#22 天守
節分会から3日経った朝のこと。みんなで朝食を食べていると、僕の娘が、初めて僕のことを呼んでくれた。
「カジュキ!」
いや待て、普通ここは「パパ」と呼ぶところじゃないのか? なぜいきなり、名前で呼ばれるのか。
いや、原因ははっきりしている。
「おう、よかったなカズキ。ユリシアのやつ、初めてカズキのこと呼んだぜ」
「カジュキ、カジュキ!」
「うむ、我が息子エルネスティも、いずれ同じようにカズキ殿のことを呼ぶことであろうな」
そういえば、周りは僕のことを「カズキ」と呼ぶやつばかりだった。とてもパパなどと呼ぶはずがない。迂闊だったな。
そして最近、僕を「カズキ」と呼ぶやつがもう一人増えたことも、さらに事態を悪化させている。
「カズキ殿よ! 妾は城が見たいのじゃ!」
マツのやつ、なんだか日増しに図々しくなっていく気がするな。以前はもうちょっと、おとなしくて可愛らしい仕草だった気がするんだが。
「城って……もしかして、名古屋城に行きたいのか?」
「そうじゃ! オオスばかりではのうて、あの立派な大天守を直に見てみたいのじゃ!」
目を輝かせて僕に訴えるマツ。そういえば、トヨヤマ港に入る手前で、あれを上から眺めた程度だからな。一度、訪れた方がいいだろう。
と、いうことで、その日は休日ということもあって、名古屋城へ向かうこととなった。
この地上に残された数少ない鉄道である地下鉄に乗り、僕らは名古屋城のある駅で降りる。
「やっと着いたな。それじゃ、行くか」
と、レティシアがそう言い出した矢先、マツが叫ぶ。
「レティシア殿! あそこにも城が!」
名古屋城のある方向とは、逆の方を指すマツ。振り返ってその指先の示すものを見たレティシアが、こう応える。
「ああ、あれは城じゃねえぜ。ありゃあ県庁だ」
「け、けんちょう?」
「まあなんだ、役人が働くところだぜ」
「うむ、役人がおるなら、それは城ではないのか?」
「こっちの役人は、城なんぞで働かねえよ。そんじゃ、本物の城へ行くか」
言われてみれば、紛らわしい建物がすぐ近くにあるんだよな。天辺の部分は、まさに名古屋城を模して作られているから、その部分だけは城に見えないことはない。が、その下は煉瓦造り風の古風ながらも、お城とはまるで違う作りだ。
で、歩いてすぐに見えるのは、堀だ。名古屋城は外堀部分はすでになく、ここはかつての内堀にあたるところである。
「なんとも立派な堀じゃが……なにゆえ、空堀なのじゃ?」
そう、こちらから歩いたところで最初に接する堀は、空堀となっている。つまり、水が張られていない。
「うーん、そういやあそうだな。俺が知る限り、昔っからここには、水が張られていねえよな」
「なんと不可思議な。それでは、堀としての意味がないのではないか?」
「いや、空堀の方が防御の面では高いから採用された、という説があるんだ」
マツのこの疑問に、僕が応える。
「もしここに、水が張られていたとする。で、密偵が現れて、あの城に忍び込もうと考えた、とする。その密偵は、どうすると思う?」
「そうじゃな……水に飛び込み、泳いで石垣に取り付くじゃろうな」
「ところが、空堀だとどうだ?」
「うむ、飛び込めば無論、身体を打ち付けて死んでしまうじゃろうな。この高さゆえ、石垣を伝って降りねばならぬが」
「そうだ。だから、堀を乗り越えるには時間がかかる。もたもたしている間、身を隠すことのできないこの空堀の中で侵入者は身を晒すことになる。戦乱の世が終わり、居城としての名古屋城ではむしろ空堀の方が、侵入者を防ぐのに好都合だった。それでここは、空堀とされたと言われている」
大軍を迎え撃つには不利な空堀かもしれないが、平和な時代となり、むしろ密偵の侵入を防ぐ方が重要な時代では、このような堀の方が都合がいい。戦乱のみをくぐり抜けたマツにとっては、この城の異なる思想に関心がある様子だ。
で、堀を伝って歩くと、東南隅櫓が見えてくる。
「カズキ殿! あれは二の丸か!?」
「ああ、あれは東南隅櫓と言われる建物だよ」
「櫓じゃと? あれがか」
興奮しているようだな。オオヤマの城と似ているようで、微妙に違うこの城の構造に、興味津々なのは間違いない。
興味津々なのはマツだけではなく、子供らも同様だ。そういえば、この2人が名古屋城来るのは初めてだからな。緑豊かで、それでいて重厚な石垣や城の漆喰壁、瓦葺きの屋根など、珍しい物でいっぱいだ。それぞれリーナとレティシアに抱かれたまま、きょろきょろと落ち着きがない。
で、リーナはと言えば、ここに来るまでの途中にある金シャチ横丁の団子屋で買った大量の串団子を頬張りながら歩いている。いや、串団子を食べているのは、レティシアもマツも同じか。
で、一向は表二之門と呼ばれる場所にたどり着く。
まさにここは、マツが死にかけたという三の丸門によく似た場所だ。門の両脇の鉄砲狭間、そして門の先で行く手を阻む石垣、その脇で睨みを効かせる東南隅櫓。まさしくここが、名古屋城の中枢に続く道の最後の砦である。
そして、東南隅櫓の麓の狭い通路を抜けると、本丸御殿が現れる。
「これは……本丸ではないのか?」
さすがにマツには分かるようだ。ここがこの城の居住スペースである、本丸御殿だ。といっても、本物はずっと昔の戦争で焼失したため、今あるのは復元された建物。が、それでもその荘厳さは伝わってくる。
中に入ると、そこは金箔押しの障壁画や襖絵が並ぶ。ここは上洛殿という、本丸御殿でも最も豪華絢爛な部屋が並ぶところ。マツのいたオオヤマ城の本丸には、ここまで金箔だらけの部屋はなかったから、この金ピカな建物に圧巻されているようだ。
「なんじゃ、この山吹色に溢れた本丸は。少々、黄金の使い過ぎではないのか?」
驚き、というより、呆れた様子で語るマツ。が、仕方がない、これが名古屋城というところだ。
「おう、これくらいでびびってたらダメだぜ。まだここは、名古屋城の入り口みてえなところ何だからな」
と、マツにやや脅し気味に喋るレティシア。だが、本丸御殿が入り口? そんなわけがないだろう。むしろ城といえば天守閣よりも、本丸の方がメインだと考える人もいる。
が、目立つのは天守閣の方には違いない。本丸を一通り見た僕らは、次に天守閣へと向かう。
まず大きな石垣が、僕らを出迎える。キヨマサ公によって築かれたとされるその石垣だけは、オリジナルの部分だ。が、その上の建物はこれまでに二度、作り替えられている。
まず戦災により焼失した天守閣が再建され、その後、コンクリート製だったその天守閣をオリジナルに近づけるべく木造にて建て替えられる。それが今も残る天守閣だ。
脇には、小天守閣がある。その小天守閣から中へと入る。細い階段を昇り、2階から天守閣へとつながる橋を経て、天守閣に入る。
外の大きさに比べて、中はやや狭く感じられる。狭い通路を抜けて、井戸の脇を通り一層目の部屋へと抜けると、そこは柱が立ち並ぶ広間へと出る。そこでマツは、あるものを目にする。
「カズキ殿! 刀じゃ、刀があるぞ!」
興奮気味のマツの目に飛び込んできたのは、刀だ。元々はこの名古屋城のあった尾張藩のトクガワ家の所蔵品が、この城の中に展示されている。
だが、むしろこの城の中では、赤い重ね着の着物を着たマツの方が注目されている。いきなり現代に、まるで戦国時代からやってきたような姿の姫が現れて、刀を指差し興奮している。このアンマッチな姿が、より人目を引く。
その向こうには、大きなジオラマが展示されている。かつて存在した外堀を含む名古屋城の全景が再現されていた。
その城の外側にある櫓を指しながら、マツが叫ぶ。
「カズキ殿! ここはもしや、三の丸か!?」
「うん、そうだね。三の丸と書かれている」
「ここは今、どうなっておるのじゃ!?」
「ええと、そこは今は市街地になってるから、三の丸はもう存在しない。残っているのは、この天守閣周辺から内堀の周りまでだな」
「うむ、よもやこの城も、敵の攻勢によって外堀を失ったのであるか?」
いや、原因は戦さではなく、時代の流れだ。幾度も混乱期を超えた結果、城下の多くの建物が失われた。
もっとも、これだけ大きな天守閣が残っていることの方が奇跡だ。戦国時代にあった城の多くは失われ、跡地すらも残っていないものが多いという。その後の江戸時代に藩の中核だった城でも、現存するものは数えるほどしかない。
他に鉄砲や籠、鎧に着物、当時の食事のサンプルなどが展示されており、一つ一つ丹念に見て回るマツ。レティシアとリーナは、それぞれの子供らに展示物を見せている。
「おうユリシア、これは鉄砲だぜ。こうやって構えて、敵に向かって……ズドンってやるんだ」
「ジュドーン!」
ユリシアに何を教えているんだ。あまり変な言葉を覚えさせないでほしいなぁ。一方のリーナも、エルネスティに刀や鎧を見せて回っている。
「よいか、剣に気を込めるのだ。すると自らの体内にみなぎる力を感じるから、その瞬間に詠唱を唱えるんだぞ。さすれば、剣の先より炎が顕現して……」
そんな物騒な刀は、この名古屋城にはないぞ。息子になんてことを教えてるんだ、リーナよ。
で、3層、4層へと昇るに連れて、徐々に狭くなる。急な階段を抜け最上階である5層にたどり着いた。
その窓からは、ナゴヤの街が一望できる。
「うむ……これならば、10万の兵に囲まれても、ひと月は持ち堪えられるであろう。なかなか堅固な城じゃ」
いや、今どきここを10万の兵で攻める奴はいないだろう。そもそも攻める理由はないし、そのつもりがあるなら、上空から強襲艦と人型重機で攻めるだけだと思う。
それに、窓の外にはこの名古屋城の何倍も高いビル群が見える。ここはあのビルの中にぽつんと残された、過去の遺物に過ぎない。
そんな天守閣を降りて、再び本丸の前に立つ。そこにある売店で、マツは名古屋城の天守閣の形をした置物を買う。よほど気に入ったらしい。
「あれぇ! もしや、ヤブミ提督じゃありませんか!? こんなところでミートするなんて、サプライズですねぇ!」
と、その売店の中で、声をかけられる。この面倒臭い喋り方はもしや……振り返ると、やはりその通りだった。
「なんでぇ、マリアンジュじゃねえか。おめえここで、何してるんだ?」
「ああ、やはりレティシア殿もいらしたのですね! 何というミラクル! いえ、ナゴヤのナンバーワン・シンボルだというルモアーを聞いたので、ヴィジットしようってことにしたんです!」
相変わらず、何を言ってるのか分からないやつだ。変な横文字を多様しないで欲しいな。が、マリアンジュ上等兵がいるということは、当然、もう一人もいるんだろう。
「やややヤブミ提督じゃないですか! ど、どうしてここに!?」
やはりいた。フェリシー上等兵だ。この2人、いつも連れ立って出かけるから、今も一緒なのだろうと思った。
「マツがここに来たいと言い出したので、それで来ただけだ。むしろ戦魔女団がここにいる方が珍しいと思うが」
「すすすすいません、提督! 魔女なのに城に来ちゃいまして!」
「いや、別に構わないのだが、単に珍しいと言っているだけで……」
こいつは戦魔女団の中でものんびり気質なところがある魔女だが、焦ると妙なことを口走るところがある。
「フェリシー! 清正石を見ようよ!」
「ええ〜っ! 何その漬物石みたいな名前は!?」
「何言ってんのよ! キヨマサ公と言えば、このキャッスルのビルドでスーパーフェーマスなキーパーソンよ! さ、レッツ、トゥギャザー!では提督!」
と、マリアンジュ上等兵は僕に手早く敬礼を済ませると、気弱なフェリシー上等兵の手を引いて連れて行ってしまった。
「キヨマサイシとは、なんじゃ?」
そのやり取りを聞いていたマツは当然、気になる。
「ああ、向こうの東二之門の前の石垣に埋め込まれた、でっけえ石のことだよ」
いつものレティシアなら「見りゃあ分かる」というはずのところで、妙に丁寧に返しているな。
「でかい石とは、いかほどのもんじゃ?」
「重さ10トンだって言われてるぜ。ま、怪力魔女なら、一度は持ち上げてみてえって思う石だな。よし、後で見に行くぜ」
「うむ、是非に!」
ああ、怪力魔女的に気になる石なのか。どおりで詳しいはずだ。その石の存在をマリアンジュ上等兵に教えたのも、レティシアだろうな。
で、その場にて、近くの屋台で売られていた桜餅を食べる。まだ桜なんて咲いてないのに、気の早いことだと思いつつも、2月にしては暖かいこの陽気の下で、僕ら家族はその一足早い春の食材を頂く。
「おめえ、今からこの味を覚えるつもりかよ。ちょっと早えぞ」
「もち! もち!」
ユリシアは桜餅をせがむ。仕方がないので、レティシアは箸で小さくちぎり、この幼子の口に入れる。ぱあっと明るい顔に変わるユリシア。そして、一言。
「カジュキ!」
なぜそこで、僕の名前が出てくるんだ? そこは「美味い」というところではないのか。
そこでふと考える。まさかとは思うが、あれは僕の名前ではなくて、美味しいものを食べたときの相槌か何かと認識してるんじゃないのか?
「カズキ殿! やはり美味いな、桜餅は!」
「カズキ殿! この菓子、もっと食べたいのじゃ!」
「おい、カズキ! そういうわけだからよ、桜餅をもっと買ってきてくれよ!」
ああそうか、みんなこの調子だから、ユリシアが間違えて当然か。
その後、例の清正石の前にも立ち寄る。重さ推定10トンのこの巨石について語り出し、挙句、持ち上げようといきり立つレティシアに、それを止めるリーナ、そしてその石を唖然とした表情で眺めるマツ。900年ほど前の、先人の知恵と技を思わせるこの巨石を前に、マツは何を思うのか。