広がる感染、悪化する状況
ケイレスは家に帰るまでの間、全身に黒いローブをまとい、カラスのような嘴のついたマスクをして帰った。
嘴状のマスクにはミントが塗ってあり、路地のあちらこちらに転がっている無数の死体(倫理的には遺体といった方が良いのかもしれない)から発せられる腐敗臭から鼻を守るためだ。
これがだいぶ効果的で、これをつけなければ鼻がもげそうなほど嫌な匂いがする。
王都のあちこちで煙が立ち昇り、空は灰色によどんでいる。表現するならば、”死の色”だ。焼け残った死体、焼かれるのを待つ死体が路地のあちこちで山積みになり、そこをハエが飛び交い、カラスの群れが密集する。
その中でも、地をはいずり必死に神の救いを叫ぶ者や、泣き叫ぶ力もなくなり衰弱した子供を抱きかかえてすすり泣く母親の姿は、とても痛々しく、医師の無力さを感じさせた。
まるでーーそう、地獄のような光景だった。
ケイレスは家に帰ると、マスクを外し、ローブを壁にかけた。腐敗臭は家の壁をわずかに貫通するが、さすがに家の中まであの不気味なマスクをつける気にはなれない。
彼は真っ先に寝室に向かうと、ベッドに仰向けに倒れ、そのまま気を失うように眠った。
カラスの鳴き声が静まると、彼は目を覚ました。ベッドから起き上がり、ゆっくりと立つ。軽く運動をし、シャワーを浴び、着替え、夕飯(彼にとっては朝食)を食べる。彼の目覚めのルーティーンだ。
運動をした時に、彼はいつもより体力がないことに気づいた。シャワーを浴びた時も、ふらつくのを感じた。
ケイレスは呟いた。
「まさか・・・な」
トーストにバターを塗り、ベーコンとサラダを添えただけの夕飯を食べ終わると、彼は外に出た。卵はって?彼は卵アレルギーのため、食べることはできない。
施設に戻ると、アンドリューが駆け寄ってきた。
「大丈夫か?何か異常はないか?」
「ない、といえば噓になるな」
心配するアンドリューを見て、彼は笑った。
「なぁに、ただの寝不足だよ。心配しないでくれ」
「だといいけどな、本当に」
アンドリューはいぶかしげにケイレスのことを見ると、そう言い残して去ってしまった。
彼が去ったあと、思わずケイレスは咳をした。乾いた咳だ。彼は自分に言い聞かせた。
「ただの咳だ、問題ない。そう、何も・・・」
しかし、その願いもはかなく散ることになる。
ケイレスは看護師のアリアに言った。
「この死亡した患者の処理を頼めないか?」
「わかりました、人手を呼んできます」
彼女が去った後、ケイレスは激しく咳いた。布の下の口を右手でとっさにおさえる。咳が収まったところで手を見ると、僅かだが血がついていた。
ケイレスはその場を離れ、アンドリューに裏口に出るよう伝えた。
裏口に走ってやってきたアンドリューが尋ねた。
「どうしたんだ?」
「いいか、落ち着いて聞いてくれ」
「一体、どうしたっていうんだよ?」
彼も頭の中ではわかっているのだと思うが、本人の口から言ってほしいのだろう。
ケイレスはついに言った。
「・・・感染したんだ。それに、進行もだいぶ早い」
「やっぱり、昨日の血で?」
「恐らくな」
アンドリューは石の壁を思い切り殴った。
「クソッ!」
ケイレスは言った。
「とりあえず、家にこもるよ」
「何か俺に手伝えることはあるか?」
「今はない。けど、できたら報告するよ」
彼は家に帰ると、ろうそくを灯した。そして、調合器具と様々な菌類や植物を机の上に並べ、調合台を置いた。
彼にとって、疫病の感染は悲劇でもあったが、同時に治療方法を探す絶好のチャンスでもあった。
そうして、彼は自分を被検体とした実験を開始するのだった。