ep.04 サボって飲むジャスミンティーは美味い
本日、浅羽悠真は休みを取った。いつもどおり、通院のためである。もちろん、嘘である。
もし月城柳が知ればニコニコして圧をかけてくるだろうが、実際のところ悠真は先日何やかやあり髄液を抜いたせいで、体のだるさが残っているのだ。なので、体調不良のため病欠というのは間違っていない。
六分街のビデオ店『RANDOM PLAY』を経営する友人リンの部屋で、悠真はソファに寝そべり、テレビで店にあるビデオを借りてきて視聴し、さらには持ち込んだポテトチップスとコーヒーをテーブルに広げてやりたい放題だった。
部屋の主はプロキシとしての仕事が忙しく、部屋は勝手に使っていいと言い残して出かけてしまったので、なおのこと悠真は昔懐かしの映画からバラエティ番組まで好きなようにダラダラと観賞中だ。
もっとも、リンの厚意の意味は、悠真もちゃんと分かっている。
「まあ、多分、リンちゃんは僕の体調不良を見抜いて、休んでろって意味で部屋に上げてくれたんだろうけど。一応、異性を部屋に上げて放置するって気にしたほうがいいと思うんだよね。そこの06号くん、お茶淹れてくんないかな?」
「ンナ!(分かった!)」
「聞き分けのいいボンプで大助かりだよ。あとでリンちゃんにいい子だったって言っとこ」
暇をしていた店のボンプ06号が喜び勇んで部屋を飛び出し、ンナンナとかけ声をつけて、ポテポテと階段を降りる音が遠ざかっていく。
六分街は少し路地を入ったところにあるため、比較的騒音が少なく、周囲に騒がしい場所もないため静かだ。平日午前中ともなれば尚更、昼頃まで快適な時間を過ごせると約束されているようなものだった。
それだけではない。六分街もこの店もこの部屋も、適度に生活感が漂い、どこかで人が生活していると感じられる——つまりは、まったく誰もいない牢獄のような場所ではなく、規則正しい機械音だけが聞こえる単一色じみた病室でもないところが、悠真の気に入っているところだった。
(そりゃ、僕もそこそこ懐は温かいけど、独身男性の部屋なんてこーんなアットホームな雰囲気できっこないしなぁ……さすがに今更そんな家を作ろうだなんて思わないし、そんなものを遺していくのもなんだし。こうして、ときどき満喫できるだけで十分だよ)
悠真の視線の先では、レトロなテレビの画面の中で、レトロな芸人が新エリー都名所巡りに張り切っている。こんな番組をわざわざ借りてまで観ようとは思わないが、耳を賑やかしてくれる分には付けっぱなしで流しておくのはいいのかもしれない。誰かの話し声が聞こえ——難しい専門用語や事務的なやり取りばかりでなく——他人との会話として、楽しくあろうとする努力に接することは、いいことだ。悠真の認識では、そういうことになる。
その意味では、対ホロウ六課の面々との会話は楽しいものだが、どこか一線を引かなければならないところもあり、腹に一物抱えたままヘラヘラと笑いつづけるのは、疲れるのだ。
悠真が対ホロウ六課を裏切るつもりは毛頭ないが、ひょっとすると……何もかも打ち明けないのは、『信頼への裏切り』と捉えられても致し方ない。誰もがリンのように何も話さずとも許してくれるわけではない、ビジネスライクな関係を冷たいと評する人間もいるようなものだ。
「……捉え方は人それぞれだとしても、課長には話しておくべきかもなぁ」
その悩みは時折浮上しては、後回しになって沈んでいく。しかし、対ホロウ六課の面々を軽んじていないからこそ、話せないこともある。特に、星見雅に対しては、悠真は色々と複雑だった。
そのうち、階段からンナンナというかけ声が聞こえ、06号が冷たいジャスミンティーを一杯、両手に抱えてやってきた。06号の、悠真へと短い手でコップを差し出す姿は何とも健気だ。自身がボンプ化した経験のある悠真は、このところ妙にボンプへの理解と共感が進んできていた。
「ああ、ありがと、助かるよ」
「ンナナ!(どういたしまして!)」
「そういや、店のほうは? 忙しくないの?」
「ンナ、ンナ(今のところ大丈夫、誰もいないよ)」
「そっか、じゃあゆっくりさせてもらおう」
悠真がジャスミンティーを一口含み、そんな会話をしていた矢先のことだ。
階下から足音が聞こえてきた。客が来たのだろう、店番の18号が応対するだろうから問題ないが、何かあれば06号も手伝いにいくはずだ。
だが、06号の顔面のディスプレイが波打ち、何かを受信した。
「ナ? ンナン?(あれ? 誰か、二階に上がってくる?)」
店長のアキラかリンが帰ってきたのか、と悠真が部屋の扉へと顔を上げた。
鍵のかかっていない扉は拍子抜けするほど簡単に開かれ、来客が姿を現す。
「げっ……」
来客の姿を捉えた悠真の口から、思わずブサイクな声が漏れてしまい、慌てて取り繕った。
「か、課長? 何でここに?」
いつもどおりとはいえ対ホロウ六課の制服のままの星見雅がやってきたとあれば、どう考えても職務中である。半ばサボってダラダラしている様子を見られた悠真としては、大変気まずい。
だが、状況はまずいとも限らなかった。
「なぜここに、は私がお前へ問いたい」
「あーいや、ここで病院帰りに養生させてもらっててですね」
「そうではない」
「え?」
「修行のため、プロキシにテレビとビデオデッキを借りる約束をしていたのだが、なぜ悠真が先に使っているのだろうか、という意味だ」
雅は堂々と、職務中ながらも自分はビデオを見にやってきたのだ、と語っているが、それをサボりだとは一切思っていないだろう。だって修行なのだから。
ならば、これはチャンスだ。雅にサボりと認識させないよう、悠真は話を合わせることにした。
「あの兄妹ならプロキシとしての仕事が入ったらしくて、出かけてますよ。それで忘れちゃってたんじゃないでしょうかね」
「そうか。まあいい、すでにビデオは持ってきた、ソファを半分借りるぞ」
「えっ」
「次に再生するのは私のビデオだ」
「いやいやいや、すぐにでもどうぞ! 僕はつまんない番組観てるだけですんで!」
「悠真、つまらない番組をなぜ観る?」
「えーと……賑やかっていうか、流しっぱなしで寂しくないからでしょうかねぇ」
悠真のその答えに、雅はいたく納得していた。
「なるほど。病で気が弱っているのだな」
「えぇ……いや、そういうことですね、ええ」
「分かった。ならば、私のビデオをともに観よう」
「課長は何を借りたんですか? 武侠ものとか?」
「ふむ、これはリンのおすすめで」
雅が持っているビデオケースの表面には、ネコのシリオンの少年が街角のネコを撫でるシーンが写っている。そのタイトルを、雅は読み上げた。
「『新エリー都ふれあいにゃん歩き』だ」
悠真の後輩に、セス・ローウェルというネコのシリオンの治安官がいる。彼は羨ましいことにネコに好かれる性分で、街中のネコの溜まり場を通りすがろうものならば無数のネコに囲まれ身動きが取れなくなるほどだ。
動物に好かれるというのは、素直に羨ましいものだ。ただ人間に好かれるよりもよっぽど価値がある。動物は打算で関係を構築しない、だから相手を利用しようなどと考えない。悠真のように、ヘラヘラ笑って適当に誤魔化しやっていく処世術なんて、今テレビに映っているのんびりした様子のネコたちには必要ないのだ。
ただ、06号を膝上に抱える悠真とともにソファに座っているキツネのシリオンである雅は、時折大きな黒い耳を小刻みに動かしながら、真剣に『新エリー都ふれあいにゃん歩き』を見入っている。今回はビデオを観る修行らしいが、一体全体何の効果のある修行なのかは彼女のみぞ知るところだ。
ブラウン管テレビの画面には、穏やかなナレーションとともに次々とネコたちが現れる。どこかの路地裏であくびをする黒いネコ、充電中のボンプの頭の上で暖まる白いネコ、街のカフェで空いているテーブルを占拠する茶トラのネコ……新エリー都のあらゆる場所にいるネコたちが平和に過ごす様子を、延々とビデオは映している。六分街のような閑静な場所が映ったかと思えば、クマのシリオンたちが闊歩する工事現場もあり、どうやら新エリー都の住人たちは全般的にネコに寛容で、共存の道を歩んでいるようだ。
「ふむ。どこに行っても、ネコは愛されているな」
何とも興味深そうに、雅は感心している。まあそうだな、と悠真は心の中で同意しておいた。なぜなら、雅の視点や引っかかるところは常人とは異なる。毎回下手に口に出そうものなら、奇妙な持論を展開されて頭がこんがらがること請け合いだ。ある程度は流しておいて、よほど間違っていないかぎり——あくまでそうなりかねない場合のみ——ツッコんでおけばいいだろう。振り回されすぎないことが肝心である、悠真は今までの経験からそう見ていた。
だが、雅の口から出てきた次の語句は聞き逃せなかった。
「やはり、にゃんきち長官はいないな。あれはラッコだと誰もが認めるところなのだろう」
「いや違いますよ!? あれは」
気付けば、雅がテレビではなく悠真をじっと見つめていた。反論されたことが気に障ったのではなく、むしろ悠真のツッコミの続きを待っている様子だ。
悠真は一つ咳払いをして、落ち着いて対処する。
「あー……あれはですね、そもそも治安局のマスコットですから、民間放送局の番組に出てくると色々と厄介なので。版権とか協力スポンサーとの関係とか」
「なるほど。ネコかどうかではなく、にゃんきち長官は所属の問題でこの番組には出られないのか」
「概ねそんな感じですね」
「ひとつ勉強になった。そうか、であれば」
まだ雅は何か考え込んでいるが、視線はテレビへと戻っていた。星見雅たる者が、何をにゃんきち長官の種族にこだわる必要があるのか。いや、そもそもあれは何なのかよく分からない生き物であってネコでもラッコでもないのでは、そんな無益な堂々巡りが頭を支配する前に、悠真は何とか画面上の戯れるネコたちへと意識を戻した。
しかしだ。
雅は視線を動かさず、体の重心もそのままで、テーブルへと手を伸ばした。ポテトチップスへと伸びる……のではなく、その先にあったのは先ほど06号が持ってきた悠真のジャスミンティーだ。
繰り返すが、それは悠真のジャスミンティーだ。一口飲んである。
06号が瞬時に吹っ飛ばされ、悠真は間一髪のところで雅の手からジャスミンティーのコップを奪取した。雅はぴたりと固まって、それからいきなり滑り込んできた悠真へ「何事か」とばかりの視線を送ってくるが、すぐに顔色が変わる。
「悠真!」
突然の動揺と、急激な瞬発力を要する運動のせいで、悠真は激しく咳き込んでいた。帰ってきた06号がジャスミンティーを受け取って遠ざかるのを見届けてから、ソファとテーブルの隙間にしゃがみ、両手で口を押さえる。
(うっわ……こんなとこでタイミング悪く発作とか、最悪なんだけど)
必死に呼吸を維持しようと努めながらも、慣れきった悠真の思考はどこか他人事だ。咳のたびに細身の体は跳ね、強張り、上手く息を吸えない。次第にかすれた呼吸音が混ざり、鼓膜には爆音で響く自身の鼓動しか聞こえないほど余裕がなくなってくる。
大丈夫、落ち着け、いつものことだ。そんな文句を呪文のように繰り返していれば、苦しいだの痛いだのといった新鮮かつ慣れ親しんだ感覚は薄れていくと知っている。ほんの数秒も我慢して峠を越えれば、何とかなる。経験上、悠真はそれを把握していた。
ただ、隣にいる雅が悠真の右肩を支え、背中をさすっている現状、妙に冷静な悠真の頭脳は身体的苦痛と混乱と気まずさに打ち震えている。
(どういう状況だこれ? 今までこんなことなかったっていうか、何で課長こんな密接して近いんですけど!?)
かつてないほどに、悠真と雅の距離は物理的に近づいていた。というよりも、もはや接触している。ほぼ雅が悠真を抱き抱えているような体勢だ。
あまりにもどうしていいのか分からない。それが悠真の本音だった。
(ちょっと待って、今まで僕が咳き込んでもこんなことしなかったでしょお!? やめて心配しなくて大丈夫だから見ないでうわああああ)
悠真の気持ちとは裏腹に、虚弱な体は言うことを聞かず、咳は続く。愁眉の雅に「大丈夫です」と伝えたいのだが、喉からは咳しか出ない有様だ。
その上、雅はより近づいてくる。
無情にもそれは、しゃがんで背中を丸くする悠真を覆い被されるほどに、だ。
いつもであれば、距離がある。虚弱な特異体質に蝕まれる体を誤魔化せるほどに、雅は悠真へここまで近づくことはなかった。
だが、雅はもう察しただろう。悠真の呼吸が落ち着いたころ、雅はとうに上体を起こして、床に正座したまま何か言いたげに待っていた。
このまま床に転がっていたい気持ちを抑えつけ、悠真はむくりと起き上がって渾身の愛想笑いを浮かべた。
「いやあ、心配をおかけしちゃってすいません、課長」
「かまわない。もう大丈夫か?」
「ええ、おかげさまで落ち着きました」
「そうか。ならよかった」
悠真の耳には、もう自身の乱れた鼓動は聞こえない。
テレビからは、まだネコの鳴き声と静かなナレーションが聞こえてきていた。その一方で、悠真も雅も、呑気にビデオ鑑賞を続ける気など失せてきている。
(絶対、課長も気付いてるよなぁ……華奢だから、じゃ済まないくらい僕の体が細くなってるの、知られたくなかったんだけど)
あれほど密接に抱きしめれば、否が応でも分かるだろう。雅から尋ねさせるよりも、自分から白状してしまったほうがいいのではないだろうか。いや、どちらにせよ変わらない、と益体もなく悩んでしまう。
そんな中、雅は部下の懊悩まで察して、こう言った。
「戦えるのだな?」
それは唐突な一言で、部外者には理解しえないだろう。たった今咳き込んで倒れていた部下へかける言葉としては、あまりにも情もなく色気もない。しかし、それでもいい。雅の言葉の真意を、その部下たる悠真が受け取り違えるわけがないのだ。それに、悠真がかけてほしい言葉は、慰労でも称賛でもない。
婉曲的にでも、まだ一緒にいられるのか、と聞かれれば、悠真はこう返すくらいできる。
「ええ、もちろんですよ。僕が戦えないのに無茶なんかすると思います?」
へらりと笑い、憎まれ口を叩いて、これでいつもどおりだ。それが悠真からの、雅に対する答えだった。
雅は納得したように頷く。
「それもそうだな。なら問題ない」
スカートの裾を払い、雅はソファに座り直す。その隙間を縫って、06号が悠真のもとへやってきて、無事救出していた飲みかけのジャスミンティーをそろっと差し出す。
「ンナ?(大丈夫?)」
「おっと、ありがと」
まだ冷たいジャスミンティーを受け取って、それから悠真は06号へ注文を追加する。
「ジャスミンティー、もう一杯お願いしていいかな?」
「ンナナ!(了解!)」
06号は短い手足をわたわた動かして、部屋から駆け出していった。その小さな背中は、雅にも飲み物を出さないといけない、と使命感に燃えているように思えた。
ようやく床から腰を上げて、ソファに座ろうとする悠真へ、テレビのリモコンの巻き戻しボタンを押す雅はぽつりと漏らす。
「悠真」
「はい?」
「抱きしめてほしいときはいつでも言うといい」
「ぶっ!?」
「要領は分かったからな。次はより上手く看護できるだろう」
テレビの画面は見覚えのあるシーンまで雅の手によって巻き戻され、目押しの要領でぴたりと止められた。
その横で、吹き出して咳き込む悠真は、自分が今どんな顔をしているのか想像できなかった。
少なくとも——頬が熱いうちは、うつむいたままでいたほうがよさそうだった。