奥野夫妻とミアの一年
オレ様はイヌだ。名前はミア。犬種はパビヨンで、性別は男だ。
ミアという名前は、ママがつけてくれた。ママと言っても、産みの親ではない。人間の、オレ様の飼い主をママと呼んでいる。自分でママと言ってるのだから、仕方ない。他に呼びようがないのだから。
そして、オレ様は、ミアというこの名前をけっこう気に入っている。だから、オレ様のことは、ミアと呼んでくれ。
これは、オレ様が、飼い主である奥野家で過ごした一年間の出来事をまとめた物語だ。最後まで付き合って欲しい。
オレ様とママとの出会いは、一軒のペットショップだった。いろいろなペットショップをたらい回しにされ、それでも飼い主が見つからずに随分と長い期間が過ぎ、この先どうなるのかと思案に暮れていたところへママが現れたのだ。その時、オレ様は、展示ケースの中で横になっていた。
「わあ、可愛いわんちゃんがいっぱいいるね。」
何度も聞いたその科白だが、しかし、その声には、どこか心惹かれるものがあった。「あっ、パピヨンがいるよ。可愛いなあ。」
それがママだった。
「へえ、一歳ニか月だって。もう成犬だね。」
と、ママのご主人―つまりパパだ―が言う。
「抱っこしてみたいな。いいでしょ?」
「いいけど、お店の人、許してくれるかな?」
「大丈夫だよ。この前も、他の犬だけど、抱っこさせてくれたよ。すみませーん。」
と、店の人を呼ぶ。
「はい、何でしょう?」
「このパピヨン、抱っこしたいんですけど、いいですか?」
「はい、いいですよ、今出しますね。」
そう言って、店員は、手際よくオレ様を展示ケースから出す。そして、ママの手を消毒すると、オレ様をママに手渡した。オレ様は、ママの腕の中で丸くなる。今まで何人もの人間が幾度となく、冷やかしでオレ様を抱っこしてきたが、そのどれとも違う何とも言えない居心地の良さだった。
「わあ、けっこう重いなあ、でも、可愛い。男の子だあ。」
ママは、オレ様を抱っこしながら、優しく撫でてくれた。オレ様は、気持ちよくなって、すっかり体をママに預ける。
「へえ、いい面構えだな。」
そう言ってパパは、オレ様の口許に人差し指を差し出す。反射的にオレ様は、その指をペロペロと舐める。
「おっ、舐めてきたぞ。そうか、お前は舐めるのか?」
自分で指先を出したくせに変なことを言う。
「ねえ、このわんちゃん、飼いたいな。」
ママが恐る恐るといった感じで、パパに切り出した。
「え? この犬を? もう成犬だよ。飼うなら、子犬の方がいいんじゃない?」
「だって、こんな可愛いわんちゃんいないよ。もう気に入っちゃったんだもん。」
「待て待て、値段はいくらだ?」
パパは、展示ケースに貼り付けてある値札を確かめる。「一、十、百、千、万、七万円か。何? 土日割引きで四万円?」
「ほら、安いでしょ? 買ってー。」
「でもさ、安いからには、何か欠点があるんじゃない?」
人、いやイヌを欠陥品扱いする。
「欠点があってもいいよ、可愛いもん、買ってー。」
ママは、いたって能天気だ。
「しつけとか大変なんじゃない?」
「いいよ、可愛いもん。」
「さっきから可愛いばっかり。」
「だって、可愛いんだもん、買ってー。」
「でもなあ、可愛いだけじゃ駄目だよ。先のことも考えないと。」
「今可愛ければ、この先も可愛いよ。」
「そういうことを言ってるんじゃないよ。」
「誕生日プレゼントに買ってー。」
「今、三月だよ。加奈の誕生日は、六月だろ。」
「誕生日プレゼントの前倒しで。」
「誕生日プレゼントの前倒しなんて聞いたことないよ。」
「とにかくこの子がいいの! 四の五の言わず買ってー。」
「まあ、前からいぬが欲しいって言ってたからなあ。俺もそのつもりで貯金してたし。それに加奈がこんなにねだるのも、珍しいからまあ、いいか。」
「わあ、やったー! すみませーん。」
気が変わらないうちにと思ったのか、ママは、すぐに店員を呼んだ。
「はい、お呼びでしょうか?」
「このわんちゃん、欲しいんですけど。」
「はい、お買い上げですね。ありがとうございます。すぐお持ち帰りいただけますよ。あちらでお手続きいたしますね。」
そこで、一旦、オレ様は、展示ケースに戻された。
その後、ママ達は大変だった。オレ様を持ち帰ると言っても、生活するスペースが必要だ。ケージがいる。移動するのに、抱っこでは不安定だし危険だ。移動用のかご―クレート―がいる。毎日のごはんが必要だ、ごはんを入れるフードボウルだ、水を飲むのに給水器だ等々、店員の勧めに従って、オレ様を飼うのに必要な物を山程買い込んだ。
ママ達とオレ様が出会ったのが昼過ぎだったが、全ての用事を終えて、オレ様を二人の家へと連れ帰ったのは、すっかり日が暮れた頃だった。
「はあ、やれやれ。犬を飼うのも大変だな。」
パパがオレ様を入れたクレートをそっと床に置く。
「ねえ、ミア、出していい?」
「え? ミアって何?」
「この子の名前だよ。ミアってつけたの。見た瞬間にふと閃いたんだ。」
「ミアか。ミアねえ。まあ、いいけど。」
パパは、ミアという名前に不満なのか、勝手に名前をつけたのが不満なのか、わからないが、あまり乗り気ではないようだ。
「じゃあ、出すね。」
ママは、パパの気持ちを知ってか知らずか、喜んでクレートの扉を開けようとする。
「わあ、待った! 出していいって言ったんじゃない!」
「ええ? 駄目なの? 遊びたいよー!」
「ケージを組み立てるのが先だろ? それまで待ちなさい。」
「じゃあ、早く組み立てて。」
オレ様は、二人の様子をクレートの扉の隙間から眺めていた。
「まあ、待ちなって。えーと、何々? 二人以上で組み立ててください、か。一人じゃ無理みたいだから、手伝ってよ。」
「えー? 一人でできないの?」
ママは、オレ様を欲しがった割に、協力的ではないようだ。
「誰の犬だよ。」
思った通り、パパは、文句を一言。しかし、すぐに説明書とにらめっこを始めた。
「えーと、まず底面を置く、か。ここでいいかな?」
パパは、適当な場所にケージの底面を置く。「次に四面を順に組み立てる、か。なるほどね。」
「ねえ、それ、出入口じゃない? 壁際に立てたりしたら、ミアが出入りできなくなっちゃう。」
「おっ、そうか。何か扉みたいのがあると思ったら、出入口か。」
パパも、意外とそそっかしいものだ。オレ様が出入りできなかったら、何のためのケージか。オレ様は、はふっと溜息をついた。
「あっ! 聞いた? ミアが溜息ついたよ。はふっだって。」
ママが嬉しそうに報告する。
「全然集中してないな。ケージ組み立てる気ないだろう。」
パパが不満気に言う。
「そんなことないよ。ちゃんとやってるじゃん。」
「四面を立てたら、ねじを差し込む、か。ねじ取って。」
「はい、これ。」
「さて、ねじを差し込んだら、これで完成っと。できたぞ。」
パパが腰に手を当てて満足そうに言った。「さあ、ミアを入れよう。」
「わあ、やった! ミア、おいで。」
ママがオレ様をクレートから出そうとする。しかし、オレ様は、クレートの出入口の出っ張りに両前足を突っ張って、出されまいとする。「あれ? 出てこない。ほら、おいで。」
ママは、むきになって力づくで出そうとする。すると、オレ様は、ますます出されまいと頑張る。
「ミア、何頑張ってるの? 出ておいで。」
ママは、とうとう音を上げた。「パパー、何とかしてー。」
「え? パパって俺のこと?」
パパは、素っ頓狂な声を出す。
「だって、ミアは、息子みたいなものでしょ? だから、あたしがママで、あなたはパパ。」
「やれやれ。」
パパは、仕方ないという感じで、オレ様が入っているクレートを覗き込む。「全くしょうがないな。加奈は、力任せにするから上手くいかないんだよ。こうして、と。」
パパは、オレ様の両脇を片手でつかむと、ひょいと上に上げる。すると、前足が突っ張っていた出っ張りから外れ、オレ様の体はいとも簡単にクレートから引きずり出される。
「ほら、こんなもんさ。」
パパは、両手でオレ様を抱っこすると、自慢気に言う。
「へえ、すごいね。」
ママは、感心した様子で目をキラキラさせる。
「さあ、ミア、新しい家だぞ。」
そう言うとパパは、オレ様をケージにそっと入れる。オレ様は、くんくんと鼻を鳴らしながら、ケージの中をぐるぐる回る。
「やっぱり、犬は匂いが気になるんだな。」
パパが独り言のように呟く。
「そうそう。首輪つけなきゃ。」
ママが思い出したようにそう言う。
「え? 散歩の時につけるんじゃないの?」
「それとは別だよ。いつもつけていてあげたいじゃん。」
そう言って、手に持っているのは、ブルーでレースの縁飾りがついたおしゃれな首輪だった。
「ほら、可愛い。可愛いミアがこれでますます可愛くなるよ。」
ママは、わくわくした感じで、オレ様に首輪をつける。
「わあ、ミア、可愛いよ。」
首輪をつけたママは、オレ様の顔に頬擦りしてきた。オレ様は、お返しにママの顔をペロリと舐めた。
「ミアー、嬉しいの? 可愛いなあ。」
ママは、大喜びだ。
「ねえ、ミア、出していい?」
ママは、悪戯っ子のようにパパに尋ねた。
「いやいやいや、何言ってるの? ケージに慣れるまでは駄目だよ。」
パパは、冷静にママを諭す。
「ええ! 遊びたいよー。ミア、出そうよー!」
「駄目だってば。ミアが可哀想だよ。ちゃんとケージに慣れるまで待ちなさい。」
「ミアだって、広い場所で遊びたいよー、出そうよー!」
ママは、駄々っ子になっていた。
「そりゃあ、ミアは、広い場所に出たいかも知れないけど。」
「そうでしょ? ミアのために出そうよー!」
しばらく押し問答が続いた後、
「お願い、お願い。」
と、ママが上目遣いになると、
「仕方ないなあ、ちょっとだけだよ。」
と、パパが折れる。
「わーい、やった! 大好き!」
ママは、喜んでケージの扉を開ける。オレ様は、その一瞬を見逃さなかった。僅かな隙間から、あっという間に脱兎のごとく飛び出した。
「わあ!」
オレ様の勢いに驚いたママは、その場に尻餅をつく。オレ様は、広々とした空間に出られた嬉しさから、滅多矢鱈に走り回る。もう何も見えず、無我夢中だ。あちこちぶつかるが、そんな事には構っていられない。
「だ、大丈夫かな?」
呆気に取られて、尻餅をついたままのママが言う。
「だ、大丈夫じゃない?」
やはり呆気に取られて、パパが言う。
オレ様は、リビングとダイニングの間を行ったり来たりして、とにかく走り回る。そのうちにソファーの背もたれにドーンと激突するのが面白くなって、ダイニングテーブルの周りをぐるぐる回り、ソファーにドーン、を繰り返す。
「おお、おお、元気だなあ。」
オレ様の様子を見て、パパは、暢気な感想を漏らす。
「ねえ、パパ、捕まえてよ。」
「え? 出せって言ったの、加奈だろ?」
「だって、触りたいもん。見ているだけじゃつまんない。」
「仕方ないなあ、どら。」
しかし、パパのスローモーな動きに捕まるようなオレ触りではない。素早く逃げ回る。やがて、あんまり走り回ったせいか、腹が痛くなってきた。
「ワン! ワン! ワン!」
オレ様は、激しく吠え立てながら、リビングの一点を中心にしてぐるぐる回り出した。
「あれ? ミアの様子が変だよ。」
「う、うん。どうしたのかな?」
オレ様の異変に困惑しながら、ママもパパもオレ様を凝視する。
そして。
オレ様は、尻を床につけると、うんちを捻り出した。
「わあっ、うんちした!」
パパが大声を上げる。
「た、大変!」
ママが慌てて、トイレットペーパーを取ろうとする。何とかトイレットペーパーを手にするが、振り返った瞬間、勢い余って、あろうことか、オレ様のうんちを踏んづけた。そして、滑って尻餅をつく。勿論、うんちの上に。
「わあ。」
「今度は、おしっこもした!
パパは、絶望的な声を出した。
オレ様は、尻餅をついたママの手のトイレットペーパーを見た途端、狂ったようにペーパーに咬みついた。そして、ビリビリと咬み破り、辺り一面にペーパーの残骸を撒き散らした。リビングは、修羅場と化していた。
ここで、登場人物を紹介しておこう。
まず、ママ。奥野加奈。三十四歳。人間の女だ。針金のように痩せていて、眼鏡をかけている。本人が言うには、ポパイという漫画に出てくるオリーブににているらしい。オレ様は、見たことがないので何とも言えないが、本人が言うのだから間違いないだろう。
次にパパ。奥野純一。五十一歳。人間のこれは男だ。似たもの夫婦という言葉があるらしいが、針金のように細いママに対してかなりぽっちゃりだ。似ていないにも程がある。そして、やはり眼鏡をかけている。お笑いコンビ、キャイ~ンの天野ひろゆきに似ているらしいが、これも見たことがないので、何とも言えない。
二人は、それなりの年齢だが、去年の六月に結婚したばかりの新婚ということだ。本当は、ママの誕生日が六月だから、その日に結婚式を挙げたかったのだが、平日だったので、別の日にしたらしい。そして、ママの誕生日プレゼントの前倒しでオレ様がパパからママにプレゼントされたというのは、前述の通りだ。
そして、オレ様。ミア。一歳二か月。登場人物と言ったが、オレ様は、イヌなので、登場人物ならぬ登場犬といったところか。犬種は、既に話した通りパピヨンだ。ミアという名前を気に入っているのも、話した通りだ。
オレ様は、自分で自分の体を見ることはできないので、聞いた話になるが、オレ様の体色は、白を基調としている。
目の周りと耳は、黒だ。額は、白で、白黒のコントラストが絶妙なバランスだという。そして、両目の周りの黒と額の白の間に茶色い毛が点となって人間の眉毛のように生えている。頬の辺りにも茶色い毛が生えている。額から鼻先にかけては黒い斑が点々とついており、これがアクセントになっている。
体は、左の脇腹に直径五センチくらいの楕円形に黒い犬種が生えている。そして、首から腰にかけてメッシュを入れたように黒い毛が細かく生えている。尻尾にもやはりメッシュを入れたように黒い毛が数条入っている。
そして、パピヨンの特徴らしいが、耳に長い飾り毛が生えている。前足の後ろ側にも長い飾り毛が生えており、ママとパパは、それをプレスリーと呼んでいる。何でも昔のアメリカの歌手が両袖に飾りをつけており、その様子がオレ様の飾り毛に似ているらしい。そんなわけで、それをプレスリーと呼ぶことにしたらしい。
後、他にも登場人物や登場犬がいるが、その都度紹介していこう。
「はー、何か疲れちゃった。」
着換えを終えたママが溜息をつく。
「犬を飼うって、やっぱり大変なんだな。」
パパがリビングにどかっと座り込む。
修羅場となっていたリビングは、何とか元通りとまではいかないが、人が過ごせるようになっていた。
オレ様は、ケージでふせの姿勢をしている。
「あたし、白いジーンズだったのに。」
「洗えばいいじゃない?」
「うんちのついたジーンズなんて、もう履けないよ。染みだって抜けないだろうし。」
「何とかトイレのしつけは、早くしないとな。」
と、パパ。
「うん、トイレ、設置する?」
「明日でいいんじゃない? 今日は、もうしないだろうし。」
「そうだね。」
「あと、ミアには、トイレットペーパーは、禁物だな。」
「うん。」
「あんな風にしちゃうとは、思わなかった。」
「ほんと。びっくりしちゃった。何なんだろうね? ペーパーに恨みでもあるのかな?」
「我を忘れた感じだったね。やっぱり一歳過ぎてると色々大変なことが多いんだね。」
「でも、こんな可愛い犬いないもん。ちゃんとしつけしよう。」
「それは、そうだけどさ。しつけもちゃんとできるか、先が思いやられるよ。安過ぎると思ったけど、この大変さは、安いだけあるね。」
「嫌になった?」
「いや、大変な分だけ可愛さが増すよ、きっと。」
「よかった。ずっと可愛がろうね。」
「うん、とにかく明日は、保健所に行って登録してくるゆな。加奈は、ミアとお留守番してな。」
「うん。お留守番しながら、待ってる。」
その夜、ママは、オレ様の為にブランケットを用意してくれた。百円ショップで大量に買い込んだのだ。
「まだ寒いからね。ミア、これ敷いて寝なさい。」
ケージでふせをしていたオレ様にブランケットを見せる。オレ様は、興味を示してブランケットの匂いを嗅ぐ。「食べ物じゃないんだよ。体の下に敷くの。」
ママは、優しく諭すように言った。そして、オレ様の傍に置く。オレ様は、ブランケットを前足で押さえると、齧ってみた。
「齧るゎじよないんだってば。」
ママは、慌てて取り上げようとする。オレ様は、取られまいとして思い切り咥える。引っ張りっこが始まった。
「みあ、遊ぶんじゃないんだってば。放しなさい。」
しかし、オレ様は、遊んでもらってると思って、逆に引っ張る。ママが根負けして手を放した。オレ様は、引っ張りっこが終わったことにちょっとがっかりしたが、新しいおもちゃを手に入れたと思って、ブランケットを両前足で押さえると、ガジガジと噛んだ。
「ねえ、パパ。ミアがブランケット、おもちゃにしちゃった。」
「仕方ないよ。ミアには、何の為に使うのかわからないんだから。しばらく様子見よう。」
「そう?」
ママは、面白くない様子だ。オレ様は、そんなことも気にせず、ガジガジとブランケットを噛む。そのうちに千切れたので、細かい破片を咀嚼する。
「あっ、ミアがブランケットを食べてるよ。」
ママが慌てる。パパも事態の重大さに気づいたのか、慌ててオレ様からブランケットを取り上げる。オレ様は、ブランケットの破片を咀嚼するのに夢中になって簡単にブランケットを取られてしまった。
「ふう、危ないなあ。ミアには、食べ物とそうでない物の区別もつかないのかな?」
「せっかく保温の為に買ったのに、ミアってば、食べ物だと思っちゃったのかなあ?」
「とてもおいしいとは思えないけど、こういうことも教えていかないと駄目かもね。」
パパとママは、顔を見合わせて溜息をついた。オレ様は、口の中の物がなくなったので、つまらなくなって前足を揃えて、顎を乗せた。
次の日、パパは、保健所に出かけて行った。
オレ様は、ママの膝の上で丸くなっていた。ママは、ソファーに座ってオレ様の体を優しく撫でる。
「ミア、いつまでも家にいてね。」
何度も何度もそんな科白を繰り返す。
「可愛いな、ミアは。」
オレ様は、気持ちよくてうっとりしていた。と、ママの片手がオレ様の口許に当たる。
「ウーッ!」
オレ様は、低く唸ると、そのテをガブリと噛んだ。しかも、思い切りだ。
「いたっ!」
痛さのあまりか、ママは、立ち上がった。
「キャン!」
オレ様は、弾みで床に叩きつけられて悲鳴を上げる。
「あっ、ごめん。ミア。」
ママは、オレ様を抱き上げようとする。しかし、オレ様は、床に叩きつけられたことでパニックになってしまい、差し出されたその手をさらに噛んだ。
「ミア、怒ったの? 落ち着いて! ごめんね、ミア。」
ママは、優しく声を掛ける。何度もごめんねを繰り返すママに、オレ様も少しずつ落ち着きを取り戻した。
「あー、よかった。怪我はない? ミア。」
ママがオレ様を抱き上げる。オレ様は、何事もなかったようにママの両手の中で大人しくなった。パパが帰ってきたのは、そんな時だ。
「ただいまー。」
「あっ、パパだ。」
ママは、嬌声を上げると、オレ様を抱っこしたまま、玄関まで出迎える。
「お帰りなさい。」
「ただいま。登録してきたよ。鑑札も貰ってきた。」
靴ゆ脱ぐと、手に持っていた紙袋から金属製の小片を取り出す。ママがそれを器用に片手で受け取る。
「へえ、これが鑑札かあ。骨の形してるんだね。H二十七登録証。札幌市、か。第八一一七号だって。」
ママが鑑札の文字をいちいち声に出して読み上げる。と、その時、
「どうしたの? その手。」
ママは、オレ様を抱っこする手を上手に隠したつもりだったようだが、パパは、ママのその手を見逃さなかった。「血が出てるじゃない?」
「うん、ちょっと。」
「ちょっとじゃないよ。とにかくミアをケージに入れて、さ。」
パパは、ママからオレ様を奪い取ると、素早くケージに入れる。
「消毒と止血しなくちゃ。」
消毒してもらいながら、ママは、事の次第をパパに説明した。
「ふうん、いきなり噛んだのか。」
「うん、びっくりしちゃって、ミアのこと、床に落としちゃった。」
「何かがミアの気に入らなかったんだろうね。だから、噛んだんだよ。」
「そうなの?」
「うん、とにかく俺達もまだ、ミアのことわからないけど、ミアも俺達のことわからなくて、不安だらけなんだよ。」
「そうだね。ミアのこと、わかってあげなきゃ駄目だけど、ミアにもあたし達のこと、わかってもらわなきゃ駄目なんだね。」
「よし、と。」
パパは、ケージに近づくと、オレ様を抱き上げた。
「どうするの?」
ママは、不安そうにパパに尋ねる。
「噛ませてみるんだよ。どういう状況になったら噛むのか、知らなきゃ。」
パパは、ソファーに座ると、オレ様を膝の上に抱き、両手でオレ様の体を撫で始めた。
「こうしてる時に噛んだんだろ?」
「うん、確か口許に手を持っていったら……。」
パパは、その通り、手をオレ様の口許に近づける。
「ウーッ!」
オレ様は、低く唸ると、その手を思い切り噛んだ。
「よし、大丈夫だ。ミア、落ち着いて。」
オレ様に手を噛まれながら、パパは、優しく声を掛ける。ギリギリと音がするほど思い切り噛んでいるのに、パパは、全く意に介さず優しいままだ。やがて、オレ様は、落ち着きを取り戻し、パパの手を噛むのをやめた。
「よし、いい子だ。ミア、えらいぞ。」
パパは、優しくオレ様の体を撫でる。オレ様は、うっとりして目を細めた。
「パパ、痛くないの? 血が出てるよ。」
「痛いけどさ、ミアのこと思ったら、こんなの痛みに入らないよ。それにこれくらいじゃ、何もしないってわかれば、ミアも噛まなくなるんじゃないかな?」
「そうだね。ミアもあたし達のことわからないけど、こうして理解してもらえばいいんだね。あたしも、少しぐらい噛まれても我慢しようかな?」
今度は、ママが消毒する番だった。
「ねえ、これから散歩に行こうと思うんだけど。」
消毒が終わって、パパがそう提案した。オレ様は、ケージの中で二人の様子を見ている。
「ちょっと待って。」
ママは、隣の部屋へ消えた。次に現れた時、ママは、小さな箱を持っていた。
「何するの?」
パパが怪訝な顔をする。
「鑑札を散歩用の首輪に縫い付けるの。十分くらいで終わるから待ってて。」
しばらく沈黙の時が流れた。ママは、程なく縫い付けを終わった。
「よし、できたっと。どう? いいでしょ?」
ママが赤い首輪に縫い付けた鑑札をパパに見せる。
「へえ、いいね。」
「ほら! ミアも見てげらん。」
ママは、オレ様にも見せた。オレ様は、
「ワン!」
と、一声吠えて見せた。
「あれ? ミアにもわかるのかなあ?」
パパが訝しげにそう言う。
「わかるんじゃない?」
ママが返す。
「じゃあ、散歩に行くか?」
ママは、外へ行く支度をする。パパも支度をすると、オレ様の鼻先から首輪を通そうとする。が、頭のところでうまく通らない。けっこう窮屈だ。しかし、パパは、強引に通した。やれやれ、これから散歩の度にこんな窮屈な思いをしなければならないのか。オレ様は、気が重くなった。
「さあ、行こう。」
パパは、オレ様をママに渡すと靴を履いた。そして、ママからオレ様を受け取り、ママが靴を履くのを待つ。
「さあ、初散歩だね。ミア。」
ママは、そう声をかけて玄関のドアを開け、外に出る。
「さあ、自分の足で歩け。」
パパは、そう言ってオレ様をそっと地面に降ろす。地面は、白い。雪という物が積もっているかららしい。雪の感触は、固く冷たかった。ママは、スマホで初散歩のオレ様を撮影しようと構える。二人の視線がオレ様に集中する。しかし、オレ様は、二人の期待を大きく裏切る行動に出た。
「は?」
「へ?」
オレ様の散歩姿を見た二人は、声にならない声を出した。
あろうことか、オレ様は、リードに繋がれることをよしとせず、リードを両前足で押さえて立ち上がり、後ろ足で二足歩行したのだ。よちよちと歩くその姿は、しかし、二人に衝撃を与えるには充分だった。
「何? これ?」
「こんな散歩の仕方ある?」
二人は、口々に驚きの声を上げる。
「と、とにかく散歩しよう。」
パパは、気を取り直して歩を進める。ママは、オレ様の初散歩を撮影しようとするが、オレ様は、二足歩行したままだ。ママは、撮影しながら、
「ミア、ちゃんと散歩しなさい。さ・ん・ぽ。」
と言うが、相変わらずオレ様は、二足歩行を続ける。
「ねえ、ミアがちゃんと散歩しないよ。」
ママが情けない声を出す。
「うん、今日は調子悪いみたいだね。」
パパも、どうしていいかわからない様子だ。
「調子がいい悪いの問題じゃないよ。恥ずかしいよ。」
「今日は、やめるか?」
「うん。」
こうして記念すべき初散歩は、失敗に終わったのだった。
「ミアがちゃんと四本足で歩くまで、散歩行けないね。」
と、ママ。
「行けなくはないけど、ちょっと違うよね。」
二人は、途方に暮れたようだった。
「何がいけないのかなあ?」
ママは、ケージの中で前足をペロペロと舐めるオレ様を見つめる。
「多分、リードで繋がれるのに慣れてないんじゃないかな? きっと初めてリードで繋がれてどうしていいか、わからないんだよ。」
「そうだね、ずっとペットショップで過ごしたって言ってたもんね。その間、散歩もさせてもらえなかったんだよね。」
「家の中で、リードで繋いで歩く練習させようよ。そしたらきっと、四本足で歩くようになるよ。」
「うん。ペットショップ暮らしが長くて、可哀想なのはミアだよね。」
「トイレの設置するか。」
パパが立ち上がる。箱から、何かを出す。ママがシートを用意すると、器用にその何かに挟み込む。
「さあ、これでいいな。ミア、トイレだぞ。」
パパが奇妙な物体をオレ様のケージに置く。
「ちょっと狭くなっちゃうね。」
「仕方ないけど、トイレを覚えるまでの辛抱だよ。ちゃんと覚えたら、トイレは、外に出してあげよう。」
「そうだね。」
二人は、そんなやりとりをしたが、オレ様は、突然置かれた奇妙な物体に、
「ワン! ワン! ワン!」
激しく吠え立てる。
「ミアがトイレに向かって吠えてるよ。」
と、ママ。
「トイレだって、わからなくてどうしていいか、困ってるのかな?」
そんな二人を後目にオレ様は、奇妙な物体を咥えると、バタンバタンと床に叩きつける。そして、
「ワン! ワン! ワン!」
またその物体に向かって、激しく吠え立てた。それから咥えて床に叩きつける、の繰り返しだ。
「ミアがトイレをおもちゃにしてるよ。」
ママが困ったようにパパに訴える。
「大丈夫かな?」
「うん、取り出した方がいいんじゃない?
「そうだね、あっ。」
パパが手を伸ばした瞬間、オレ様が咥えていた物体が、バキッと音を立てた。
「ミアがトイレ、壊しちゃった。」
パパが情けない声を上げる。
「ミアと遊ぼうっと。」
しばらく呆けた後、ママは、気を取り直すようにそう言った。
「ミアを出すの?」
パパが明るく言う。
「うん。それもあるけど、ボール遊びしようと思って。」
そう言うと、ママは、青いボールを取り出した。「犬飼ったら、やってみたかったんだよね。取って来い。」
にやにや笑うと、ママは、オレ様をケージから出す。
「いきなりは無理じゃない?」
パパがたしなめるように言った。
「うん。まずは慣らすだけ。」
オレ様は、ケージから出してもらった嬉しさでその場をくるくる走り回る。
「ほら、ミア。ボールだよ。」
ママは、オレ様に青いボールを見せる。オレ様は、それを見て、
「ワン! ワン!」
と、吠えて立ち上がる。
「ミアが立った!」
ママがパパの方を見て、そう言った。
「さあ、遊べ!」
ママがボールを放る。ボールは、ぽうんと弾んで転がっていった。オレ様は、それを勢いよく追いかける。うまく咥えると、そのままガジガジと齧る。
「ミア、ボールを齧ってるじゃん。」
パパが呆れたように言う。
「あ、あれ? おかしいな。」
ママは、当てが外れたようにそう言った。「咥えたままこっちみるかと思ったんだけど。ミア、ボールちょうだい。」
そう言って、ママは、手を出してくる。オレ様は、声の方を一瞥しただけで、ガジガジを続ける。
「ミア、ちょうだい。」
今度は近づいて来た。オレ様は、取られまいとトコトコと移動する。
「あっ、待って。行かないで。」
ママは、追いかけてくる。オレ様は、ボールを咥えたまま逃げる。ダイニングテーブルの周りで追いかけっこが始まった。パパは、その様子をにやにやして見ている。
「ミア、待って。パパ、見てないで捕まえてよ。」
ママがパパに助けを求める。
「やれやれ、仕方ないな。」
パパは、にやにやしたまま立ち上がり、オレ様をママと挟み撃ちにする。姿勢を低くして、両手を広げるパパを見て、そこからは逃げられないと判断したオレ様は、ママの方を見た。直立で追いかけてくるママ。これなら脇をすり抜けられそうだ。そう考え、オレ様は、方向を変えると、ママの足許をすり抜けた。
「あ、あれ?」
オレ様に出し抜かれたママは、首を捻る。「おかしいなあ。」
「何やってんの? ママ。」
パパが呆れ顔でママを責める。
「だってミアがすばしこいんだもん。」
オレ様は、ボールを咥えたままソファーの裏へ回る。
「ほら、ソファーの裏に行った。今度こそ挟み撃ちだ。」
パパがママに指示する。ママは、オレ様の退路を断つ。パパがオレ様の行く手を塞ぐ。オレ様は、進退窮まってパパに捕まり、ボールを放した。ボールは、ボトンと床に鈍い音を立てて落ちる。
「さあ、ミア、捕まえたぞ。」
パパは、勝ち誇ったようにオレ様に向かって言った。ボールを拾ったママが、
「あーっ!」
と、叫び声を上げる。「ミアがボール破いちゃった。」
「仕方ないな。今度は、俺の番だ。」
パパは、オレ様を床に置くと、袋の中をごそごそと探る。「これこれ。」
と言って、にやつくその手には、丸い円盤が握られていた。
「ディスクドッグってやつに育てたいんだよね。」
「それこそ難しいんじゃないの?」
「ちゃんとネットで調べたんだ。最初は、慣らすことから始めろって。」
パパは、オレ様の鼻先にディスクを持ってくる。
「さあ、ミア、ディスクだぞ。」
オレ様は、新しいおもちゃに目をキラキラさせて尻尾を振る。「ほら、ミアも目をキラキラさせているよ。」
そう言って、ママの方を見る。ママは、ボールを台無しにされて、むくれている。パパがディスクを床に置いた。オレ様は、そのディスクを前足でチョンチョンと突付いてみる。危なくないことを確かめると、口に咥えた。
「ほら、ミアがディスクに興味を示したよ。」
パパが嬉しそうに言う。ママは、面白くなさそうな顔をしている。オレ様は、咥えたディスクを力一杯噛んだ。バキッと音を立てて、ディスクは砕けた。
「へ?」
パパの笑顔が凍りついた。ママは、さも可笑しいというように声を上げて笑った。
「はーあ。」
ママが長い溜息をつく。「何か問題がたくさん出てきたね。」
「犬を飼うのって、こんな難しかったのかな?」
「ごめんね。簡単に犬欲しいって言っちゃって。」
「いや、加奈は悪くないよ。たまたまそういう巡り合わせになっただけさ。」
「そう?」
「うん。まあ、ミアが一歳過ぎていたっていうのも、あるかもしれないけど、俺達も、犬の知識がなさ過ぎだよ。もっと勉強すべきだったのかもしれない。」
「そうだね。ちょっと簡単に考え過ぎていたのかもね。」
二人のやり取りを、オレ様は、ケージで横になりながら聞いていた。
「何見てるの?」
パパが何やら小さな四角い物をチョンチョンと触るママの手元を覗き込む。
「ああ、ドッグトレーナーのサイト。誰かいい人いないかな? と思って。」
「ドッグトレーナー?」
「うん。もうプロに頼むしかないかなと思うんだよね。質問サイトで調べても、質問があり過ぎて何から調べていいのか、わからないもん。」
「そうだね。プロに教えてもらうか。誰かいい人いる?」
「うん、この人どうかな?」
ママが四角をパパに見せる。
「何々? 各務原亜紀?」
「うん。札幌市内ならどこでも訪問して、犬の疑問に答えたり、しつけの仕方を教えてくれるんだって。九十分四千五百円だから、けっこう手頃じゃない?」
「へえ、来てくれるんだ。それならいいかも。」
「じゃあ、頼んでみるね。」
こうしてオレ様は、ドッグトレーナー各務原亜紀と出会うことになった。