⑵『書く概念が崩れ、現実に対象を求める狂い』・・・回転的な、物事の理解
『書く概念が崩れ、現実に対象を求める狂い』
・・・回転的な、物事の理解
㈠
物事を理解する時、その理解の仕方が、脳内で回転的になる時、その理解は範疇を超え、見事に精神にまで行き渡る程に昇華される。要は頭の問題であって、回転的とは、頭に蓄積された知識や知恵というものが、化学反応を起こすのだ。
そういった理解から生まれる、書くという行為は、既に概念が崩れている。というのも、何かを理解するために頭を回転させて、執筆に臨むことが多いため、既に、頭の回転の中で理解し昇華された事象を書くことは、無意味になってしまうからだ。
㈡
それにしても、現実に対象を求める時、頭の回転は必要不可欠だろうか。疑問に思うこと、つまり懐疑的になることはよくあることだ。書く概念が崩れることは、フォームが崩れることだから、自分で自身の人生を顧みて、今度はそのフォームの崩れた要因を探さなければいけない。
そして、新しいフォームを構築すれば、そこからまた小説が書ける訳だが、その時点ではもう、現実に対象を求めている段階なので、時すでに遅し、となる。この狂いによって、現実は充実するし、生きている意味というものを感じるだろう。
㈢
だから、今度は、充実した現実自体に、書く対象を求めることになる。それは、第二のフォームであろうし、芥川賞ではなく、直木賞である。いわば、純文学の終焉は、大衆文学の萌芽なのである。それでも、その大衆文学性を、第三のフォームで視座に据えれば、純文学的に捉えられるかもしれない。
これは、或る意味実験であろうと思う。司馬遼太郎の『梟の城』は直木賞だったが、学生の頃読んだ時、純文学的に読めたことは不思議であった。書く概念が崩れる時は、新しい執筆形態の模索のチャンスなのであろう。だから、現実に対象を求める狂いとは、第三のフォームの発見欲求なのではないかと、考えている。