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訪問者K.D.の記録

 昨日、おかしな訪問者があった。

 おかしいと言っても、容姿に目立った特徴があるわけではない。いたって普通の女性である。

 明るめの茶色をしたストレートボブの髪に、ブカブカの白パーカー、ゆったりとした紺色のスカートを着ていた。あまり見ないファッションだったが、それがどうしたというわけでもない。おかしいのはその行動だ。


 土曜日の昼間、課題に追われて張り詰めた部屋の空気を破るよう、ドアを激しく揺さぶる音がした。その五秒ほど後、リズムよく五回、チャイムが鳴った。異常事態の発生を受け、僕は無意識的にため息をついた。

 一瞬、宗教の勧誘か、某放送局の受信料徴収かと思った。どちらにせよ胡散臭いことには変わりなく、ワイヤレスイヤホンを耳に突っ込んで居留守を決め込むことにした。

 しばらくしてチャイムの音は聞こえなくなり、再び静寂が訪れる。だが、誰かが立ち去る足音がしない。おかしな話だ。その矛盾を認識するごとに、気味の悪い結論へと至ってしまう。その謎の人物は、何もしないまま扉の正面に突っ立っているらしい。

 怖くなった僕は、忍び足で玄関へと向かい、静かに扉の外の景色を覗いた。

 するとそこには、禍々しいチラシを抱えた中年女性でも、社員証を提げたスーツの青年でもなく──可愛らしい童顔の少女がいた。

 だが、怪訝な姿であることに変わりはなかった。

 彼女は見たことのない琥珀色のパネルを抱え、それを凝視していた。パネルの背面には、規則正しく配列された白い模様が浮かび上がり、ぼんやりと光っているようだ。文字のようにも見えたが、あんな変な文体は見たことがない。


「……これまた変わった宗教だな」


 あんな奇っ怪な道具をわざわざこしらえてくるなんて、タチが悪く進化したものだ。宗教勧誘にも発展があるという事実は、呆れを通り越して感心を覚えた。

 彼女はそんな中の様子も知らず、一心不乱にパネルとにらめっこを続けている。左から右へと視線を振り子のように揺らす姿は、何かの文章を解読しているようだった。

 どこからか湧き出た意地悪さか、僕は彼女の姿をしばらく観察してみることにした。しかし、十分ほど経っても全く動く様子はなく、ついにはパネルを見ることもやめ、部屋の前で体育座りをし始めたのだ。

 その姿は、ある種の哀れみを呼び起こした。おそらく彼女が信奉している宗教さえなければ、こんな冴えない大学生の部屋の前で、十数分間座っているなどというアホな所業はしなくて済んだのだ。彼女を狂わせたのは、間違いなくその新興宗教であろう。

 なんとなくだが、次第に扉を開けたい気持ちが強くなってきた。一風変わった宗教への興味もあるが、一番の理由は下世話だった。適度に容姿のいい彼女を真っ当な生き方へ戻してやることで、あわよくば良縁を掴むことができるのではないかという、軽々しい欲求が芽生えたのだ。

 ほんの少し、チェーンをかけたまま、ゆっくりと扉を開けていく。鉄塊を押すような重さに、ここ二日は外出していない自分の不摂生を恥じた。


「あのー、大丈夫ですか」


 僕は、うずくまって虚空を見つめている彼女に声をかけた。大丈夫なのは、チャイムを鳴らされてから十数分後にいきなり顔を出す僕の方ではないかと心配になったが、後には引けない。


「あ、いらしたんですね。あなたはここに住んでいるのですか」

「そうですが……」

「単刀直入に言います、私をこの部屋に住まわせてくださいませんか。それとも、ここから退けてくれませんか」

「……へ? 」


 思わず素っ頓狂な返事をしてしまった。これは仕方ない、見ず知らずの女性にいきなり意味不明な要求をされたのである。無理はない。

 どうも宗教勧誘ではないらしい。彼女はまっすぐな黒い瞳で、僕の死んだ魚のような目を凝視する。真剣な表情だった。まさか、本気なのか。

 だが、真面目か冗談かはさておき、どちらにせよ彼女の要求を飲むのは困難なことだった。「程々容姿のいい女性と同棲」というのはあまりに都合のいい展開で、非現実的な提案を初対面の男性にぶつける人間は、大抵特大の地雷持ちである。

 ましてや、やっと手に入れた安住の地を奪われるのは言語道断だ。何か事情があるのだろうが、やんわり断らせてもらおう。


「いや、さすがにそれは初対面ですし、難しいですね」

「初対面じゃダメなんですか?」

「そりゃあ、お互いの名前も知らないからなあ。申し訳ないけど、他を当たってくれないか」

「……鴨川デルタといいます。エディウノ第二自治区出身の十九歳です。また来ます」


 彼女は唐突に自己紹介を始めたかと思うと、すぐに軽く礼をし、すたすたと歩き去っていった。僕はしばらく、謎の少女の来訪について思いを巡らせていた。

 やはり、薄々感じてはいたが……彼女は厨二病か高二病か、正式名称は忘れたが、自分の中で新たな世界観を作り上げ、それを現実にまで持ち込んでしまう、いわゆる「イタイ奴」なのではないか。頑張ればあの無駄に凝ったパネルも作れるし、彼女なりの世界観がにじみ出ていると考えれば、架空文字らしき模様も説明がつく。

 それに先程の自己紹介だ。世にキラキラネームが蔓延しているとはいえ、子に「デルタ」と名付ける親などいるのだろうか。まあ、「エディウノ第二自治区」にならいるのかもしれないが。

 そういえば、彼女は「また来ます」と言っていた。ため息をつきながら、僕は居間に戻り、読みかけの歴史小説を開く。今日はまだ見世物を見たようなッ気分で射られるが、明日以降は彼女への対応が苦痛になってくるに違いない。だるい。その一言だ。

 すると、次の瞬間。

 どこかで聞き覚えのある五連続チャイムが、部屋の中に響き渡った。この急展開には、思わず「え?」と呟いてしまった。

 ある意味ユニークな、鬱陶しいチャイムの押し方をする人物は、僕の記憶では一人しかいない。鴨川デルタである。だが、先程の訪問からまだ五分も経っていないのだ。一体何を考えているのだ、あいつは。

 僕は玄関へ急ぎ、覗き穴からこっそりと様子を伺う。そして、目を丸くした。

 彼女は大きなベージュの旅行カバンを手にして、さも僕の部屋に滞在するかのような格好をしていたのだ。

 再び玄関へ向かうと、半ば乱暴に戸を開ける。意味不明だった。僕の話を聞いていなかったのか、あの少女は。


「どうしたんだ、また」

「いえ、初対面ではダメということなので、再び来れば許可していただけると思ったのです。私を、ここに住まわせてくれませんか。それとも退去していただけませんか」

「無理なものは無理だ。いいか、泊めてくれそうな人を当たれよ。少なくとも僕は違うけどな」


 そうして乱暴に戸を閉じると、僕はリビングへ戻って一心不乱に携帯をいじった。他のことで気を紛らわし、鴨川デルタのことなど記憶から消し去りたかったのだ。

 だから、また五分後に五連続チャイムが鳴った時、僕は唐突に立ち上がると、ゆっくりと玄関へ向かった。まるで僕の話など聞いていなかったという事実は、堪忍袋の尾を一思いに引きちぎったのだ。

 そうしてチェーンを外し、ドアを乱暴に開くと、久しぶりに声を荒げた。


「ふざけないでくれ、さっき言ったことが聞こえなかったのか? いい加減別んとこ行ってくれよ、管理人さんを呼んでもいいんだぞ」


 どうやら腹の奥から捻り出した怒りは、彼女に伝わらなかったらしい。人形のような無表情のまま、首を傾げている。


「カンリニンさんを呼んでどうするのですか」

「はぁ? 当然、あんたをここから追い出してもらうんだよ。それでもあんたが動かないなら、その次は警察を呼んでやる」

「ですが……先日彼とこの部屋を買う契約を結んだので、追い出すというのはおかしいです。あなたも、私も、契約を結びましたよね?」

「何言ってるんだよ、あんた」


 契約……?

 もしこの少女の言うことが本当ならば、彼女は部屋を買ったことになる。

 だが、おかしい。既に居住者がいる部屋を売るはずはない。大金を積まれてOKしたとしても、僕に何かしらの報せは来るはずだ。把握漏れという可能性は……ないな。あの抜け目ない老夫婦のことだ、もしそんなことをしていれば明日は大雪が降る。

 だとすると。鴨川デルタの過失しか可能性は考えられない。


「待て、あんた、管理人と契約を結んだんだよな」

「ええ」

「どこの部屋を借りたか把握してるか? 単に、間違えてるだけじゃないのか」

「部屋の番号でしょうか。『205』ですが」

「残念だが、うちは『206』だ。さては、部屋の番号をよく見てなかったんだな」


 すると彼女は一歩引き、ドアの横に書いてある番号を見た。そして、「どういうことでしょう」と呟いていた。

 おそらく、彼女は階段から登ってきたところにある部屋の『201』の表示を目にした。そして、部屋番号を確認せず、順番に『202』、『203』……とカウントしてきたのだろう。そうすれば『205』は僕がいる部屋になる。

 しかし、そう上手くはいかなかった。


「このアパートの管理人さんは、ジンクスとか縁起とかを大事にしててな。部屋番号に忌み数は使ってないんだ。だから、『204』はない。あんたが部屋を間違えたのはそのせいだ」

「忌み数……?」

「4とか、9とか。聞いたことないのか……まあいい、とりあえず自分の部屋に行ってくれ」

「そういうものですか。ありがとうございます」


 彼女は軽く一礼すると、大きなカバンを引きずりながら廊下を歩いて行った。春なのに、夕立のような出来事を体験した。とんだ災難である。

 戸を閉じると、僕は深いため息をついた。どうも厄介な隣人が来てしまったらしい。今回の件で頼りにされなければいいのだが。


 ソファーにゆったりと腰掛け、いつものようにカップラーメンを摂取しながらパソコンの画面に対峙する。機械的でぬくもりのない、冷たい一日である。

 彼女の訪れは、そんな日々を根本から揺らがすような出来事だった。

 もちろん、当時の僕はそんなことに気づくよしもない。これは旅路を振り返っての感想であり、道を歩いている者には、今その瞬間しか見えていないのである。

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