忘
3日目
以前、というか日常茶飯事だろうか、人の死ぬニュースを見た。
それが芸能人であったり一般人だったり、死に方はそれぞれだ。
自殺、交通事故、病気、最近は殺人のニュースは減って自殺の報道が増えた気がする。
どんな偉大な人間も、どんなひどい死に方をしても、他人の心には一瞬しかとどまらなくて、三日もたてば落ち着いて何もなかったかのように生活を送る。
幼いころ、といっても中学生か小学生かそこらへんの時だが森山直太朗の「生きてることが辛いなら」という曲に出会った。
その歌詞の出だし
「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい 恋人と親は悲しむが 三日と経てば元通り 気がつきゃみんな
歳とって おんなじとこに行くのだから」
最初は自暴自棄になった自分への慰め程度で聞いてたこの曲も歳を重ねるにつれて、物事の真意を改めて理解したような気がした。
最近ではTwitterで追悼ツイートをよく見かけるがあれには誠意があるのだろうか?なんて思ってしまう。
その思いは胸にしまうだけで十分だし、それを他者に見せることで自分のステータス、レッテルをいいものにしようとしているのではなんて思うことも、、、。
勿論、善意・素直に物事を発信してしまう人もいるから全員がとはいえないけれど、他人の死を悼む気もなく、
自身の評価として利用するのは人間の本能そのものでもあり、汚いものだなと感じた。
自分の死がもし他者に、それも多くの人間に知られたら、それはきっと大馬鹿者として笑いにされるだろう。
別にそれが嫌ではないしそうなっても仕方がないから、けれど、人を蔑む人間の人生の末路は蔑まれて終わるんだろうなと虚しく感じるだけだ。
私は私の死を誰かに追悼して欲しいわけじゃない、馬鹿にされたいわけでもない。
ただ、君が死ぬ時、死んでも良いような人生に送れるように考えて欲しい、それだけ。
とかいって見るけど実際は別に読んでくれてる人のことなんてどうでもいい、酷いと思わないで欲しい。
だってそれが人間だから。
私はあなたのことを知らない、だから興味ない、どんな死に方でどんな生涯を送るかなんて聞く価値がない。
私にとって価値のあることは自分の人生だけだ。
ため息が増えた。
疲れたわけでもないのに生きることは疲れる、何もしなくても疲れる。
死んだら疲れないんだろうか? 死んだら何もかも終わるんだろうか?
また少し寂しさが増した。
今日はここまで
明日も同じ1日だ