⑴『書く概念が崩れ、現実を書く対象を求める狂い』・・・物書きの、或る事象に於ける狂い
『書く概念が崩れ、現実を書く対象を求める狂い』
・・・物書きの、或る事象に於ける狂い
㈠
今までの自分は、確かに、何かを書いて認められたかったし、今でもその側面は残っている。しかしまた、歳が行けば行くほど、現実というものがやってきて、自分を追いつめる。お前が本当にしたいことは何か、という現実が、心臓に突き刺さるのだ。
この側面に関して、自分は、缶コーヒーのミュージアムを創りたいという夢がある。同時に、小説で食べていきたいという夢がある。様々な夢が自分に対して、利益と結果を求めてくるのだ。それでも、利益や結果だけに捉われず、自分は夢に狂っているかのようだ。
㈡
現実に対象を求めるならば、当たり前のことだが、現実主義者にならなければならない。しかし、夢のない人生で生きることが、本当の現実主義者なのだろうか、と疑問に思うことがある。夢を求めるほうが、現実的だと思われることも多々あるからだ。何かに諦めたら、現実は終わるという予感がある。
だから、書きたいという概念が崩れるとき、本質的な書くという概念は、利益を求めると同時並行する、書く概念なんだろうと思う。利益の出ない状態で、何かを書きたいというのは、現実的ではない。だから、生活上、どこかから利益を得て、無利益な書く概念を並行する、これが理想だろう。
㈢
ならば、現実に対象を求めるということは、現実を書くということだろうから、そこで欲望ではなく、寧ろ義務的な観念として、書くことを進めなければならない。夢を見ている現実ではなく、現実を見ている夢ならば、自分はどこまでも書いていける。現実に狂える。
この、狂いは、生涯に渡って続くだろうとは、今の自分からは、その通りだと言える。何かを犠牲にしても、その犠牲の上に、夢と利益と生活があれば、書くことを止めないで居られる。こんな理想を、歩み始めているし、そのことには、とことん、狂えると、思っている次第だ。