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死人のお世話

作者: 村崎羯諦

 死んだ父親の身の回りの世話をしてほしい。事前に知らされていた仕事内容はこれだけだった。


 信頼できる知人から紹介された仕事だけど、まさか法律に抵触する仕事じゃないでしょうね。私は一抹の不安を覚えながら指定された仕事先へと向かう。富裕層向けの住宅街を抜けたどり着いたのは、周りの家よりも一回りも二回りも大きな邸宅だった。


「よく来てくれました。助かります!」


 三十代半ばの快活な女性が熱烈に私を歓迎してくれた。三村睦美と名乗った雇い主に形式的なあいさつを済ませた後、私はずっと胸に抱えていた疑問をぶつける。


「あの、仕事内容なんですけど。身の回りの世話っていったい………?」


 三村さんは「ついてきて」と玄関から奥の部屋へと私を案内する。扉を開けると、部屋の中央には大きなビロードの肘掛け椅子が置かれていて、そこに白髪が混じった初老の男性が目をつぶった状態でもたれかかっていた。


「お父さん。この前話したお手伝いさんが来てくれたよ」


 睦美さんがそう話しかけると、初老の男性はゆっくりと目を開け、こちらの方へと視線を向けた。私が軽く会釈をすると、睦美さんのお父さんも軽くうなづき、その後また目をつぶってしまった。


「昼寝の最中だったみたい」


 部屋を出た後、茶目っ気たっぷりに睦美さんが言った。私は事前に知らされていた仕事の内容をもう一度頭の中で繰り返す。死んだ父親の身の回りの世話をしてほしい。確かにそういう仕事だった。


「あの、つかぬことをお伺いするんですけど、お父様って確かお亡くなりになられたんじゃ………」


 最後の言葉を言い切る前に、睦美さんの表情にさっと暗い影がかかった。そして、先ほどまでの陽気さが嘘のように、低くくぐもった声でぽつぽつと語り出した。


「そうなの。ちょうど一か月前だったかな、くも膜下出血でぱったりとね。普段も風邪一つひかない身体だったから、まさかこんな風にあっさり亡くなっちゃうなんて思ってもなかった。人の命って本当にあっけないんだって、この年になって実感しちゃった」


 そういうと、睦美さんは「ごめんなさいね」と断りを入れ、ポケットから取り出した絹のハンカチで目元を拭う。ウソ泣きではないかと注意深く観察したが、瞳は涙で潤んでおり、眼の端には小さな涙の玉ができていた。


 その時、がちゃりと先ほどの部屋の扉が開き、中から睦美さんのお父さんがのっそりと出てきた。彼は私たちに一瞥を投げ、そのまま廊下を歩いて行くと、角を曲がって姿を消した。


 お父さんが消えた曲がり角をわけがわからず見つめていると、睦美さんは「多分、トイレだと思うから気にしないで」とだけ言い、「湿っぽい話は終わりにして、具体的な仕事内容を説明するね」と無理やり笑顔を作ってみせた。そこには確かに、悲しみを強引に抑圧した人間特有の痛々しさが表情に浮かんでいた。


 私は彼女が嘘を言っているとは到底思えなかった。それに、嘘を言っているからと言って、私に何か不都合が生じるわけでもなさそうだった。そして、そのことに気が付いた瞬間、私は睦美さんにある種の敬意を抱かざるを得なかった。少なくとも睦美さんは、死を単純に故人と会えなくなるからという理由で悲しむではなく、混じりっ気のない死そのものを純粋に悲しむことができる人間だったのだ。


 その日から私の仕事が始まった。仕事内容はまさに聞かされていたものと同じで、日中、睦美さんが仕事で家を空けている間、部屋の掃除や食事の用意、あとはこまごまとした雑務を行うというものだった。


 私は以前も家政婦として働いていたため、屋敷が広いと言うことを除けば、まさに自分の経験を存分に生かせる仕事内容だった。栄養のバランスを生かした食事作り、部屋の掃除、郵便の受け取り、さらにはお父さんから頼まれた雑務、例えば書店に行って指定された書籍を購入したりすることなどを、私はてきぱきと効率よくやってのけた。


 唯一苦労したのは、亡くなっているお父さんとの意思疎通だった。お父さんの名前は三村達夫。昭和25年生まれで、亡くなっていなければ今年で68歳になるはずだった。達夫さんは日常生活を不自由なく過ごせるだけの機能を維持していた。しかし、二点だけ困ったことがあった。一つ目は、達夫さんの身体が氷のように冷たいこと。それはまさに生きている人間ではありえない、死人特有の冷たさで、私が最初に達夫さんに触れた時、思わず声をあげるほどのものだった。


 そして二つ目は、達夫さんは一切喋ることができないということ。そのため、用事があるときには筆談でコミュニケーションをとる必要があり、最初の内はこれがなかなか大変だった。死ぬ前からそうだったのかしらと疑問に思った私は、ある日睦美さんになぜお父さんは口がきけないのかと尋ねてみた。すると彼女は大げさな驚きの表情を浮かべながら答えてくれた。


「何を言ってるんですか。父は死んでるんですから、喋れなくて当り前じゃないですか。だってほら、死人に口なしってよく言うでしょう?」


 しかし、そういう不便な点を除くと、この仕事は今までやってきた中でも抜群にいい仕事だった。給与と言った条件面だけでなく、雇い主の三村父娘は温厚で気さくな性格で、こうした仕事特有の人間関係でのわずらわしさがこれっぽっちもない。特に、接する時間の長い達夫さんは人格者だった。私が些細なミスをしても優しそうな目で受け止めてくれたし、私に小学生の子供がいることを告げると、子供のためにちょっとしたプレゼントを送ってくれる。


 睦美さんが父親を尊敬している理由がわかったし、彼女は葬式で狂ったように泣き叫んだと言うことも十分に理解できた。母子家庭で父親の温もりというものを知らずに育ってきた私にとっても、達夫さんは決して単なる雇用主ではなく、よき父親であり、そしてよき理解者でもあった


 私はいつまでもこの仕事を続けていたいと心から思っていた。それでも、運命というのもは残酷だ。平穏というものは何のお告げもなく、突然破られる。


 それは昼下がり、達夫さんが食卓で、遅めの昼食を食べている時だった。達夫さんは私が作った分の料理を残さず平らげ、食後のコーヒーを窓から見える中庭の風景を鑑賞しながら堪能していた。私は食器を下げ、台所で洗い物をしていた。


 すすぎが終わり、食器乾燥機へと食器を並べていたその時、ガシャンと陶器が盛大に割れる音が聞こえてきた。私は突然の破砕音に驚き、急いでダイニングルームへと駆け戻る。達夫さんは胸を右手で押さえつけ、苦悶の表情を浮かべていた。痛みのせいか身体は前かがみになり、足元にはぶちまけられた陶器の破片と黒いコーヒーの染みができている。額には大粒の汗が浮き出ていて、遠目からでも荒々しい呼吸をしている様子が見て取れた。


「大丈夫ですか!?」


 しかし、達夫さんは私に救いを求めるような目で見つめ返すだけで何も言わない。いや、何も言えなかった。私は携帯を取り出し、震える指先で何とか救急車を呼び、必死に達夫さんの背中をさすり続けた。もちろん、これで彼の痛みが取り除かれるわけではないことはわかっていた。けれども、私は恐怖と怯えで泣きそうになりながら、励ますことしかできなかった。救急車は十分ほどで到着した。救急隊員に運ばれていく達夫さんに連れ添いながら、私は彼の無事を祈り続けた。


 結論から言うと、達夫さんは助からなかった。心筋梗塞だったらしい。


 突然訪れた死に、私はぽっかりと穴が空いたような心持に襲われた。それは、単に仲のいい雇い主が死んだという出来事以上のショックを私に与えた。招かれた自宅葬で、私は睦美さんと抱き合い、みっともなく泣き続けた。白い菊が敷き詰められた棺の中で、達夫さんが手を組み、穏やかな表情で眠っていることだけが唯一の救いだった。


「できれば、仕事を続けて欲しいの」


 葬式が終わり、ようやく気持ちに整理が付き始めた頃、邸宅の玄関で睦美さんからそうお願いされた。私は少しだけ迷った後、黙って首を横に振った。何も言わなかったのは、口を開くと、泣いてしまいそうだったからだ。睦美さんはそんな私の気持ちを察してくれたようで、目を伏せるだけでそれ以上何も言ってこなかった。初めてではないにしても、肉親を失った睦美さんの悲しみはより深いはずだったし、何もできなくともただ彼女に寄り添ってあげるべきだったのかもしれないと少しだけ私の気持ちが揺れる。


 しかし、私もまた他人に優しくなれるほどにはまだ悲しみを癒せていなかった。もし、このままこの家で働き続けていれば、否応なしに昔の記憶を思い出し、そして死の香りを嗅ぐことになる。私は睦美さんに深々と頭を下げた。どうしようもなく弱い自分を懺悔し、赦しを乞うために。


「寂しくなるね」


 睦美さんがつぶやく。それと同時に、邸宅の奥の廊下から睦美さんのお父さん、達夫さんがゆっくりとこちらへと歩いてきた。彼にも私が今日で仕事辞めることは告げていたため、そのお別れをと思ってやってきてくれたのだろう。


 達夫さんと私は固い握手をした。ぎょっとするような冷たさが私の手を通して伝わる。私は達夫さんの優しい表情を見て、泣きそうになった。ずっと優しくしてくれた個人の記憶がありありと脳裏に思い浮かんだからだった。会えなくなるからとかではなく、尊い命、それもこれほどまでに素晴らしい人の命が失われたということがどうしようもなくもどかしく、辛かった。


 私は泣きそうになるのをこらえるため、さっと目をそらす。目をそらした先に、葬儀の時に使われていた白い菊の花びらがくっついていた。私は耐え切れなくなり、嗚咽交じりに泣き始める。そんな私を達夫さんが優しく抱きしめ、横から三村娘が妹をあやすようにそっと頭をなでてくれた。


 私は半べそになりながら二人に最後の別れを言った。そして、後ろ髪をひかれる思いのまま、思い出の詰まった邸宅を後にする。玄関から門までの道の途中、同い年くらいの女性とすれ違い、会釈をする。睦美さんが言っていた、代わりの家政婦さんなのだろう。私は振り返った。彼女の後姿を見送りながら、私は彼女に幸多からんことを祈った。

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