第5話 『アーシャ・ラ・ヴィルンは秘密にしたい』
「お嬢様、お待たせしてしまい申し訳ありません」
セーナの車を見送っていると、聞きなれた女性の声がした。
私の運転手を勤めている、『右手』のラニャンだ。
女性が運転手を勤めるのは、ヴィルン家にとって珍しいことだった。
何しろ運転手とは、敵の多い私たちのボディーガードを兼任しているからだ。
ラニャンは若い。確か25歳だ。
だけど私は、彼女に全幅の信頼をおいている。
幼少のころ、私を誘拐しようとした犯人をぶちのめしたのは、武術の達人であるラニャンだったから。
その雄姿を目に焼き付け、私もこんなお姉さんになりたいと思ったものだ。
「気にしてないわ。だけど珍しいわね、遅れるだなんて」
当時私を救ったラニャンは15歳で、あれから10年。
日々研鑽を重ねているラニャンを見て、その実力を疑うヤツはいない。
女性用のスーツをピシっと着こなしたラニャンは、白い手袋を付けた手を私に差し出してきた。
その好意に甘えさせてもらい、彼女にカバンを持たせる。
ラニャンは素早い動きで後部座席のドアを開け、私は車に乗り込んだ。
「学友と思わしき方と一緒に歩いているのを見て、わざと遅れました。あの様子からして、『左手』ではありませんよね?」
車を発進させてから、ラニャンはしれっと言った。
セーナと一緒にいたことを見ていたのであれば、ラニャンは最初、ロータリーで私のことを待っていたのだろう。
車が来たタイミングを思えば、どこかで隠れていたのかもしれない。
「……ええ、そうね。あの子は友人よ」
「それは喜ばしいことですね」
バックミラー越しに、ラニャンが私をちらりと見て微笑んだ。
そう、本当に喜ばしいことだ。
この私に、対等な友人ができるとは思っていなかったから。
始まりは打算だったかもしれないけど、今では大切なお友達だ。
「それにお嬢様のお顔も、この数日で、ずいぶんと柔らかくなりました」
そう言われて、私は自分のほっぺを両手でむにっと持ち上げた。
柔らかい。
いや、物理的な意味じゃないのは分かっている。
ただの照れ隠しだ。
善性とは何か、まだ分からないけど……。
セーナを見て、セーナの情報を集めさせて、私が彼女に影響を受けているのは確かだと思った。
良い傾向だわ。
クスクスと嬉しそうに笑って、ラニャンが言う。
「あんなに優しそうなお嬢様のお顔は、初めてみました。きっと当主様にお伝えすれば」
「ダメよ」
優しそうな顔。当主様。そのワードを聞いた私の口が、反射的に声を出す。
優しいとは、私が思いつく唯一の善性だ。
それが学校でも顔に出ていたのであれば、私のもくろみが一歩、前進したと言える。
だけどそれをお父様に知られるなど、あってはならないことだった。
「あの子は友人だけど、私には打算があるもの」
「おでこを密着させることが打算ですか?」
やっぱり見ていたのね。
気恥ずかしさを隠しながら、窓の外を見て言葉を返す。
「あの子、かなりの熱があるのに私のことを待っていたの。待たせた側として、セーナの体調を思いやるのは…………そう! 義務よ、義務!」
私はヴィルン家の淑女だ。
そんな私が善性を得ようとしていることを知られたら、きっとお父様を失望させてしまうだろう。
それは絶対に、あってはならないことだ。
「へえ?」
ラニャンの不愉快な声を聞いて、私は運転席を後ろから足蹴にした。
「うあっ! 相槌を打っただけじゃないですか! 事故ったらどうするおつもりですかッ! それに、この車はお屋敷の所有物です! 汚さないでください! 誰が綺麗にすると思ってるんですかっ?」
信号が赤なのは確認済みだ。というかそもそも、赤だから蹴ったのだ。
自分やラニャンを危険に晒してまで怒りを発散するほど、私は見境なしじゃない。
光沢のある革製の黒いシーツには、私のローファーの跡がくっきりだ。
「ラニャンが綺麗にしてくれるんでしょう? 良いじゃない、好きでしょこういうの。ドエムなんだから」
「ドエムじゃありません。ちょっと罵倒されるのが好きなだけです。というか、どこでそんな言葉を覚えてしまったのですか」
信号が青になって発進したラニャンが反論してくるけど、普通の淑女は罵声を浴びたいだなんて思わない。私が憧れたお姉さんは、いつの間にかもうドエムなのだ。
「あなたに決まっているわ」
「……それ、当主様には言わないでくださいね。クビになりかねません」
「私の気分次第ね」
そんな会話をしていると、家に着いたのが分かった。
車が黒門の前で停まる。
敷地に入る前で止まり、認証済みの車かチェックを受ける決まりだ。
「ピピ。認証済みの車です。門の開錠を始めます」
無機質な声がして、両開きの黒門が敷地内に向かって自動で開いていく。
5年前のあの日から、ヴィルン家の警備は厳重になった。
その辺の屋敷を丸ごと5つ入れても余るほどの、ヴィルン家の広大な土地を囲むように背の高い石壁が守り、その上には有刺鉄線が張り巡らされ、内壁の1歩先にはセンサーも稼働している。
さらにセンサーを超えた先には小さな柵が設けられ、50匹のドーベルマンが放し飼いされていた。
5年前のあの日――母様が、殺された日から。
車は門を通り、徐行しながら前庭へと進んでいく。
手入れの行き届いた庭には、青々とした芝生が、屋敷までの道路を分断するように生えていた。
両脇には、一定間隔で生えた低木に監視カメラが設置されている。
確か総数は180台だったはずだ。
「おかえりなさいませ」
24時間交代制で見張りを続けている130人の内、数人の『右手』が私の乗っている車に気づいて、深々と頭を下げてくれる。
厳重すぎる防備だけど、この光景は、嫌いじゃなかった。
頭を下げてくれる何人もの年上の『右手』に、私は車内から会釈をして車が進んでいく。
分かっている。
私が偉いんじゃなくて、私の先祖が、父様が偉いのだ。
それが分かっていても、何ともいえない高揚感が私を包む。
だけど私はもう15歳。あと2年もすれば、正式に次期当主と名乗る身だ。
それまでに、最低限の教養と実力を備えなければならない。
「日課のトレーニングに行きたいから、別館の前で停めてくれる?」
「かしこまりました」
ラニャンはフレンドリーに接してくれる時と、付き従うべき従属としての振る舞いのときとで、態度を分けてくれている。
当時5歳の私がラニャンと出会って、もう10年になる。
長い付き合いだ。
ヴィルンの名を冠する者として毅然とした態度をとるべき私には、2人っきりのとき限定とはいえ、軽口を叩ける相手は貴重な存在だった。
停車したのを見計らって、ラニャンがドアを開けてくれる前に、自分で開けて外に出る。
「指導をお願いしたいの。悪いけど、掃除が終わったら訓練室に来てくれる? それとカバンは、本館のメイドに渡してきてちょうだい」
左ハンドルの運転席から窓をあけて、ラニャンが私の指示に頷く。
そして間をおいて、こう尋ねてきた。
「本当に、悪いと思っています?」
「ええもちろん。悪いとは思っていないわ」
そんな私の答えに、ラニャンが柔らかな笑みを浮かべる。
『右手』とも友人とも違う、だけど親和的な笑みだった。
「大丈夫ですよ。ご友人の前とは違って、いつものお嬢様です」
ラニャンの言葉に満足して、私はヴィルン家の名にふさわしい顔で、別館の中へと入っていった。