母と娘
「ただいま」
玄関の方から声がした。
私は、ハッと吉原君から身を離した。
彼も慌てたように、居ずまいを正す。
「良かったわ。純子ちゃんの好きな「COCON」のキャラメルロールケーキ、今日はまだ売り切れていなかったの。頂き物の「HENRI」のプティ・ガトーもあるわよ。ママもお茶に混ぜてもらっていいかしら?」
そうにこにこと言いながら、ママがテーブルの上を片付け、新たにお茶を淹れ直しにキッチンに立った。
吉原君と私は、無言でお互い目を逸らしている。
吉原君に抱き締められた……
今頃になって、どくんどくんと心臓が鳴る。
しかし、彼の腕の中で泣いたことを私は、彼に対してだからこそ、してはいけないことだったのではないかと、後悔していた。
程なくしてママは、トレーを手にソファへと座った。
茶器類と、六等分に切り分けられたキャラメルロールケーキが二個づつ乗ったお皿を、ガラステーブルの上に置く。カラフルなプティ・ガトーの詰まった丸いボックスも脇に添えた。
「吉原君……だったかしら。純子は、学校ではどうですか?」
ママが、赤い花柄模様の「MINTON」のティーポットから、ストレーナーで紅茶をカップに注ぎながら、そう問うた。
「あ…。真面目で、すごい勉強ができて。みんなとも仲良くやってると思います」
「そう。よかった」
ママが、紅茶に口をつけながら言う。
「それに……すごく、誠実で努力家だと思います」
「誠実?」
「二学期の済陵祭の時、みんな好き勝手でバラバラで。そんなクラスを、一所懸命になって、まとめていました」
吉原君……
そんな風に、思われていたなんて。
「そう」
ママは、カップをテーブルに置くと、言った。
「あなたも。あなたも純子ちゃんと同じね」
その一言を、吉原君も私も、理解していなかった。
どういう……という顔をした彼にママは、
「とても素直ないいこだわ」
と、微笑んだ。
それから──────
一時間ほどお茶をして、すっかり遅くなり、ママの作ったガーリックチキンピラフと、白菜とベーコンたっぷりのコンソメスープの夕食を三人で頂いた。
パパとお兄ちゃんは、その日、帰りが遅くて、吉原君と顔を合わせることはなかった。
***
彼が帰った後、夜も更けてきて……
キッチンでお皿を洗いながら、ママは言った。
「あの子。吉原君。純子ちゃんのことが好きなのね」
「ママ……?!」
「わかるわ。あなたを見る目が、ママやパパ達と似ているもの。あなたを大切に、大事に想っている目だわ」
ママは、そう言うと、
「あなたはどうなの?」
と、尋ねてきた。
「私は……」
まさか、ついこの前、彼とはずみとは言え、キスした仲だとは言えない。
しかし、ママは言ったのだ。
「あなたは、吉原君の他に好きな人がいるみたいね」
「ママ……?! どうして」
私が驚いて声を上げるとママは、言った。
「あなたが彼を見る目は、「恋」ではないわ。恋だったら……、もっと熱い瞳をしているものよ。あなたを見つめる吉原君のように」
それからママは、エプロンを脱ぐとお湯を沸かし、「宇治香園」の玉露を丁寧に淹れた。
「萩焼」の桃色の湯飲み茶碗で頂くそのお茶は、程良い甘みとコクがあり、とてもまろやかな味わいだ。
私の好きな玉露独特の覆い香が漂う。
ダイニングテーブルに、ママと私は向かい合って座っている。
「最近のあなたは。そう、冬休みの頃からね。いつにもまして情緒不安で……心配していたのよ。あなたは、お勉強が忙しいと言うだけで、部屋から出て来ないし。……でも。今、あなたは」
と、ママは言った。
「誰かに、恋をしている。恋に取り憑かれているまなざしをしているわ」
「ママ……」
「……うまくいっていないのね?」
ママのその一言に、私はこくりと頷いた。
「彼には、多分、好きな人がいて……。でも、私にその彼女を重ねていて……。私は。「身代わり」でしか、ないのに……、私は……」
「辛い恋なのね」
その時。
ママのその言葉が、胸を貫いた。
涙が溢れてきて止まらなくなる。
「こんな……こんなに辛い恋なら。恋なんてするんじゃなかった……」
テーブルに肘をつき、両手で顔を覆った私に、
「でもね。純子ちゃん」
ママは、優しく言った。
「恋は「する」ものじゃないわ。恋は……「堕ちる」ものなのよ」
「恋は……おちる……?」
それは、初めて聞く言葉だった。
「そう。あなたには、まだわからないかもしれないけれど」
ママは、お茶を一口啜った。
「その彼と恋に堕ちたのも運命だったのよ」
「運命……」
「抗ってはダメ。堕ちるところまで、とことん堕ちていきなさい。そうすれば、いつか「光」が見えるわ」
いつか、光が。
守屋君との恋に……
「本当……?」
「ええ」
ママは、優しく微笑むと、私の掌を軽く握り締めてくれた。