第8話『アーシャ・ラ・ヴィルンは忍び込みたい』
次の日。
不安なまま朝食を食べ、不安なまま勉強をし、不安なままラニャンに送ってもらい、私はジスティス家の門の前にいた。
車から降りて単身、ジスティス家のインターフォンを押す。
「……どちら様でしょうか」
昨日の執事ではない。女性の声だ。
「アーシャ・ラ・ヴィルンよ。セーナ・ジャ・ジスティスに会いに来たわ」
「……お引き取り下さい」
硬い声色で、インターフォンの向こうにいる女性が返す。
「友達に会いに来ただけよ」
「お引き取り下さい」
よし、忍び込もう。
瞬時に思考を切り替える。
インターフォンから離れ、私はラニャンが運転する車に乗り込んだ。
「……断られましたか?」
「ええ」
「では帰りがてら、外周を見て回るとしましょうか」
さすがラニャンだった。
1を言う前の0の段階で、私の意思を読み取ってくれる。
「しかし、思い切ったことをしましたね。アーシャお嬢様がジスティス家にケンカを売ったと、『右手』の話題はそればかりでしたよ」
「……ケンカを売ってきたのは向こうよ」
ゆっくり運転してくれているラニャンに答えて、私は窓の外を見る。
ジスティス家の敷地は、ヴィルン家の半分ほどの広さだった。
それにヴィルン家と違って、外周を守っているのは石壁ではなく、木々と葉っぱでできた生垣だ。
これなら、どこかに入れる隙間があるかもしれない。有刺鉄線もないのだ。
隙間がなくとも、最悪よじ登ってやるわ。
「お嬢様、あそこはどうですか? 狭そうですが、どうにか通れませんか?」
ラニャンが言ったのは、生垣の下。
動物が通ったのか、一部分だけ葉っぱがない箇所があった。
あまりに狭いが、腕を伸ばして体をねじ込めば通れるかもしれない。
「いいわね。あそこから入りましょ」
「……本気ですか?」
え? とばかりに言うが、言い出したのはラニャンじゃない。
……もしかして、冗談だったのかしら。
「とりあえず停めてくれる? 試してみるわ」
「……かしこまり、ました」
車から降りて、自分の体を見下ろす。
今日も今日とて、動きやすいパンツスタイルだ。
上下ともに余計な装飾はついていない服だし、まあ多分、いけるでしょう。
「ラニャンはここで待機。何かあれば逃げるから、エンジンは止めないで待っていて」
「お嬢様は私と同じで胸が――いえスタイルが良いので通れるかもしれませんね」
「軽口にも限度があるわよ」
事実だし、別に気にしてないし、怒ることはしないけど。
思わず引っ叩きたくなるラニャンのウィンクに背を向けて、私は生垣を見下ろす。
しゃがんでみれば、禿げあがった枝の隙間からジスティス家の中庭が見えた。
陽光に照らされた刈られたばかりのような芝生が、短く生えている。
その先に、可愛らしい白くてフリフリのワンピースを着たセーナが、丸テーブルに座って白いカップを持っていた。
「にがっ! え、こんなに苦いんですの……?」
ツバの広い帽子をかぶって、そんなことを言っている。
周辺には、セーナに日傘を差しているメイドが1人いるだけだ。
警備が甘い。
行くしかないわね。
私は意を決して、茂みの中に体を突っ込んだ。
髪の毛に枝が刺さるのも構わず、ポキポキと小枝を折りながら、生垣の中に飛び込みの姿勢で突入する。
「ひぃっ!」
怖がるようなセーナの声が聞こえた。
そうか、今あの子には、私の両椀と後頭部しか見えていない。
そりゃ、やべーヤツが敷地内に入ってきたと思うわね。
だけど通報されるわけにはいかなかった。
私はうつ伏せでヴィルン家にあるまじき姿のまま、地面に顔をこすりつけて声を発する。
「待ってセーナ! 私よ!」
うえっ。口に入った砂が不味い。
両椀で枝を押さえつけ、立てた肘に力を込める。
そしてそのまま、私は身体を引きずるようにして前に出た。
ようやく上半身だけジスティス家の敷地内に侵入させて、ヒジをピーンと伸ばして顔を上げる。
「あ、あーしゃ様? え? なんで……? なに……?」
セーナは混乱しているように見えた。
まあそうね。
私もセーナが石壁を壊して顔を出したらビックリするわ。
見ればメイドも固まっている。
よし、逃げてないわね。
ここでつっかえてる間に報告されたら厄介だったけど……。
更に下半身を芝生のなかに入れようと前に出ると、びりっと音が鳴った。
「あ」
嫌な予感がして自分の足を確認すると、どうやらズボンの太もも部分が破けている。
……お尻じゃないだけマシね。
ズボンを破いた小枝を振り払い、私はついに、全身をジスティス家の敷地に侵入させることに成功した。
茶色い砂がついた腹部をパシパシと払い、葉っぱが付いているであろう髪の毛を両手ですく。
「こんにちはセーナ」
「ご、ごきげんよう……? え……?」
私がセーナに近づくと、はっとした顔でメイドが屋敷を見る。
「ふ、不審者っ!」
「あなたはここに居るの。いいわね?」
有無を言わせぬ口調で、素早くメイドに言う。
メイドが私と屋敷を何度も見て、助けを求めるようにセーナで視線を止めた。
「……ここに居て下さい、ライラさん」
「か、かしこまりました」
……2流のメイドね。私がやべーヤツだと気づいたなら、すぐに報告に行くべきだったのに。
もっとも、そのおかげでセーナと喋れるのだけど。
丸テーブルまで歩いて、私はセーナの対面のイスに座った。
対面に座るセーナは、まだ困惑している様子だった。
口をぽかんと開けて、私を見つめている。
開口一番。
私は、もっとも聞きたかったことを尋ねることにした。
「あなた、私と友達でいるのはイヤ?」
回りくどい聞き方は、好きじゃなかった。
だけど今回ばかりは、こんな直球な質問をするんじゃなかったと後悔した。
セーナの顔が見られない。
イヤだと言われたらどうしよう。
いつになく、私の心臓の鼓動がうるさかった。
「…………嫌なわけ、ないですわ。どうしましたの?」
その声は、相変わらず優しかった。
顔をあげれば、セーナはもう間抜け顔じゃない。
心配してくれているような目で、私を見つめていた。
うるさかったはずの心臓の音が気にならなくなる。
セーナの眼には、学校のアイツ等がみせる恐怖や嫌悪の眼差しはない。
だから本心だと、すぐに分かった。
セーナのその一言で、優しい眼差しで、私の心が一気に軽くなる。
「……ありがとうセーナ」
「本当に、何がありましたの? いつものアーシャ様らしくありませんわ」
ティーカップをおいて、セーナが尋ねる。
そうね、たしかに。
他人の想いに、ここまで自分の心をかき乱されたのは初めてだわ。
だけどその質問に答える前に、確認したいことがあった。
「熱は治ったの?」
あの執事は『発熱はしていない』と言っていたけど……。
「熱? わたくし、熱はだしておりませ……――あ、ああっ! ええ、もうすっかり良くなりましたの!」
セーナの表情に、眉根をひそめる。
ウソを誤魔化そうとしている人の目だった。
だけど元気そうに見えるし、何がウソなんだろう?
「それでっ!」
セーナが丸テーブルをバシンっと叩いて、身を乗り出す。
「どうしてアーシャ様は、茂みから這い出てきましたの?」
事実だけど、その言い方は止めてほしいわね。
「……セーナが私に、2度と話しかけないでと言ったと伝えられたの。それが本当なのか、確かめに来たのよ」
正直に『あなたを信じきることができなかった』と伝えると、セーナが目を大きく見開いた。
そんなこと言いませんわ! と怒るだろうか、それとも、悲しむだろうか。
「誰にですか?」
「あなたのお父様よ」
だけどセーナは、そのどちらもしなかった。
丸テーブルの上に肘を置いて両手を組み、目を瞑って、合わせた両手にヒタイを付ける。
「……何してるの?」
尋ねると、セーナは目を瞑ったまま静かに答えた。
「いまから怒ることを神様に申し上げて、お赦しを頂くのです」
ああ。言われてみれば、これは祈りのポーズだ。
となればこれから私は、セーナに怒られるのだ。
そう思っていたのに、カッと目を開けたセーナは怒ることはせず、その場で立ち上がった。
そして私の手を掴んで無理やりに立ち上がらせて、屋敷を見る。
「アーシャ様も付いてきてください」
「どこに……?」
「お父様のところですわ」
あー……、それはまずいわね。
私は不法侵入者だ。
髪の毛はボサボサだろうし、服はところどころが破けている。
明らかに正門から通ってきた格好じゃない。
だけど、帽子をとったセーナはお構いなしだった。
私の手を掴んだまま、短い芝生を踏みつけて屋敷に向かう足は止まらない。
そしてとうとう、私はジスティス家の執事に顔を見られた。
追従してくるメイド1人なら丸め込めたかもしれないけど、2人となったらほぼ無理だ。
私は観念して、セーナに掴まれたまま、ジスティス家の屋敷のなかに入った。
「お父様、いらっしゃいますね?」
屋敷の中に入って階段を上がり、何事かと見つめる執事たちを無視して、セーナと私は1つのドアの前にいた。
セーナがノックを3回して尋ね、返答がある前にドアを開ける。
両脇の壁面には書棚が置かれており、正面の壁は全面がガラス張りだった。
部屋の中央にはテーブルが置かれている。
装飾が少ない、しかし艶のある光沢を見せる赤茶色のテーブルだった。
「……仕事中だぞ、セーナ」
山積みの書類がいくつも並ぶテーブルの奥で、恐らくジスティス家の当主だろう、50代ほどの男性が万年筆を持って、セーナと私を見た。
深いシワが刻まれた顔。
威厳ある琥珀色の眼が、私を睨む。
「お前は誰だ?」
吹き荒れるような重たさで、しかし静かに、その男は言った。
……ここまで来たのなら、隠すことはできない。
「アーシャ・ラ・ヴィルンよ」
私の返事に、当主が小ばかにするような顔を見せる。
「許可を取らずに訪ねてきた常識のない者とやらはお前か。……招いていないが」
「セーナに招かれたのよ」
間髪入れずにウソを吐く。
当主が「ふっ」と短く息を漏らして、机上の書類にペン先を這わせた。
その視線はもう、私とセーナを見ていない。
「お前の家柄の性格は知っている。我が家とは相いれないだろう。……無駄なことに割く時間はないのだ。見逃してやるから、帰りたまえ」
その言葉は、私を煽るのに上等なセリフだった。
だけど声をあげるよりも先に、私の手を離したセーナが前にでる。
「それが理由ですか? アーシャ様と引き離すために、『2度と話しかけないで』とわたくしが言ったことにしたのですか!」
セーナの透き通ったような声は、迫力のある怒声に変わっていた。
こんなに大きな声を出すセーナは初めてだ。
当主が万年筆を机のうえに置いて、ゆっくりと顔をあげる。
「……そうだ」
セーナの肩が、一瞬だけ震えた。
顔は見えない。
だけどその背中から、ぎゅっと握りしめた左手から、私はディオラと対峙しているときのセーナの顔を思いだした。
「わたくしは、この学校でもイジメられていました」
セーナの声は、絞り出したように小さかった。
不思議な声だった。
静かな空間に溶けるような、消え入るような声だったのに、しっかりと耳に残る。
「前の学校でイジメを受けたから転校したのに、この学校でもイジメられる。ああ、この悪意は終わらないのだと、続くイジメに、毎日怯えていました。……それを変えてくれたのは、アーシャ様でした。わたくしを腫物扱いして、誰一人助けてくれなかったときに手を差し伸べてくれたのは、ただ1人。アーシャ様だけでした」
「…………」
セーナが言い終わるのを待って、当主が私に目を向ける。
神妙な面持ちだったけど、何か言わないと何にも分からないわ。
「……それは本当か? ヴィルン家のお前が?」
やがて出た言葉は、私を疑う眼差しで放たれた。
そう。あのとき手を差し伸べたのは、本当だ。
「……ええ」
「それは、セーナのためか?」
「……」
鋭い指摘に、私は思わず口ごもった。
セーナは私を、美化しすぎている。
私の目的は、異性から好かれることだ。
彼女を救ったのは、イジメを無くしたいなどという、崇高な理由からじゃない。
「いいえ。……自分のためよ」
ウソをつくことは、したくなかった。
だから私は、ヴィルン家らしからぬ素直さで、真実を口にすることしかできなかった。
「はっ、やはりな」
嘲笑して、軽蔑の目を向けてくる。
その眼差しを、私は否定することができなかった。
「なんですかその顔はっ!」
何も言い返せなかった私に変わって激昂したのは、セーナだった。