第一章
体に重く覆いかぶさっていた男をどけ、私はベッドから這い上がった。体中に染み付いたキツイ香水とあの男のそれが混ざった嫌な臭いが鼻をつく。椅子に乱雑にかけてあったシャツを軽く羽織り、洗面台に足早に向かう。肌に直接リネンがべったりと張り付き、まるでずっと誰かに触れられてるような気がして気持ち悪かった。でも、他にないのだからしょうがない。
いつからこんな堕落した生活に陥ったのだろう。煌びやかな装飾の鏡の中の自分と目が合い、思わず顔を背ける。鏡の中の『私』は、鼻筋が通り堀の深い目。極め細かい白い肌。誰に言わせても美しい顔というものに相違なかった。けれど、それは全て偽りなのだ。
──私は、私の顔が嫌いだ。
蛇口をひねり、水を張る。透明な水に再び自分の顔が映し出され、思わず手でかき混ぜた。水面が揺れ、歪んでいく『私』。その光景にようやく安堵する。顔を洗い終え、乱れた艶びやかな黒髪を整える。
今日こそは出かけよう。私はそう決めていたのだ。リビングを通りベッドルームを横目で見ると、男はまだ醜い体を上下させ眠りこんでいた。外出するところを見られたくない。どうせ彼も一夜限りで、もう二度と会うことはないのだが、見送られるのは間違っているわけで。それではまるで夫婦ではないか。私はそんなのは望んでない。
久しく仕舞い込んでいた服を探すため、私は足音をたてないようクローゼットの扉を開けた。いろいろなものを捨て手に入れたはずの、贅沢な生活であったが実際はそんなことなかった。服だって確かに上等である。けれど、私は毎朝起きる度に「死んでしまいたい」そう願うようになっていた。
適当に、黒の麻のワンピースを着て、私は外へと出た。喪服っぽく見えるであろうという理由で選んだ服装。実に一週間ぶりの外出であった。
初夏の風は、熱を含み新緑の葉を揺らす。まだ明け方といえど、照りつける真夏の日光がじりじりと肌を焼いていくのを感じた。どうやら、ただ寝るだけの生活は私から感覚までは奪ってなかったようだ。私は、早朝の誰もいない散歩を楽しむことにした。別に目的があって外出したわけではないのでこれでいいのだ。
この生活を続けて、もう何年になるのだろう。ふと、顔を上げるとそこには30階にも及ぶ高級マンションがある。その最上階が私の手に入れた全てだ。
「こんなはずじゃなかったんだけどな…」
気づけば、そんな呟きが漏れていた。いや、それこそ言うつもりなんてなかったのに。私は羞恥で、マンションから遠ざかるよう歩を進めた。けれど、そのとき後ろから同じテンポでついてくる足音を感じた。背中に異様な寒さがべっとりと張り付く。相手をした男の誰かがなんらかの恨みで来たのではないか。恐怖で駆け足になるが、まだ足音は追ってきてついに私は、後ろを振り返った。
「えっ……子供?」
そこには、私が想像した人物はおらず、代わりに首から煌く金の十字架をさげた白髪の黒いランドセルを背負った少年が立ち止まっていた。
「おはよう、お姉さん」
「お、おはよう」
少年の屈託のない笑顔と声に、釣られて返事をしてしまう。少年は、制服なのか妙にかしこまった服に身を包んでいた。しかし服に着られているという感じはまるでなく、どう見ても着慣れている、といったものだった。
「君…」
私は目の前の少年の情報を得ようと無意識のうちに呼んでいた。が、遮るように、
「お姉さん、死にたいんでしょ」
少年は確かにそう澄んだ声で言った。