憂
2日目
もし、自分の死ぬ日がわかっていたら人は何をするのだろう。
持ち金を使って贅沢な暮らしをするとか、行きたかった国に行ったり自分の欲のために散財するのがイメージできるけれど、実際ほとんど変わらない生活習慣だった。
3ヶ月も先となると想像がつかないから死への焦燥感がまだないからかもしれないからだろうけど。
そういえば、昨日この日記を書くことにして気づいたのは人間が死ぬ話なんてあんまりないけれど
ついこの前まではワニが死ぬか死なないか、どんな死に方をするのか、みたいな話で盛り上がっていたなって思った。
他人から見たら人が死のうが、ワニが死のうがきっと感情に変化はないだろうし何も変わりもないんだろうなって思うと
人間ってますます冷たい生き物だなって感じた。
優しい人なんてたくさんいる、世界の99.9%の人間は根っこは優しさを持ってるんだから。
優しいからって心がない人はいるんだ、「優しい」はステータスの初期値みたいなもので
「普段はあれだけど根っこはまじで優しくていい奴」って言われる人って取り柄が他にないんだって少し残念に思ってしまう。
そうそう、死ぬことを決めてからいいことがあった。
誰にでも寛容になれるということ、高圧的な年寄りや声の小さいコンビニ店員、歩きスマホをして肩をぶつけてくる女子高校生、世の中にはいろんなところに小さなストレスのたねがあるけれど今はその感覚が生きてる間にしか感じれないんだなって思うと、
怒るより、感謝しなきゃなって、書いててだいぶひん曲がった人間になったと思う。
ただ少し悲しいのは寂しさがあること。
どんな日常も終わる、そんなことはみんなが知っていることだけどそれが今来るとは思っていないから気にもせず生きていけるけれど、そのいつかがいつなのかわかってる私は世界から離れていくような感覚があって寂しいと感じた。
それから日記以外にも色々始めた。
前々から腐れ縁で続けてきた音楽を何かしらの形で残そうと思って、録音をした。
私の好きな曲。
今が苦しくて泣きたくなった時、私を救ってくれたのは音楽でそれも、フィクションの主人公のストーリーで心が救われた。
胸に空いた穴が埋まったわけじゃないけれど、胸に穴が空いてることに気づかせてくれた、私にはそれだけで十分だった。
そんな音楽をもし私より辛い思いをしてる人に届くならって思って投稿をした。
別に私は世界に絶望したとか、精神的に生きるのが辛いわけではないから辛い経験とは言い切れないけれど、
私が誰かの音楽で救われたように私の何かで誰かの救いになれたらいいなって。
人に必要とされたことがないからあんまり感覚がわからないけれど、明日も知らない誰かのために何かしていきたいな。
今日はここら辺で
また明日。