電話
ところで、断っておくと僕は幽霊や超常現象の類は信じていない。
僕には霊感なんてものは一切ないから、幽霊を見たこともないし、そういった経験がまるでない。
例えば、僕の家の近くに、ずっと昔、子供が溺れたという小さな池があるんだ。僕は何も感じないけど、どうやらそこはでるらしい。
友人を2人家に招いたとき、その池の前を通ろうとしたんだ。なにせ近道だからね。
ところが池に近づくにつれ、友人がそこを通るのを嫌がり始めた。いや、2人ともだ。どうしても嫌だ、って言うもんだから、仕方なくその道はあきらめることにした。彼らが示し合わせていたとして、そんなことをする意味もないし。
彼らは池のことを知らないはずなんだけど、なにかを感じたんだろう。おかげで遠回りするハメになった。
つまりさ、僕が言いたいのは、人には2種類のタイプがいるんじゃないかってことなんだ。
みんなのように幽霊や不思議な現象に遭遇することのできる人と、僕のように人伝にそういう話を聞くことしかできない人間とで。
ならどうして僕がこの会を開いたのか。
たった1つだけ、どうしても納得できないことが、どうにも説明がつかないことがあったから。
もうずっと昔のことなんだけど、その出来事が今でも言いようのない違和感として残っているんだよ。魚の骨が喉に引っかかっているように。
だから、今日この会を設けたのは、半分は僕のためでもあるんだ。この話をみんなと共有することで、少しでもそれを解消したいと思ったから。
といっても、そんな大した話じゃない。みんなが話してくれたような、幽霊も、超常現象も登場しない。脈絡もないし、オチもないんだ。だから聞いたみんなで判断してほしい。
大学2年の夏だった。
8月に入って講義もなくなってから、僕はふと思い立って旅に出ては、あてもなくブラブラとあちこちを回った。
しばらくそんな調子だったから、溜めていた資金も底をつきかけて、そろそろバイトでもしないとって思ってたとき、叔父からその仕事を紹介されたんだ。
期間は約1カ月。
その別荘は豊かな自然に囲まれた別荘地の一角にあった。
叔父の親友が所有しているものらしいが、持ち主が仕事の関係で一時的に離れないといけなくなり、その期間だけ誰かに住んでもらいたい、とのことだった。
要はただ、夏休みの間その別荘に寝泊まりするだけでいい。家賃や水道光熱費はタダ、その上で給料もしっかりもらえる。
周りに家屋はなく、生来人付き合いが苦手な僕にとって、その条件は破格どころか、望んでもないものだったよ。
さっそく荷物をまとめて住所に向かうと、そこは静かな山間にたたずむきれいな洋風の造りの大きな建物で、遠くの方からはせせらぎが聞こえてきた。
水道光熱費がタダと書いてあったから、もしかすると相当劣化しているのかなと思っていたけど、それどころか新築のように美しかった。
借りている身分だから、あてがわれた部屋は四畳半ほどの、事務室のような部屋だった。それでも当時僕の住んでいたアパートよりか、よほどいい部屋だったよ。
荷ほどきを済ませてすぐに別荘内を探検してみたけど、とにかく広い。
別荘は三階建てで書斎にキッチン、音楽室、その上趣味で集めたのか、値の張りそうな絵画や壺、彫刻などが至る所に飾ってあった。どうやら別荘の持ち主は相当な資産家みたいだった。
一ヶ月半という長期間に、もしかしたら暇をもてあますかも、と心配もあった。なにせ周りは何もないからね。
でも、そんな不安はすぐに解消された。
部屋と部屋をつなぐ廊下ですら、ちょっとした画廊みたいになっていたし、書斎にはとても読み切れない量の本にレコードも置いてあった。3階にはちょっとしたバーのような部屋、外に出れば生け垣をウサギやトリ、ライオンに象った装飾庭園にテラスもある。
この別荘自体がまるで1つの芸術作品のようで、退屈はしなかった。
ずっと1人きりかって?
いや、そういう訳でもない。
週に2回、昼間に清掃員が訪ねて来て、別荘の掃除や冷蔵庫の食材調達なんかもやってくれるんだ。
僕はその間、他の階に避難したり、場合によっては別荘を出て近くの森に散策に行ったりもしたっけ。
1週間が経ったある晩、ただ住んでいるだけではなんだか申し訳ない気がして、別に頼まれたわけでもないけど、夜になったら別荘の見回りをすることにしたんだ。
清掃員のように、不備が見つかったら紙に記しておこうってね。
いくら水道光熱費がタダとはいえ、別荘中の明かりを付けてしまえば電気代もバカにならない。だから見回りのときは自分の事務室だけ電気を点け、あとは懐中電灯1本で別荘内を巡回するようにした。
いや、それが誰もいない深夜の別荘も悪くないもんだよ。
窓から差し込む月明かりで青白く照らされた廊下とか、外の闇にたゆたう蛍火とか、とても幻想的で美しいんだ。
何より、その方が肝試しをしてるみたいで楽しそうだったからね。
音楽室にあるピアノを弾いてみたり、キッチンでちょっと凝った料理をしてみたり、書斎で音楽を聴いたり、とにかく自由に過ごしていた。
あっという間に日が過ぎて、気づいたら残すところあと7日になっていた。
あまりにも居心地が良くて、ずっとここに住めたらな、なんて思ったりもしたよ。
いい仕事を紹介してもらえたことに感謝したさ。
少なくとも、あの時まではね。
やけに風が強かった。
時折ごうって音と一緒に別荘を叩きつけるたびに窓が揺られてガシャンガシャンとうるさかった。
その晩僕は事務室にこもって本を読んでた。
名前は覚えてない。あまり知られていない推理小説だったはず。2時間ほど読んで、疲れたから机に置いた。
頭の後ろで両手を組んで、イスの背もたれに体を預けながら天井を見ると、大きなシミがあった。その気なしにそれを眺めていると、なんだか人の顔のように思えて、気味が悪くなって視線をそらした。そういうことってあるだろ?
イスから立ち上がって本をすぐ横の大きな棚に戻そうとしたとき、何かの表紙で本を落としてしまった。人様の物だから、急いで腰をかがめてそれを拾い上げようとしたんだ。そのとき、今まで気がつかなかったけど、棚の一番下の段、古びた箱が置いてあることに気がついたんだ。
よほど劣化していたのか、箱の側面に大きな裂け目があって、中身が見えたんだ。業務報告書だった。
清掃員が破損や不備を報告する小さな用紙。それを日付順にまとめたファイルが数冊、ぎっしりと詰め込まれてた。
なんとなくその箱を引っ張り出して適当に中のファイルを抜いた。それをパラパラとめくってみては、閉じて、箱に戻してからまた次を抜き出した。
何でそんなことをしたのか、今でも分からない。
みんなが想像するように、そんなもの見たっておもしろくもなんともないんだ。でもなぜか僕はそれを繰り返した。僕のカンがそうするべきだと言っていたのかもね。
用紙はどれも黄ばんでいて、日付もずいぶん昔になっていた。
なにかを確認するでもなく、めくり続けていたら、あるところで指が止まった。
その用紙、一番下に文字が書かれていた。
そこはなにか不備があった際に、その詳細を描き込む欄なんだけど、その用紙には殴り書きの文字でただ、「電話」と書かれていた。
いったい「電話」がどうしたのか?
僕にはまるで分からなかった。
だってそれ以外、何も書かれていないんだ。
普通なら「配線が切れていた」とか、「受話器が故障していた」とか、そんな風に記録しておくのが普通なのに、そこには「電話」としか記されていなかった。
いくら考えても答えはいっこうに思いつかない。
誰もいない真っ暗な山奥の別荘で、この事務室だけがぽつんと1つ、灯りが点いている。
なんだか誰かが僕をじっと見つめているような、そんな気がした。
その状況と意味の分からない注意に、なんだか急に寒気を感じたよ。
突然時計がけたたましくなって飛び上がりそうになった。巡回の時間だ。
普段なら月明りで照らされて懐中電灯もいらないほど明るい廊下も、厚い雲が月を覆って真っ暗だった。
経験がある人はわかると思うんだけど、街灯も何もないと、夜はまるで見えないんだ。そのとき初めて、あの懐中電灯が心強く思えた。
事務室を出る前から、なんとなく嫌な気はしていた。今日この時間だけは、巡回に行くべきじゃないって、そんな気が。
でも、僕はそうしなかった。
腕っぷしにも自信があったし、何より自分がおびえているなんて、なんだか負けたような気がしてさ。
でも、そんな小さなプライドなんかに固執しない方がよかった。
事務室を出て、廊下を歩き始めてすぐ感じた。
誰かが後ろからついてくる。
僕のスリッパが床を踏むペタンって音に混じって、素足で歩くような、ヒタって音が聞こえるんだ。
その音はしっかり僕の後をつけてた。
ペタン、ヒタ、ペタン、ヒタって感じで。
当然僕以外、別荘の中に誰もいない。いるはずがない。
だから気のせいに決まってるんだけど、そう思えば思うほど、その気配をはっきりと感じるんだ。
自然と早足になって、さっさと巡回を終わらせようと思った。でも、そうすればするほど、ますます僕の中の恐怖が膨れ上がるんだ。
懐中電灯を中心に、光は小さく円を作っていた。そこから先は完全な闇だ。僕が歩くと、僕を囲んでいる闇も逃がすまいと共に移動する。
音楽室、廊下、書斎。次々と終わらせて、最後は1階西端にあるボイラー室だった。
相変わらず背後の気配は消えない。
扉を開けて素早く確認していって、ようやく全部を見て回った。いつもより随分早く終わったのに、なんだかずっと長く感じたよ。
あとは灯りの点いた事務室に戻るだけ。やっぱり背後には気配がある。
僕は来た道を戻り始めて、やがて小走りになって、気がつけば全速力で駆け抜けるようにして事務室にたどり着いた。
勢いよくドアを開けると一気に光が僕を包みこんだ。
急いで閉めて、転がり込むように床に座った。
そうしてるうちに呼吸も収まって、なんだかさっきまであれほどおびえていた自分がばからしくなった。ほらみろ、なにも起こらなかった、ってね。
なんだか無性に疲れて、部屋の脇にあるベッドに潜り込んだら、いつのまにか眠ってたんだ。
不意に目を覚ました。
どこからか音が聞こえる。定期的に。
山の中、自然に囲まれて過ごしてると、不思議と感覚が冴え渡るんだ。来て早々は外で木々が揺れたり、動物の鳴き声とかにすごく不安になるんだけど、何日も住めばそれも慣れる。
だから分かるんだよ。
それはどうやら外の音ではないってことが。別荘の中だ。
風鈴が激しく揺れるような、ベルを何度もならすような、そんな音。
なんだかすごく耳につく音だった。面倒で布団にくるまっていたけど、どうにも止む気配はなかった。
僕は目をこすりながら、体を引きずるようにベッドから這い出て、右手で懐中電灯をつかんで事務室を出た。
真っ暗な廊下、懐中電灯を片手に耳を澄ます。
別荘の東側からだ。
僕はその音に誘われるように、ゆっくりと廊下を歩いて行ったんだ。
少しずつ、だが確実に音は近づいている。相変わらず音は別荘に響き渡っていた。
そしてたどり着いた先は、普段使わない、1階東にある幅の狭い階段。確かに音はその辺りから聞こえた。
懐中電灯で照らすと階段の横、二階へと上がる階段下のわずかなスペースに扉がある。音はその扉の奥からだった。
僕は少しためらい、そして意を決して開け放った。
小さな部屋だった。天井も低い。
音は鳴り続けてた。ジリリリン、ジリリリンって、規則的にね。
僕はおそるおそる明かりを照らしていった。
そこにあったのは、小さなテーブルの上に置かれていた黒電話だった。
そう、ダイヤルを回してかけるやつ。それが誰もいない真っ暗な洋館の、真っ暗な小部屋でずっと鳴り続けてたんだ。
どう考えたっておかしいだろ? こんな真夜中に電話なんて。大体こんな別荘の端っこの、ホントに小さな部屋に黒電話がポツンと一台だけ。
出るかどうか迷った。
でも、出ないとこれは鳴り止まない。どこかそう確信してた。
だから、ためらいながら手を伸ばした。そして震える手でどうにか受話器を耳に近づけて訊ねた。
もしもし。
返答はない。
もう一度訊ねた。返答はなかった。
ただ、代わりに受話器の先からずっと波の音が聞こえるんだ。
そう、波だ。引いて、また打ち寄せる波の音。
星空の下、誰もいない砂浜で潮騒に耳をすますような、そんな気分になった。
僕は静かにそれを聞いていた。
吸い込まれるような、本当に美しい音だった。
目を閉じて、その波の音に集中しようとした。
そのときだった。
全身に鳥肌が立った。
急に電話の向こう側に得体の知れない何かがいて、そいつが笑ったような気がした。
なぜか分からない。
だけど、これ以上この音を聞いていたらまずいことになる。本能的にそう悟ったんだ。
僕は無造作に受話器を投げだし、その部屋を飛び出した。
息を切らして廊下を這うように走って事務室に向かった。
でも分かるんだ。
後ろから何かが追いかけてる。
巡回のとき、僕の後を張り付くようについてきた、あの何かだ。
追いつかれたら終わりだと思って必死に走った。
全速力で走り続け、角を曲がって、ようやく明かりがこぼれた部屋が見えた。
でも、何かは僕のすぐ後ろまで迫ってる。
そして後ろから僕の喉を掴もうとした。
僕は最後の力を振り絞って、縋る思いで事務室に飛び込んだ。
なぜかそこまでは追って来なかった。
助かったんだ。
そう思って、すぐに全身の力が抜け、僕はその場に糸が切れたように崩れ落ちていった。
ジリリリン、ジリリリン
だけど、遠ざかる意識の中、あの電話の音は、確かに鳴り響いていた。
話はこれでお終い。
楽しんでもらえたなら何よりだ。
まあ、普通ならそうだろうね。でも僕はどうしても気になって、翌朝もう一度あの部屋を見に行こうと思い立った。
細長く、曲がり角の多い廊下を歩いて、昨日の階段にたどり着いた。
みんなの期待を裏切ってしまうかもしれないけど、そんな部屋は存在しなかった、とはいかなかった。ちゃんとドアはあったし、その先には部屋もあった。
たださ、どう考えても、昨晩僕が見た部屋とは違うんだよ。
そこは骨董品がぎっしり置かれた、カビ臭い物置なんだ。どこをどう探しても、あの小さな机においてあった黒電話は見つからなかったんだ。
もちろんすぐに荷物をまとめて逃げ出した。
叔父にどうかしたのかと心配されたよ。
まあ、命令された訳でもないのに見回りをするような人間が、いきなり仕事を放り出して逃げ出したんだ。当然といえば当然だ。
契約違反には違いないから、最後の一週間分のバイト代はいらないと断った。あの夜階段の側の部屋でなっていた電話はなんだったのか、訊ねてみたかったけど、それはできなかった。
おっと。さすがに僕も驚いたな。このタイミングで電話が掛かってくるなんて。
ああ、居間にあるやつだ。
いや、大丈夫。あれは黒電話なんかじゃない。電子音で知らせてくれるやつだよ。
でも変だな。
あそこにあった電話はずいぶん前に壊れて鳴らないはずだけど。