(2)モンドとサブの救急救命チーム:誕生秘話
モンドとサブの救急救命チーム:誕生秘話
先々において、こんなことになろうとは、これっぽっちも思っていなかった。
出会いがあれば別れがある。その逆もまた真なりだ。サブが先に逝き、招きに応じてモンドがそれを追った。別れが、図らずもふたりの新たなスタートになったというわけだ。
逝った先の天の様子。これがまた、地上とそう変わってはいなかった。何処も彼処も、人 と言ってよいものかどうか で溢れかえっていた。この国だけをとらえても、戦国時代以来、死者の数が爆発的に増えていたからだ。戦ばかりか、コロリだチフスだスペインかぜだと、手の施しようのない病も後を絶たなかった。そんなだから、モンドとサブがやって来たときには、既に天の入り口へと続く人の列は先が見えないほどに長くなっていた。道は広く、数えきれないほどの列で埋まっている。前後に並ぶ死人に「この列でよいのでしょうか」と聞いてみたが、まともに答えてくれる者などひとりとしていなかった。天の仕組みを知らないのは、何もモンドとサブに限ったことではないのだ。何しろ、誰もがはじめてというのだから、仕方がない。
口数が少なく、何ともしめやかな行列だった。
噂によれば、天国だか地獄だか、あの世への移民手続きが滞っているという。そのせいで、ふたりは無聊の日々に身を置くことを余儀なくされた。命がないにもかかわらず、未だこっちの世界の住民のひとりにも数えられていないという有様なのだ。
ここには、時というものがない。そのせいで、朝夕の違いはなく季節もない。景色と呼べるようなものさえなかった。どれだけ待たされても、後ろに続く列が伸びる以外には、何の変化を見出すこともできない。
ところが、程なく気が付いた。遠くに、幅の狭い一本の道があるではないか。並ぶ人の数が少ない。おかげで、進むスピードがこことは比較にならないほどに早い。
「サブ、こんなところにいては埒が明きません。私たちも向こうの列に移りましょう」と横に外れたその刹那、「こらっ、そこのふたり、何処へ行く。ちゃんと並ばんか」と大声が飛んだ。
「別に、逃げも隠れもするつもりはありません。ちょいと列を変えようと思っただけで」
モンドに、何ら悪意はなかった。それなのに、「ダメだ。ここまで歩んできた道を替えることはまかりならん。今までどおり、この列に並んでいろ」と、やけに高圧的な口調で言い返された。こうなると、モンドとしても黙ってはいられない。
「待ってくださいよ。だって、ここは人が多過ぎて一向に進まないではありませんか。それに比べて、向こうはどんどん先に行っている。私たちふたりが入っていったところで、迷惑をかけることにはならないでしょう」
「そうはいかんのだ。向こうはな、生きている内から苦労を承知で狭い道を歩んでこられた、そういう人たちのために用意された専用の道なのだ。それに引き替え、お前たちときたらどうだ。神をも恐れず、いつも広くて楽な道ばかりを選んで歩いてきたのではなかったか。だったら、ここでも文句を言わずに広い道を行くしかないだろう。わかったら、つべこべ言わずに並んでいろ」
たしかに、己の人生を振り返れば、言い合いに勝機を見出すことはできそうになかった。相手は、どうやら規則がすべてのお役人のようである。人の声に耳を貸すはずもない。地上と違って、何処にこの憤懣をぶつけたものか、モンドには見当もつかなかった。
サブまでもが、「これが真の公平ってやつかもしれやせんね」とのたまう。こうなっては打つ手は見出せない。憤りを覚えながらも、「どこの世界にも、融通の利かない奴というのはいるものです」と捨て台詞を吐いただけで、元の列に戻った。
モンドは、ここでも紳士を貫き通していた。だから、この期に及んでも尚、一点の隙もなく着こなした英国仕立てのツイードの三つ揃いには、皺一つの乱れも見られなかった。それに加えて、今やトレードマークともなっているカイゼル髭は、威勢良く尖った先を天の更にその上に向けて跳ね上げられている。ただ哀しかったのは、地上ではあれだけ手を焼かせた髭や髪が、ここではサッパリ伸びないことだった。手間がかからず良いようなものだが、それだけに死を感じさせられる。それでも、モンドは俯かない。ゼントルマンだから、ボルサリーノと丸眼鏡の手入れは怠らない。ソフトのブラシがけには余念がなく、分厚いレンズも、一点の曇りも見られぬほどに磨き上げられていた。
「外見ばかりでは、片手落ちというものです。これからもことば遣いには気を付けましょう。そして、それに相応しく、心の中も」
モンドは、生まれ変わることを心に誓った。死んだ後でそれが何になるのかはわからなかったが、昨日までの自分のままでこの先の道を歩むことだけはできないと思っていた。そんなことでは、一緒にいるサブにも申し開きがたたなくなる。もう裏切ったり疑ったりしないという心意気を、こういう形に換えて証としたかった。それがモンドなりの決断だった。
一方サブは、傍にしゃがみ込んで、退屈しのぎにモンドのその姿を茶化していた。
「これから行こうとしている先のことはわからねえが、この行列の中にいる限りは、新しい出会いや胸をときめかせるアバンチュールなんてことはありえねえんだろうな。バッチリ決めたところで、誰も見てくれやしませんぜ」
今更、乱れた頭髪を気にして事ある毎に手を当てる、そんな女々しいことはしない。
はじめのうちこそ、「何処にいようと、せめて身だしなみくらいは整えておかなくてはいけません。いつ何が起こるやもしれないのですからね。一流とはそういうものなのです。おまえもそんなことでは、そのうち腐ってウジが湧いて取り返しのつかないことになってしまいますよ」などと、笑えぬ冗談で返していたモンドだったが、近頃は無意味な会話に加わる気もしなくなっていた。それでも、飽きずに毎日繰り返されるサブの戯れ。これにはほとほと手を焼かされた。
「たまにゃあ座ったらどうですかい。どうせ、今日も何にも変わったことは起こらねえんだからさ」と、また知ったような口を利く。
モンドも慣れたもので、平然と構えている。
「わかっているさ。とはいえ、立っていれば周りの様子が見えます」
足を洗った元詐欺師。ひとつに絞ったことばづかいも、今やすっかり板に付いていた。これで名実共にゼントルマンの仲間入りだ。
「見えるったって、昨日と何にも変わらねえ様子でやんしょ。そんなもの見て、何の役にたつってんですかねえ」
「役に立つかどうかは、どうでもよいことです。せっかく磨き上げたグラースがあるのに、使わないという手はないじゃありませんか」
暇を玩んでいたサブのモンドいじりは、終わらない。
「それにしても、アニキはいつからそんな眼鏡をかけるようになったんでやんすかい。おいら、初めて見たときには正直驚いちまった」
「何が言いたいのです」
「何がってほどのことじゃねえけどさ、金持ちにはやっぱり鼈甲でやんしょう。それが、針金を曲げてこさえたような丸眼鏡ときた。あっしには何とも奇妙で、このオッサン頭おかしいんじゃねえかって、思いやしたよ」
「おっさん、って・・・、何てひどいことを」
「ってったって、そんなイケスカネエ野郎は、おいらの周りにゃいなかった」
「サブ、今でもそう思っているというのでは、ないでしょうね」
「いやあ、もう慣れやしたがね、へへ。見ようによっちゃあ、たしかに学者の先生あたりに見えなくもねえってんだから、不思議なもんでやんすよねぇ」
「サブ。慣れたなんて、言うものではありませんよ。おまえにも、すこしはわかるようになってきたということではありませんか。どうです、違いますか」
「そういうこってすかね」
粋と洒脱が花開いたあの時代の地上が、懐かしく思い出されて仕方がない。
遅々として進まぬ天の列とは裏腹に、地上の時は一気に流れた。刹那に身を任せ、それが故に混沌の渦に巻かれた大正の時代 それを人は、ロマンと言った に続いてやって来た昭和という新しい時代。ドンパチ派手に世界中を騒がせた。その間に、何百万という一般市民が犠牲となり、天への道を登った。しばらくすると、世界の脅威と言われた東西の冷戦が幕を閉じた。だれもが平和な世の中を期待した。それなのに、人の命を脅かす陰がこの地上から消えることはなかった。今度は経済戦争という名の闘いを大っぴらにやらかしはじめて、その無責任な開発競争の産物であるガスや薬品が地球を覆った。これにより、この世は汚され温暖化に留まらぬ異常気象を日常化させた。おかげで、病や飢餓が世界規模で蔓延していった。それでも懲りずに人間は前に突き進むことを止めなかった。加速度的に、地球そのものが荒れに荒れた。地震、山火事、ハリケーン。いつまで経っても、命の安売りが終わることはなかった。次から次へと、天に昇らされる人の流れは途絶えるどころか増えるばかりだ。
ふたりが列に加わったときには、既にその先頭がどの辺りなのかさえ見当もつかないという有様だったが、振り返れば、モンドとサブの後にも数え切れない死者が長蛇の列をなしていた。それに加えて、よもや天が想定外だったとは言わないだろうが、日毎に過激さを増して多くの死者を生み出しているテロが、国を超えて連鎖の輪を拡げている。天の入り口での交通整理が、この先スムーズに行われるようになるとは思えなかった。道は死者で溢れ、暴動さえ起らないという保証はなかった。いつまでたっても、ふたりを取り巻く環境が改善される見込みは立たなかった。
「屍の上に積み上げられた札束を数えては、冨だ繁栄だと浮かれている。人の道が、これで良いはずがありません」
天に向かう死者の数の多さが、過去のこととして語られることはなかった。
時代は既に昭和も終わり、平成から令和へと移り変わっていた。サブがボソッと零す。
「それにしても、いい加減にしてくれねえかなあ」
どうにか自分たちの順番がやって来た。
目の前に立ちはだかる、赤茶けた煉瓦造りの塀と門。真っ白な砂利を敷いた小路が、中へと誘うように続いている。その先に建つ、これまた煉瓦造りの洋館。見上げれば、『移民局』と墨で大書された看板が仰々しくも掲げられている。どうやらここに、入天登録を司る中央政府の窓口が置かれているようだ。その扉が、音もなく開いた。霧が、足元から湧き起こり、突然目の前で蟠る。
雅な装いの受付嬢が、「ご記入願います」と一枚の用紙を指し示し、ペンを突き出した。生前の住所・氏名・職業等々と項目が並んでいる。一通りの人物確認をしたいらしい。
「まさか詐欺師とも書けねえしなあ・・・」と、サブがモンドの顔を窺う。
「とはいえ、嘘を書くわけにもいかないでしょう。どう言ったところで、医者や政治家には見えるはずもないのですから」
あれこれ悩んだ末に、職業はふたりとも万相談員とすることにした。モンドは店主、サブは番頭補佐と役職欄に記入して提出した。
両手で受け取る受付嬢。羽衣を翻しつつ、隣の部屋へと入っていった。
「ふわふわと地に足がついちゃいない歩き方が、何とも言えねえな。なかなかのべっぴんさんだし、身のこなしひとつとっても、けち臭さなんてこれっぽっちも感じさせねえ。まるで弁財天を目の当たりにしているようじゃござんせんか」と、サブが目をパチクリさせて呟いた。
さて、次は誰に会えばいいんだと思った瞬間、ふたりを取り巻く周囲の様子が変わった。見回せば、何とも飾りっ気のない部屋の中だった。何故か、壁には四角い鏡がはめ込まれている。目の前の机に、男がひとり座っていた。
「な、何ですかこれは」と、慌てふためくモンド。ところがサブは、慌てない。人並み外れて環境の変化に順応する能力が秀でている、というか驚くというスイッチが入るのに時間がかかる。
「どうやら、その会うべき相手というのが、この男のようですぜ」と、未だに落ち着き払ったサブの声がモンドの耳朶に触れる。
「ど、どうしてそんなことがおまえにわかるのです。じょ、冗談も、ほどほどにしなさい」
そんな声にはお構いなし。サブは、「天には、時間に加えて距離もないってことなんじゃねえですか。受付を済ましちまえば、生きてた時の制約からも解放される」と、知ったような口をきく。
思ったことが、 天の歯車に合致しさえすれば、という条件付きのようではあるが その場で現実となる。それが、天というところの当たり前。サブは、そういうことを言いたいらしい。まあ、その読みはまんざら外れてはいないのかもしれない。
それにしても、突如現れた男の姿には驚かされた。どういう悪ふざけかは知らないが、侍の格好をしているのである。何を考えてのことか、後頭部の辺りには、どうにか残された鬢で結った小さな髷まで載せている。ふたりとも、本物のチョンマゲを見るのははじめてだった。初対面なだけに、笑うわけにもいかない。
その男が、おもむろに口を開いた。
「わしは、あんたらふたりを担当する移民管理官の恩恵賜じゃ」と登場したチビ・デブ・ハゲの三拍子そろい踏みオヤジが、「まずは、長いこと待たせてしまったことをお詫びする」
と、着物姿で机の向こうにふんぞり返って宣うた。まさか合戦の最中というわけでもあるまいに、派手な色合いの陣羽織に乗馬仕立ての袴を着けてという出で立ちである。そのくせ、意味不明のカタカナ言葉をちりばめて、いいようにこちらの目を眩ませようとする。
「現在推進中のデジタル化が為されれば、こんな苦労も懐かしい昔話となるはずじゃ」
これには、さすがのモンドも意味が掴めず、口を開けるばかりで返すことばを失った。サブはといえば、やっとのことで驚きモードのスイッチが入ったか、「げっ、これまでの苦労が水の泡ってことかよ」と頓珍漢な叫び声でモンドを更にたじろがせ、目を白黒させながら「酒樽だか味噌樽だかは知らねえが、そんなもんでこちとらの苦労を帳消しにしようったって、そうは問屋が卸さねえってんだ」と、勢いだけで食って掛かる。しかし、ふたりは脛に傷のある身。ややこしいことになってはいけないと、モンドが「見たところ、それなりの立場の方ようです。ここはそう息巻かずに」と、宥めにかかる。取り敢えず、勧められるままに、ふたりは並んで椅子に腰を下ろした。それでもサブは気が収まらない。肘でモンドの脇腹を突き、「こういう男は、今でも褌を締めているに違えねえんだ」と、耳元に囁き返した。これにはモンドも、思わず吹き出さずにはいられない。
「プッ」
「おいら苦手だなあ、こういう手合は」
よほど気味悪く見えたのだろう、椅子に腰掛けたまま後ずさりしはじめた。その動きを、侍の眼が追う。手が、刀の鞘に掛けられた。
「ま、まずい」
モンドが割って入るように首を伸ばし、管理官の関心を変えようと、話しかけた。
「ところで、つかぬ事を窺いますが、お歳は」
そこまでモンドが言いかけたところで、この管理官、突然ガックリと首を折ったまま動かなくなった。
「どうしちゃたんでやんすかね。まさか、死んじまったってわけじゃ・・・」
とっくの昔に死んでいる、とは思っても口に出せない。モンドにも、何が起きたのか、皆目見当がつかなかった。それでも、「ただ歳を訊ねただけです。ショックを受けるようなことではないと思いますが」と言ったところで、ひとつのことに思い当たった。モンドとサブに身寄りはない。だが、この管理官はどうだろう。
「自分が死んだ年のことを聞かれたとでも、勘違いしたのでしょうか。それで、残してきた家族のことを思い出したとか」
覗き込むモンドの目の前で、突然、管理官が顔を上げ、話しはじめた。声が、湿っぽい。
「わしも、もう少し長生きがしたかった。遅い結婚じゃったから妻も若かったし、娘もまだ小さかった」
すっかり沈み込んでしまった管理官。図星に狼狽えながらも、モンドが問う。
「で、何でまた・・・」
「鳥羽伏見で、新政府軍の迎え撃ちに合うてのう。我々は散り散りになりながらも、陣形を整えんと奔走したのだが、大砲の一撃で一巻の終わりじゃった」と、旧幕府軍の悲しい過去に顔を歪めた。そうかと思えば、突然笑みを浮かべて「そんな昔のことじゃから、妻も娘も今ではこっちに来て、皆で仲良くやっておる」と語るのだった。急に悪戯小僧のようにはしゃぎだし、ニッとばかりに白い歯を輝かせた。さすがのサブも、これには呆れた。
「なんだ、そりゃあ」
ぽっこり突き出た腹を器用に角帯の上に載せ、閉じた扇子を手元で玩ぶその姿は、正に田舎の好々爺といった風情である。モンドも、驚くのを超えて呆れるしかなかった。
「鳥羽伏見の戦とあれば、慶応四年。いくら奥方が長生きだったとしても、今日まで元気でいるのは無理というもの。ということは、管理官は今お幾つで」とのモンドの声も耳に入らなかったか、管理官は役人の顔を忘れて、ニヤついた笑みを輝かせるのだった。
「そんなことよりさあ、早いとこ、天国の門を開いちゃくれねえかなあ」
サブの独り言。管理官は、何故か、こういう声だけは聞き逃さない。手元の書類から視線を外し、おもむろに語りはじめた。
「さて、おふたりについては、天国というわけにもいかんなあ」
何が言いたいのか、すぐには理解できなかった。ただ、その先の沈黙が、ふたりの足元の影を濃くしたことは明らかだった。
「天国じゃないということは・・・」
「地獄ってことでやんすかねえ」
こんな時にもかかわらず、ふたりの息がぴったり合った。自分で言っていながら、その落ち着き払った声が、その内容の恐ろしさを一層際立たせるようにも聞こえて、サブはひとつ大きく身震いをした。バサバサと、騒がしい音が部屋の空気を凍らせる。それでも、「そいつぁ、面白えや」と、精一杯に粋がってみせないではいられない。それが、この男の本当の弱さだった。
おまけに、「やいやい、なんの権利があって、そんなことを勝手に決めやがる」と、啖呵まで切る。
「勝手に、って・・・。わしが決めたわけじゃないぞ」
「じゃあ、いったい誰が決めたってんだよ」と、止まらない。
「それは、あんた方が自分で決めたことじゃろう」
「俺っちが、決めたって? そんなこたあ、身に覚えはねえ」と、うっかりモンドも荒れたことばを吐いていた。
「忘れてしまったということですか」
それで引くようなモンドではない。
「そんな大事なことを、忘れる奴がいるかってんだ。バカにするのもいい加減にしやがれ」と、増々勢い付く。しかし、いくら騒いだところで、動じるような管理官ではなかった。
「それでは、あの時に手加減をしなかったのは、どうしてです」
「あの時ぃ?」
ほら見たことかと、管理官が蔑むような目を向ける。それでもモンドには、救いの手と言われても、どの手を指してのことだか見当がつかなかった。
傍らで、サブがはっと息を呑んだ。
「姐さん・・・」と呟いたかと思えば、「その後、どれだけの苦労がおありだったことでやんしょう」と項垂れた。
これにはモンドも勢いを殺がれた。サブの気持ちを察すれば、ことばも出ない。世話になりっぱなしだったにもかかわらず、裏切った上に知らぬ存ぜぬを決め込んで姿をくらました。あの時のサブの気持ちは如何許りのものであっただろうか。悔やんでも悔やみきれなかったに違いない。
「それだけならまだしも、御上りさんの娘が、東尋坊から身を投げたじゃろう。知らないとは、言わせませんぞ」
「東尋坊・・・」
たしかに、あそこでやめていれば、無垢な娘を追い詰めるようなことにはならなかった。サブも顔を上げられなくなっていた。それを見たモンドが言う。
「あれは、わたくしひとりがやったことなのです。これ以上、サブまで責めるようなことを言うのは、やめてもらえないでしょうか」
「アニキ」
「しかし、サブさんにも責任がないわけじゃなかろう。あの女性をモンドさんに引き合わせたのは、サブさん、あなたでしたよね。それに、このまま放っておいたら命を捨てかねないと気が付いたのも、サブさん、あなたの方が早かった。それなのに」
「し、しかし、そこまで追い込んだのはわたくしの方で・・・」
「そうじゃった。モンドさんはあのときのことをよく覚えておいでのようですな。そう、モンドさん、あなたの言うとおり、同罪どころの話じゃない。さあ、おふたりさん」
そこまで語った管理官が、袂を合わせ直すようにして、畏まる。眼が、ふたりを交互にとらえて離さなかった。
「命に、老若男女の別はありません。どれも同じ、等しく尊いものなのです」
言い切ることばに揺るぎがない。
「それなのに、おふたりさん。あなた方は、それをどうされた」
立ち上がった管理官の手が、腰の二本差しに伸びる。すかさず鯉口が切られた。ここで切り捨てられるのか、モンドがサブの後ろに隠れようと腰を浮かせば、サブとしても自分が前面に立つ度胸はなかった。くるっと回って、モンドを差し出すように後ろから押す。こうなっては、これ以上に見苦しい姿を晒すわけにはいかなかった。モンドは、覚悟を決めて懺悔した。
「仰せのとおりでございます。まるで虫けらのように弄ぶだけでは飽き足らず、その先どうなってしまうかも知っていながら、我関せずを決め込みました」
背後で「そのとおり」と追随するサブ。それを見た管理官が、したり顔で頷いた。
「ですから、こうしてわしはあなた方おふたりに申し上げておるわけです。よいかな、計り知れない価値のある命、それを軽んじてよいなどという道理は、どこにもないんじゃよ。だから、あなた方を、天国に昇らせるわけにはいかんとね」
「それで、ふたりで地獄に堕ちろと」
モンドもサブも、それ以上口にする言葉を持っていなかった。
「そうです。この用紙にわしが署名捺印すれば決まることです」
「そこを何とか、ねえ、何とかなりませんでしょうか」
「そう言われてもねえ、わしの一存でどうにかなるというレベルのことではないんじゃよ」
「ったって、おいら、暗いところは苦手だ。ましてや、熱いのや痛いのなんて耐えられねえでやんすよ。助けると思ってさあ、ねえ旦那、お願えしやすよ。だって、おいら、どうすりゃこんなことにならずにすんだのか、わからなかったんだ」
「知らぬ存ぜぬで赦されるなら、警察はいりません」
このひとことには、さすがのサブも言い返さないではいられなかったのだろう。いきなり「じゃあ、何かい。一度でも悪さをしたら、人はみんな地獄行きってことなんですかい」と居直った。やはりそうきたかと溜息を吐く管理官。そんなことは想定内、ということか。
「そういうわけじゃないさ。もしもそうなら、天国に入れる人などいないかもしれん」
「ほれ見ろ、そうだろう」と、サブが得意顔を輝かせる。
目を閉じ、ことばに詰まった管理官だったが、「そうだ」と何を思い出したか、うなずきながら話し続けた。
「遠くの細い道をせっせと歩む人たちを、ご覧になりましたかな、モンドさん、サブさん」
「ええ、勿論。列も短くて、みんなどんどん先に進んでいきましたから、わたくしたちもそっちに並び直そうと思ったのですがね」
「融通のきかねえ木端役人に押し戻されたんだ」
「はっははははは、そうでしたか」
突然の破顔に、「何がおかしいのでしょうねえ。この男、頭がおかしいのではないですか」とモンドがサブに耳打ちしても、管理官は意に介さない。
「あの人たちは、今頃天国にいるでしょう」と、にこやかな笑みを天に向ける。
「ってことは、みんな、おいら達と違って、いい人ってことですかい」
「そう。たしかにそういう人もいるでしょう、ひとりやふたりは」
「ひとりやふたり・・・、それって、どういうことなんでえ」
サブだけではない、これにはモンドも納得がいかなかった。
「だったら、わたくしたちふたりくらい、混ぜてくれてもよさそうなものではないですか」と、不満の色を顔に浮かべる。
「ところが、そうもいかんのじゃ」
「そりゃ、いってえどういうわけだ」
サブが、ますます勢い付く。
「つまりじゃ・・・」と、管理官が解説しはじめた。
「完璧にいい人なんて、おらんのじゃないかな。言ってみれば、多かれ少なかれ人は嘘をつくし、悪事も働く。それが人間というものじゃろう。いいかな、あの道を歩いていた者の中には、盗人もいれば、あんたらのような詐欺師もいる。それどころか、結果的に人が命を落とすことになってしまったというあなた方と違って、自分の手で人様の命を奪った者さえいるのですよ」
これには、「それじゃ、おいら達よりよっぽどひどい、人殺しってことじゃねえですか」と、サブも驚愕の声を上げる。
「まさかおふたりさん、あんたら地獄は死んでから行くところだと思っているわけじゃなかろうな」
「えっ、違うんでやんすか」と、サブが豆鉄砲を喰らった鳩のように目を丸くした。
「そりゃ、そうではあるがそうでもない」
管理官が更なる謎を掛けては、小さく首を振りながら説教しはじめた。
「たとえば詐欺」
ふたり同時に、「うっ」と喉を詰まらせた。
「被害を被った方の苦しみは、それは生半可なものではなかったでしょう。しかし、どうじゃろう。仕掛けた方の苦しみは。本当の地獄とは、もしかしたら、こちらの方にこそあったのではないでしょうか」
思わぬ方向に進展しはじめた話について行けず、サブがまたここでも目を白黒させている。モンドだけが、神妙に聞き入った。
「一度知ってしまった旨みは忘れられない。となれば、夜な夜な更なる獲物を求めて匂いを嗅ぎまわるようになるのは、自然なこと。それでも、人間とは正直なものじゃ。闇の深みにはまりながらも、いつかは人並みに日が当たる暮らしをしたいと思う。そして、人間とはまた、弱いものじゃ。どんなに強気を張ったところで、罠にかけた相手のことが頭から離れない。気が咎め、良心の呵責に苛まれ、もがき苦しむことになる。それどころか、仲間と思っていた人間にまで裏切られ、今度はこっちが被害者だ。もう、やってはいられない。それなのに、世の中はそんなに甘くない。やめようと思っても、今度は世間がそれを許してはくれない。生きているうちから、身を焦がしたり血の海を泳がされたりと、地獄を経験する。それが、生きるということじゃないのかな」
「たしかに」と、ますます神妙になるモンド。「ただ違うのは、その後の、人としての道の歩み方なのじゃ」
「その後の人生ってか」
「そういうことじゃ。もうお気づきとは思うが、あなた方はどうされた。懲りてやめるどころか、武器弾薬だ麻薬だと、ますます手を拡げて行ったのではありませんか。お察しのとおり、これは何も詐欺師に限ってのことではありません」
サブにも呑み込めてきたようである。ところが、「そうか」とは言うものの、そこまでが精一杯。
「ところで、何がおいらたちと違うっていうんでやんしょうか」
管理官の視線は、そんなサブにさえ暖かく注がれた。
「あなたは、そのことをしっかり自分のこととして受け止めたじゃろうか。どうです、サブさん」と、問う管理官。しかし、サブは「そのことって、どのことだ」と反芻するばかりで、何も答えられない。
「そして、モンドさん。あなたは」
モンドは、奥歯を噛み締め、頭の中で管理官のことばを繰り返し自分自身にぶつけていた。そして、「ただただ忘れることに専念して、目をつぶり続けておりました」と、どうにか喉の奥に詰まったことばを絞り出した。
「あの狭い道を行く人たちは、自らの過ちを心底悔いた。相手に詫び、もう二度としないと心に誓った。そして、いかなる苦労があろうとも耐え、その後の人生を新たな覚悟で歩み切ったのです。それは、自分自身との闘いでもあった。そこには、幾度とない挫折があったことでしょう。それでも、その都度心を入れ替えて、立ち上がった」
「そこが、わたくしとは違うと・・・」
「そうであれば、救ってやろうという気にもなるじゃろう」
ここに至っても尚、サブは「そんで、天国行きの切符を手にしたってわけか。うまいことやりやがったな」と、指を鳴らして悔しがる。これには、管理官も失笑を禁じ得なかった。
「あなた方にも、そのチャンスはあったはずです。せっかくじゃから、ここで、あの時この時のことを振り返ってみては如何です。あそこで、思い留まることはできなかったじゃろうか。よしんば、それができなかったにせよ、ここで自分がしてきたことを心底悔い改めてみようと、思うことくらいはできたのではないですかな。そして、その後は人助け、とはいかないまでも、相手を敬い、命を尊び、日々の喜びを人々と分かち合う。せめて、そのくらいの努力は・・・、してほしかった」
「たしかに・・・」
「しかし、あなた方はそのチャンスを棒に振った。ただただ忘れることだけに励んで、それまでと同じように広くて楽な道の方を選んでしまった。どうです、おふたりの眼にも、足元から伸びるもう一本の細い道が見えていたのではないですか。それなのに、見えない振りをして・・・、そればかりか、目をつぶった」
「そういやあ、そんなものがあったような。だけど、その先に続く細くて嶮しい坂の上り下りが、オイラにゃ耐え難いもののように厳しく見えて・・・」
「勇気を奮って立ち向かうことが、できなかったというのじゃな」
人生の分かれ道。誰にでもあるやり直しの機会。そこでの選択が、今の自分を決定づけいていた。せめてもう一度、そのチャンスを得られれば・・・。
取り返しのつかない現実を前に、ふたりは頭を抱え込んだ。
ブー、ブー、ブー
突然の警報音に加えて、目の前の壁で赤いランプが点滅しはじめた。
「おっと、申し訳ない。緊急の呼び出しのようじゃ。そう時間はかからんはずだ、悪いが、待っていてくださらんか」と言い残して、侍男は席を立った。
「デジタルだか何だか知りませんが、もう少し手っ取り早くしちゃもらえませんかねえ」
管理官が戻ってきたのは、それから十分ほど後のことだった。
「すまんすまん」と言いながら、席に着く。
「何かあったんでやんすか」
今となっては、サブも待たされた苛立ちを顕にすることはなかった。
「そうなんじゃ。あなた方のことでな」
ふたりの顔に、緊張の色が広がった。それはそうだ、何しろこのままでは地獄行きかという瀬戸際での呼び出しだ。
管理官が言う。
「一度は結論に達していたはずなんじゃが、よっぽど上も迷っているとみえる。ここでの様子を垣間見て、再検討したと言っておった。我々も、もとはと言えば人の子じゃ。情にほだされることもある」
どういう仕組みでここが成り立っているのか、ふたりには皆目見当もつかなかった。よもや、この部屋の様子が筒抜けになっているとは。思わず見回してみるが、声が漏れそうな節穴ひとつ見当たらない。怪しいのは、意味もなく壁にはめ込まれた鏡くらいのものか。
それにしても、有無を言わせず管理官を走らせたあの緑のランプ、ただ事ではないに違いない。
「お役所勤めってのは、地上も天も関係なく、大変なものなんでござんすね」
「まあ、お察しのとおりじゃ。わしも、いい年をして苦労が絶えん」
「今でも下働きってことは、地上でのドジが、死んだ後にも影響するってことなんでやんすか」と、話が横道にそれればそれるだけ、サブは絶好調となる。ためらいもなく、軽口を叩く。
「管理官も、うかうかしちゃいられねえってわけだ」
「そうなんじゃ、実はな・・・、なっ、何を言わせるんじゃ。わしは、あんた方と違って人に後ろ指をさされるようなことはしておらん」
慌てたところで、後の祭り。
「それじゃあ何でまた、いい歳をして平なんでやんす」と、突っ込まれるのが落ちだった。
サブが相手では勝ち目がないと踏んだか、管理官はモンドに顔を向けて話を元に戻した。
「一度正式に天に上ってしまうと、一般的にはまず地上に戻るということが出来なくなるんじゃが、まだあなた方は正式に手続きを終えていない」
それを聞いていたサブが、「たしかに管理官の印がまだ押されていない。ってことは、また地上に戻れるかもしれないということで」と、横から口を挟む。それを無視して、管理官はモンドの目を覗き込み、「そこで、ものは相談じゃ。この中途半端な立場を活かして、ひと働きしてはもらえんじゃろうか」と、今し方呼び出された理由を「実は」と話しはじめた。
「ここまでの様子を見てもお分かりのように、地獄へ堕ちたところで、針の山や血の池も死人で溢れかえっておってな。いつになったら自分の番が巡ってくるのかもわからない、といった有様なんじゃ」
嘘か真か、冗談とは思えない話をする。
「オイラたち、人気の温泉宿に湯に浸かりに来たわけじゃないんだ。べつに何を待ちわびてるってわけでもねえんで、心配御無用。キャンセルいたしやす」
前に突き出した手の平を広げ、後退りしはじめたサブ。呆れつつも、管理官は話し続けた。それによると、この国では、自分たちの時代よりも幸いにして男も女も寿命が延び、死産の割合も低下の一途を辿っているという。それなのに、どういうわけか死者の数が一向に減らない。調べてみると、死なずともよい命が失われているということがわかった。
「そこで、相談なんじゃが・・・」
考えられたのが、死なせてはいけない命で、どうにか間に合いそうなものだけにでも手を差し伸べて、これ以上の天への移民増加に歯止めをかけようということだった。それも、できれば人知れずこっそりと。そこで、モンドとサブに手伝ってはもらえないだろうかというのが、内容の骨子である。
しかし、それはそう簡単なことではない。ことの経緯を瞬時に把握して、死につながりかねない幾つもの状況と、そこに至った対象者の気持ちをその場で変えさせなければならないからである。それも、当事者であろうとなかろうと、そこにこれっぽっちの不自然さを感じさせてはならないというのだから、どう考えても容易なことではない。つまり、死の一歩手前の状況に手を加えて、さもそれが当然といった具合にその後も生き続けさせる〝技〟が必要となるということなのだ。こうなると、ひとりでできることではない。機転が利き、どんな状況にも息の合った連係プレーで対応することのできるチームが必要となる。そんな検討が行われるようになってから、既に五十年が経過しているという。モンドとサブのふたりがこの世を捨ててから早や百年。だらだらと死人の列に加わって不毛の時を過ごしている間に、そんなことが為されていたとは知らなかった。はたして、何を考え何が為されてきたことやら。
これが、モンドとサブ、伝説の詐欺師ふたりに白羽の矢が立てられた理由というわけだ。もしもうまくいけば、今後、この取り組みが天の救命システムに組み入れられるという。
「うまいこと人助けができれば、天国行きの切符が与えられることになるかもしれんぞ」と、思わせぶりのことまで言う。
サブが、「それで、おいらたちに何をさせたいっての?」と、飛びついた。
ここは、管理官も無視をしない。ふたりの顔を交互に見て言った。
「他言無用で、聞いてもらいたい」との前置きに続けて、本題に入る。
「おふたりには、救急救命チームを組んでもらおうと思っておる。どんなもんじゃろう。人の気付かぬ間に騙し事をやってのけるということに於いては、なかなかのテクニックをお持ちのようだし、チームプレーには欠かせない阿吽の呼吸は言うに及ばず、互いの結束も固いと聞いておるぞ」
意味ありげに笑みを唇の端に浮かべては、持ち上げたりくすぐったりの甘い言葉を投げかけてくる。こう出られると、モンドもサブも、コロッとやられる。地上でさんざん邪魔者扱いをされてきたふたりにとって、頼りにされるということほど、何にも増して嬉しいことはなかった。それをこの管理官が知らないわけがない。気が付けば、ふたりは敢え無くその術中に嵌っていた。
「サブ。政府公認の救急救命チームだそうですよ、どうしたものでしょう」
「いいんじゃねえっすか、どうせ暇なんだし」
相槌を打つようにサブが答えれば、モンドがまた「それもそうですね。それに、地獄行きを急ぐ必要もない」と煽りかけ、「ここらで、一発かましてやりますか」と勢い付かせる。モンドも、「久しぶりに、腕が鳴ろうってもんじゃないですか」と、既にやる気満々だった。
「国家公務員ともなれば、街の女も振り向くようなカッコイイ制服を身に着けて、毎日危険手当が上乗せされる高給取りときたもんだ。一度そんなヒーローになりたいと思ってたところなんでやんすよ」と、サブがいきなり全開で勝手な妄想を口にしはじめる。そこは管理官も慣れたもの。すかさず「そんなもの要らんじゃろう」と現実に引き戻す。
「どうせあなたがたは、普通の人間には見えんのじゃからのう。それに、何が危険手当じゃ、給料なんかあるはずもない。フルタイムのボランティアってやつさ」と、水まで差す。これにはサブも納得がいかなかった。
「ええーっ、冗談でやんしょう。チームっていうからにゃ、地下の秘密基地に専用のクルマか高性能バイクが・・・、とはいかないまでも武器や無線機くらいはあるのが普通だろう。それに、接待費だって必要になる」
サブがこんなことを言うだろうくらいのことは、事前に検討済みのようだった。管理官は少しも慌てず、顔の前に立てた右手の人差し指を「チッチッチ」と三度ほど左右に振って諭しはじめる。
「まあ、落ち着きなされ。だいたいが、武器など使って何をするつもりかな。敵と闘ってもらおうなどとは、これっぽっちも考えていないんじゃがのう。それに、行きたいところへは思いのままに飛んでいける。死者の特権というヤツじゃ。それ故、乗り物なんかも必要ない。おふたりには申し訳ないが、変な期待は持たないでほしい」
モンドは「そういうものかもしれませんね」と、既に気持ちを切り替えていた。しかし、サブの方は収まらない。
「ってことは、遊び心のひとつもないってことじゃねえか、面白くもねえ」
そんなことばも、管理官は聞き流さない。その上、「幸いにして、空腹や疲労などという辛さもない・・・。いつでも絶好調で働くことができるんじゃ。なんと素晴らしいことではないか」と、希望を与えることも忘れなかった。しかし、サブは簡単には騙されない。
「何すか、そりゃ。まさか、博打も女もねえって、無い無い尽くしってこっちゃないっすよねえ」と、探るような目を管理官に向ける。
「さすがに、いい読みですなあ。まさにそのとおり。みんなが、ただ穏やかに暮らしてくれてりゃそれでいい。それが天というもんじゃ。だから、死ぬほどの興奮や歓喜もなければ、死にたくなるような落胆や悲哀もない」
「おやつが無い代わりに、歯を磨く必要もないってことでやんすか」
「うまいことを言う」と管理官も破顔一笑。話は止め処もなく飛躍した。
「まあ、そんなことはこっちに置いといて、話を先に進めさせてくだされ」と言いながら、募るイライラを顔にも出さずに自分の仕事に取りかかる。この男はやはり侍だった。
棚から一冊のバインダーを取り出し、机の上を滑らせるように差し出す。
不満顔のサブをなだめつつ、モンドが膝を乗り出した。
「そいつが、わたくしたちの初仕事ってわけですね」と手に取った。背に『あなた探し』と書かれた短冊が貼られている。
表紙を捲ろうとするモンド。しかし、管理官は「まずこちらから見てもらおう」と、机の上に置かれた四角い箱のようなもののツマミをひねる。
「これがテレビ、というかモニターじゃ」と、得意顔。今まさに現代版活動写真が映し出されている。それも、総天然色で。モンドは、その画面に目を瞠り、現実世界が最早自分の時代ではないということを実感する。
「これは凄い」
思わず手を伸ばし、「触れるかと思いやした」とサブも舌を巻く。
「そうじゃろう」
得意顔を浮かべる管理官。それなのに、その表情は何故か晴れない。
「見てみたまえ、このふたりを。女の名は水沢百合、そして男が石黒賢吾で、水沢の元上司という関係じゃ。自信に満ちた男と前途有望な若い娘とくれば、理想のカップルのようじゃが、世の中そう単純ではない。つまらぬ思い違いで、今まさに女は命を捨てようとしておる。このままでは、時間の問題じゃろうなあ」
喫茶店の片隅で何やらややこしい話をしはじめている男女。下心が見え見えの男。思い詰めたような暗い顔の女。サブでさえ、その表情に不安を覚えずにはいられない。
「こうなっちゃ、お手上げだ。もう間に合わないんじゃねえですかい」
サブも、自分たちに出来ることと出来ないことの区別くらいはついた。
「甘い。キミは私を誰だと思っているのかね。経験豊富な移民管理官じゃよ、それも天の中央政府に籍を置く。そう見くびらんでもらいたいものじゃ。我々に不可能はない・・・と言ってみたい。できれば、一度だけでも」
自信満々が、俄に怪しくなってきた。それでも、「信じられんだろうが、我々はある程度時間をコントロールすることができるんじゃ」と指を画面の下の=マークのボタンに添えてそっと押し、動きを止める。
「それで、キミたちふたりをこの現実の少しばかり過去、そうじゃな半年ほど前の地上に戻して、この娘が不幸に至らないようリードしてもらおうと考えているわけじゃ」と、思うがままに言い切った。
モンドが、驚き顔を管理官に向ける。そして、一瞬の間に、揉み手をしながらの訊ね顔に変えた。
「なんだ、そんなことができるのなら、わたくしたちを曲がった道に外れる前にまで戻しちゃくれませんかねえ。そうしたら、世の中に迷惑をかけることも、そのために死ぬこともなかったんですからさあ」
「あのねえ、もう死んでしまった者を相手にしようとは思っていないの」
「何と冷たいことを」
「さっきも言ったように、ここは中央政府の移民局なの。だいたい、あんたら大正の人間じゃろう。お役所がそんな昔のことまで記録を残していると思っとるのかね。無理ムリ、そんなものとうの昔に、何処かの倉庫で塵に埋もれて発掘不可能状態になっておるってもんさ」と江戸時代の男に言われても、ピンとこない。
「あんた、地上で何を見てきたんだね。役人なんてものは、所詮その日をどう旨く遣り繰りするかってことくらいにしか関心がないんじゃ」
地上も天もなかった。これでは、天に入るのにさえ嫌というほど時間がかかるのも、宜なるかなと思われる。
「とはいえじゃ。お役所仕事も日進月歩で、様変わりしておる。ほんの少しとはいえ、未来を覗き、過去に潜り込むことが出来るこの移民局のタイムコントロール技術などは、何処にでもあるというものではないぞ。それに加えて、その時々の心の動きまでをも取り込んだ資料管理システムを整備しておる。これなど、馬鹿にしたものではないと思うのじゃが、如何かな」
何とも理屈の通ったような通らないような、ふたりには理解の及ばぬことを言う。そんなことの前に、やることは幾らでもあるだろうに。モンドは、どうにも納得がいかなかった。
「そういうものなんですかねえ」と、つい不満顔になる。ところが管理官はどうかといえば、「そんなもんです」と、自信満々なのだった。
そして何を思ったか、「それでじゃ」と、改まった。
「つい先ほど、わしも参加した緊急会議で、その先端技術を活用したこの救急救命チーム地上派遣プロジェクトをスタートさせることが決定したんじゃ」
管理官は得意顔を輝かせるが、モンドとサブにとっては、喫驚仰天。
「ええっ、まだ決まってなかったの?。それじゃ、できたてのほやほや。ってことは、実績も何も無いってことじゃねえか」
「さすが、サブ。なかなか、鋭いではありませんか。そんな危なっかしい話に、うかうか乗ってよいものかどうか」
怯むふたりのやり取りにも、管理官は物怖じしなかった。
「男だったら、ここでひと花咲かせてみようと思ってもらいたいもんじゃ、はっはっは」
「はっはっはって、笑ってる場合じゃねえと思うんだけどなあ」
「まあ、そうカリカリしなさんな。総てはこれからなんじゃから。どうだ、いいじゃろう、栄えある第一回目の取り組みに名を残せる。長い人生でも、こんなチャンスそうあることじゃないぞ、なあ」
「なあって言われてもなあ。もう人生は終わっちまったんだし」
同意を求められて、目を白黒させているサブだった。
「それに、おいら昭和の時代は、苦手というかどうも好きになれねえ」と、新たな時代の進もうとする方向や求めるところを知ろうともせずに、ただ混ぜっ返す。しかし、そんなことで引っ込む管理官ではなかった。
「安心しなされ。とうの昔に昭和は終わり、今は平成に続く、令和の時代じゃ」と、言い返してくる。ここでも、「はっはっは」と高笑いは止まらなかった。
「もしも、これがうまくいけば、将来は多額の予算を取り付けて、移民局の中心的事業のひとつに育て上げようという狙いもある。そのうちにチームも増やして、組織的な活動をしたいと考えておるんじゃ。そうなれば、当然、おふたりにもそれなりの役職についてもらって、ふっふっふ、わかるじゃろう」
改めて見るまでもなく、管理官の視線が机の下に向けられている。すかさずサブが覗き込み、モンドの耳元に囁いた。
「机の下に腕を伸ばして、手を広げていますぜ」
モンドは、あの時代に何度もそんな場面に遭遇したことがある。一気に血が頭に上った。
「袖の下を握らせろってかぁ、ふざけるねえ」
このひとことで、縮み上がる管理官。所詮は木端役人、賄賂を要求するとは情けない。
「中央政府が聞いて呆れる。人前では神妙な顔で公僕だとか宣いやがる役人や政治家にかぎって、己のことしか考えちゃいねえ。そんな輩の不正ほど、庶民を落胆させ、国そのものを貶めるものはないんだ。まったく、ガッカリもいいところじゃねえか」と拳を固めて立ち上がれば、恩恵賜に出る幕はない。
「いやいやいや、何を勘違いしたかは知らないが」と、逃げを決め込む。そのくせ、モンドの吊り上った目とサブの呆れ顔を前にしては、最早これまでと腹を括ったか、「つい昔の悪い癖が出てしまった、ご勘弁を」と、平謝りもどこか言い訳がましい。さて、どうする。しかし、ここには天国行きがかかっている、冷静にならねば。
「まてよ、そういえば天国行きの話はどうなった」
いいように丸め込もうとするこの管理官も詐欺師か。嫌なことに気付いてしまったモンドだったが、ここで地獄行きが確定するよりはましかと、思い直すことにした。
「それで、どうしようっていうんです?」
モンドが前屈みで詰めよれば、管理官も、「というわけでな、我々は今手元にある案件をどう片付けるかで頭を悩ませておるんじゃ。何しろ、上を説得するのに、成功事例に勝るものはないからな。期待しておるぞ。それにあんたらだってそうじゃろう。地上で身につけた技を役立てたいと思っておるんじゃないのかな」と、煽りにかかる。
机に戻されたバインダーを手に取って、管理官は団扇代わりに風を送った。人を騙すような話に加えて、何とも見下したようなその態度が、モンドは気に食わなかった。それで、「おことばですが、わたくしは、けっして技だけに頼って仕事をしてきたわけではございません。そもそも一流の・・・、って、ここで詐欺師道を語ったところでどうなるものでもございませんが、目先の派手さだけが売りというわけではないのです。それに、この時代の真っ当な人様に自慢できるようなものなど、はたしてありますかどうか。なあ、サブ」と、混ぜっ返した。それにも、「とは言いながら、腕が鳴って仕方ないというのが本音じゃないのかな。ここらで、詐欺師の本領を見せつけてやろうじゃないですか、ねえサブさん」と、管理官は手を緩めることをしない。しかし、サブも負けてはいなかった。悪びれもせずに、「見せつけるって、まったく何を言っているのやら。見られただけでも恥ずかしいってものなら、こちとら持ち合わせちゃいやすがね」と、股間に手を当て言い放つ。
年寄りの戯言は尽きるところを知らない。
納得できるかどうかは別として、結論に至らない堂々巡りほどやっかいなものはない。
「まあまあ、そう息巻きなさんな。誰にだって、世のため人のためになるようなもののひとつやふたつくらいはあるものです。それを役に立てては貰えないじゃろうかと申しておるのです。言ってみれば、己を修めて以て人を安んず、ってやつですよ。まあ、お返しですな、人様への」と、難解なことばを並べて煙に巻こうとする管理官。しかし、そんなことで、思いどおりになるふたりではなかった。久しぶりの退屈しのぎに、口は良く回った。
「そんなもんですかねえ。それにしてもでやんすよ、移民局ってぇくらいなんだから、こんなひとりやふたりの死を防いでチマチマ実績を積み上げようとなんかしてないで、もっと多くの人の死を食い止める、そういうことを考えた方がいいんじゃねえですかい」
「そう。たとえば、その後犠牲になるだろう多くの命を守るために、独裁者やテロリスト集団のボスといった連中を早いうちに始末してしまうとか」
「ああ、聖戦だジハードだと、流行りの病にでも罹ったかのように殺戮を繰り返しておる連中のことですな。本当に、困ったもんじゃ。どんな事情があるにせよ、それをテロという行為に結び付ける考え方には賛成しかねるのう。よもや、個人的な恨みを晴らすために神の名を語っちゃいないだろうか。今一度自分自身に問うてみる必要があると、わしはそう思うんじゃ」
たしかに、目を見張るような大きな出来事も、そのきっかけは個人的な小さな出来事だったりすることがある。そこに共感する人間が集まり、バラバラだった向かう先がひとつに揃えられる。気が付いた時には、誰も知らぬ相手が敵となっていた、そんなことも珍しいことではないのかもしれない。
「それにじゃ、理由の如何を問わず、人には人の命を奪う権利などない。それだけは、忘れてもらいたくない」
「でやんすよねえ」
どうにか、会話の歯車が噛み合ってきた。モンドは、何だかサブが昔に戻ったようで嬉しくなっていた。その上、管理官もサブをまともに扱ってくれている。まるで、ひと時のやり取りを楽しんでいるかのように。
「さて、ここはひとつ、テロもさることながら、大事故や災害、或いは戦争といった歴史を変えるような大きな出来事は外して考えてもらいたい。それは、わしらをも管理する天の上層部の仕事なんじゃ。それがこの天の決まりというやつじゃ、よいかな」
「でもさ、それがちゃんとなされているとは、おいらには思えないんだけどなあ」
不満顔をぶつけるサブ。このままでは、何が道理なのかさえ見失いそうになる。それでも、天に唾することは憚られると思ったか、ことばは穏やかさを取り戻していた。
「そう言いたくなるのも、もっともじゃ。たしかに、あなたが見てきたことの中には、どうしてこんなことが、と疑いたくなるようなことも幾つかあったじゃろう。しかし、そこにさえ、そうである意味がちゃんとある。なあサブさん、意味のないものなどひとつもないんじゃよ」
「うーん、そうかなあ。それにしちゃ、気に食わねえことがあまりに多すぎる」
「わしもひとりの人間として、まあこの状態を人間と言ってよいものかどうかは別として、サブさんの言うことはよくわかる。だがのう、人間とは足りないものだということも、忘れてはいかんぞ。見えているようで、何も見てはおらん。知っているようで、何も知っちゃおらんのじゃ。どう頑張ったところで、人間とは、完璧にはほど遠いものなんじゃよ。それに対して、天のトップや上層部はどうか。全宇宙的視野で物事を捉え、究極的目的意識で事を為す。それを、足りない知恵や知識しか持ちえない我々凡人が、どこまで理解できるじゃろうか」
「そりゃ、できねえってことなんでしょうけどさ」と、サブも素直に頷く。
「だから、世の中は納得のいかないことばかりだと思わされる。それが、ちっぽけな人間の限界なんじゃ。全てを理解し納得するなんて、はじめから無理、そう思った方がいい。あなた方も聞いたことがあるじゃろう。神のみぞ知る、ってな」
ふたりの会話に聞き入っていたモンドには、それでも納得しがたいことだった。それでつい、「どう頑張ったところで、所詮人間には無理。そう言われては、何だかバカにされているようで、頑張る気力も湧かなくなります」と呟いていた。管理官にも、その気持ちは理解できる。しかし、ここを理屈で納得させるのはそれこそ無理というものである。取り敢えず、「それでも信じて頑張るのが人間のいいところなんじゃから、精一杯力を発揮してみようじゃありませんか、なあ、モンドさん」と促した上で、「ということで、おふたりに与えられる任務は、人知れず失われようとしている小さな命を守るところまでじゃ。引き受けてもらえるんじゃろうな」と、話を締めくくった。
どうやら、これがうまくいっても地獄行きの切符が天国行きに書き換えられるということではなさそうだ。
それでも、このまま地獄に落ちるよりはましかと、考えた。面倒臭そうに顔を顰めていたサブも、久しぶりに「アニキとおいらはいつも一緒だ」と、行くことに同意した。
そうと決まれば、善は急げだ。早速、レクチャーがはじまった。
「いいかね、我々の活動目的は、誤った判断で捨てられようとしている尊い命を守ることじゃ。闇雲に人の命が奪われるのを防ぐということではない。そこのところを是非理解してもらいたい」と、ここでも管理官はくどい。
「あんたらにも身に覚えがあるじゃろう。あの死は本当にあれで良かったのだろうかって、思わされたことが」
モンドとサブは痛いところを衝かれて、ことばを失った。ふたりして静かに頷くばかりだった。
「そんな経験、しないで済むならしたくはなかった、そうじゃろう。しかしな、考えようによっては貴重なものじゃぞ。無駄にせず、どうか活かしてもらいたい」
「とはいうものの、あれはこっちから働きかけて命を失わせたようなもので・・・」
そんな経験しか持ち合わせていないのに、果して役に立つのだろうかと不安がるサブ。管理官の声が、優しくかけられる。
「であれば尚のこと、ふとそんな気を起こす瞬間を見極める力が、備わっておるじゃろう。どうせといっては身も蓋も無いが、多くは〝勘違いによる自殺〟のようなものなんじゃ。おふたりにお願いしたいのも、まさにそういった小さな衝動をどうにか思い留まらせるといったことなんじゃから、適任だと思うが、違うかな」
腕を組んで、考えるモンド。それに倣って、目を閉じ首を捻るサブ。それでも、そう簡単に答えは導き出せない。そんなことが、自分たちにできるのだろうか。
「それでじゃ」と、管理官が話しを継いだ。
「きっかけが小さいだけに、後になって気にかかるような痕跡がひとつでも残れば、大変なことになる。重ねて言うが、救いの対象となる人間はもとより、周りにいる如何なる人間にも、何かが行われたという実感が、これっぽっちとはいえ残らないようにしてほしい。つまり、何もなかったかのように、自然とそのまま生き続けさせるということが重要なんじゃ。よろしいかな、おふたりさん」
「それにしても、役人のする仕事ってのは地味なもんでやんすね」と、サブもまた、くどかった。
「まあ、公務員なんてものはそんなもんじゃろう」と、管理官も自虐に顔を歪める。
オチャラケはそこまで、早速「さてと、前置きはそれくらいにして、具体的な事例の内容把握に入るとしよう」と、モニターの画面の下に置かれた マークボタンを押して、映像を動かした。
「見てみたまえ、このうら若き女性の顔を。思い詰めた顔も、事情を知らなければ、男との関係を一歩進める覚悟を今まさに決めたばかり、そんな生娘の表情に見えんこともないじゃろう」
薄暗い室内に、目が慣れなかった。顔半分が、両手で包み込むようにして口元に運んだコーヒーカップで、隠されている。何故か、立ち昇る湯気の向こうから、意味ありげな視線を向かいの席に座る男の顔に注いでいた。
「とても、死を考えている女のようには見えんじゃろう。まるで、ひと時のアバンチュールに胸を焦がす娘のようじゃ。ところがどっこい、このままでは一時間もせぬ内に死んでしまう。なかなかのベッピンさんなのになあ、実にもったいないことだ。そうは思わんか。それも、つまらん思い込みがその理由だというのであれば、なおさらじゃ。そんなことで死んではダメだ、生きろ、生きなければいかんのじゃ。たとえ自分には生きている意味がわからなくなったとしてもじゃ、人は生きていられる間は、何が何でも生きなければいかんのじゃ。そのことをおふたりも忘れないでほしい。いいかな、おふたりがそれを信じて念じ続ければ、相手の人間は必ず生き続けることができる。なあ、このベッピンさんを生かしてやろうじゃないか」
語るほどに熱を帯びることば。管理官は、『生きろ』と何度も繰り返して叫び続けた。ところが、サブの関心は、そんなところにはないようだった。身を乗り出し、質問する。
「やっぱり、ベッピンさんだと得なんすかねえ、こういうときにも」
「あんたは、何が言いたいんじゃね」
「いえね、だってそうじゃないですかい。うら若きベッピンさんだから、まず最初に助けてやろうって、そういう魂胆なわけでやんしょう」
「また、そうやって人の話をねじ曲げる。ベッピンさんだ、とは言ったが、ベッピンさんだから、とは言っておらんぞ。だから詐欺師は嫌なんだ」
「あっ、人に物を頼んでおいて、そういう言い方はないんじゃねえかなあ」
後退しかねない成り行きに、たまりかねたモンドが口を開いた。
「まあ仕事とはいえ、ベッピンさんを相手にさせていただけるに越したことはないわけで、サブの言うことはお気になさらず、どうぞ続けてください」
つまらないことにも一度拘ると、サブは収拾がつかなくなる。管理官はモンドを相手に話を続けた。
「まあ、彼女のここに至るまでの経緯は資料に纏めてある。だから読んで頭に入れておいてもらいたい」
机の上を滑らせるようにして、管理官が先ほどのバインダーを差し出した。どうにも気になるのが、そこにはほんの数枚が綴じられているだけということだった。こんなもので、いったい何が分かるというのだろうか。時系列に纏められているようではあるが、年月日と場所の後に関係者の名前と、それぞれ半頁にも満たないメモが記されているだけなのだ。モンドは、遠慮なく疑問を管理官にぶつけた。
「このような走り書きを資料と言われても、これでは途方に暮れるよりほかありませんが」
ところが、管理官は少しも動じない。
「あんたらには、少々説明が必要だったかもしれんな。実はこの資料、各項目に目を留めるだけで、その場の状況が勝手に頭の中で展開するように出来ておるんじゃ。わかりやすいという点では天下一品、おまけに、その人間がその時に何を考え、どのように感じていたかということまでわかる優れモノじゃ。そうだ、百聞は一見にしかずと言うからな、何処か一カ所を読んでみたまえ、モンドさん」
管理官の言う意味を掴めずにいるモンドだったが、ものは試しとバインダーを開き、たまたま綴じ込まれていたファイルの真ん中辺りに記された資料の一行を声に出して読んでみた。
『二○××年十月一日。本社会議室。新車営業説明会』と言うなり、モンドは目を見開いて驚きの声を上げた。
「おお、これは凄い。何やら会議の真っ最中ですよ。あのベッピンさんが原稿も見ずにいきなり説明しはじめました。自信満々といった物腰と言葉遣い。なかなかの娘です。横のテーブルには、赤だの白だの、えらく格好のいい自動車の写真が何枚も並べられている」
「じゃろう。そんな具合になっておるので、地上に降りてからで構わんから、じっくりふたりで目を通しておいてくれ」と言ったところでこの管理官、「そうじゃった」と、拳にした右手で自分の頭を軽く小突いた。何やら重要なことを思い出したに違いない。
「まずこのことを話しておかなくてはいけなかった。いいかな、言っておくがおふたりは、地上において何ひとつ物理的な力を行使することができない。地上の人間ではないのだから、これは仕方がないことじゃ、わかるな。その代りと言っては何だが、特別な力というものが与えられる。忘れんようにしておいてくれよ」
サブの目がキラリと光り、「前置きはいいから早く言え」と、促す。
「それは、念ずる力じゃ」
「念力ってやつですかね」
「まあ、そんなものじゃ。そのひとつ目が、念ずれば結構いろいろな所へ瞬時に移動できる力ということで、行きたい所があれば、念じるだけでそれが叶う。そして、ふたつ目の力じゃが、これが凄い。移動は、場所だけではなく、多少であれば、時間を行ったり来たりすることができるのじゃ。さて、みっつ目は、念ずることで誰かに何かを気付かせたり、重要なことを思い出させたりすることができる力じゃ。即ち、念ずれば通ず、ってヤツじゃな」
その声は、まるで「どうじゃ、参ったか」とでも言いたげな自信で満ち溢れていた。
「ってことは、好き勝手に飛び回って、あれやこれやできるってことか」
そんなサブの心を読んだか、管理官は注意事項で釘を刺すことを忘れなかった。
「ただし、託された資料に関係する人間の周囲でだけ効力を発揮する、という条件付きじゃがな。とにかく、困ったらまず念ずることじゃ。よいな」
思い巡らせても、いついかなる時にその力に頼ればよいのか、そして、その結果としていったい何が起きるのか、モンドにはピンとこなかった。それでも、「まあ、やってみるしかないでしょう」と、一歩踏み出す覚悟を決めた。
「なあ、サブ。わたくしたちのして来たことを思えば、どうしたところで赦してもらえるはずもありますまい。しかし、せっかく与えてもらった機会です。心を入れ替えて、一緒にやり切ってみようじゃないですか。助けられるよりは助けることを、一度くらいはしておかないと、それこそ死んでも死に切れない。違いますか、サブ」
サブが、「まったくだ」と、小刻みに首を前後に振る。そんなふたりの様子を見ていた管理官が、声をかけてきた。
「期待しておりますぞ、モンドとサブのおふたりさん。きっと、この任務に携わってよかったと思ってもらえるはずじゃ。それでは、地上に向けて出発ということになるが、宜しいかな」
サブの眼が、にわかに輝きを増した。
「いよいよ復活、ってことでやんすね」
管理官も、こんな時には笑顔で返す。
「と、思うと大間違い。あなたたちの命はもうありません」
「だったら、もうひとつくださいな、っと」
お調子者のサブに調子を合わせるように、管理官が脂肪でパンパンに膨らんだ腹を突き出して、言い切った。
「そうは問屋が卸しません、っと。いいかね、命は、ひとりにひとつ。あんたなんかにあげられる命はもうありません」
はじめのうちは、ふたりのやり取りを笑って聞き流しているモンドだったが、「ということは、どういうことだ」と目をぱちくりさせながら、その理屈から導きだせるひとつの結論を口にした。
「命がなくても、地上には戻れる。ということは・・・」
管理官が大きく頷き、「さすがは、モンドさん。なかなか察しが宜しい」と、口を挟む。
「幽霊になるということか」
それは、噛み締めるように口にした、細くて小さな声だった。それでも、「ええーっ、幽霊」と、サブを気絶させるくらいの力は、十分に秘めていた。
これが、モンドとサブが地上に舞い戻ることになった経緯である。