですね」

「…………いやぁ……」


 判然としない彼女を見ると、鴨川デルタはたちまち電話を握り、わざとらしく番号を押すそぶりを見せる。

 そして、もう一度強く念を押すように言った。


「図星のようですね?」

「……はい……ごめんなさい、最近依頼がこなせてなくて……どんな手段を使ってでも解決しなきゃと、魔が差して……」


 探偵の女は返事をすると、がくんとうなだれて動かなくなった。


「これにて一件落着ですね」

「結局、本当に通報しないのか」

「ええ、そのつもりです。個人的に探偵には昔憧れていましたし、彼女の大胆な発想に感銘を受けましたから」

「……どんな理由だよ」


 探偵が殺人でも強盗でも何をやらかしていても通報しないのか、と突っ込みそうになったが、彼女の場合平然と頷きそうで怖い。僕は「後は任せた」と言い残し、部屋を去っていった。


 それから一週間が過ぎ、僕は平穏な日々を過ごしていた。鴨川デルタが再訪するのではないかという恐怖が心の片隅にこびりついていたが、杞憂だった。彼女とはたまに廊下で見かけて挨拶していたが、まるで来るそぶりを見せないのだ。一日を終えて布団の中に潜るとき、僕は彼女が来なかったことにひどく安心を覚えていた。


 土曜日になり、僕は久しぶりに散歩へと出かけた。今にも吸い込まれるのではないかと心配になるほどの青空が広がっていたからである。晴れ晴れとした気持ちで近所の公園に出かけたのだが、僕はそこで恐ろしい光景を目にしてしまった。


 なんとあの過剰な調査方法をする探偵が、我らが非常識人、鴨川デルタに連れられてコンビニの前を歩いていたのである。鴨川デルタはいつも通り無表情のままだったが、心なしか女探偵の方は酷く疲弊しているように見えた。あの様子だとまだまだ連れ回されるのだろう……ご愁傷様である。


 とりあえず、僕は鴨川デルタの興味の渦に再び飲まれるまで、この有意義な時間を楽しむこととしよう。曇天はもうしばらく、僕に猶予をくれるはずだ。

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