第九情報機関花奇譚(プロローグ)
『季節外れの櫻の花弁、降れば彼岸に招く知らせ也。注意されたし。そして勇猛なる諸君、櫻の主を成敗されたし』
そう言う文言の張り紙が軍部の至る所に貼られ始めたのは最近の事。
可成り前から、櫻の花弁が死を招くと軍部の中で都市伝説の様にまことしやかに噂されていたのである。今迄、表沙汰にならなかったのは、軍部の恥を晒すのを恥じた上層部の意向故。
そして、「何を恥じる事在るか。不埒者を退治るのは軍人としての誉也。周知致すべし」と言い出したのは、彼の高名なる小林准将であった。
若い頃に前線で鳴らした武勇伝の数々は軍部内に知らぬ者無し。齢四十路を超えて、猶健在な其の刀の鋭い切れ筋。雪の如き白髪は威厳を損なう処か、生きながら夜叉に成ったが故と評される。
異能者の蔓延る此の世。魑魅魍魎も又、跳梁跋扈していた。
軍部は重要な役目を負っていた。即ち、化物退治、異能犯罪者を罰する役。軍部は異能警察でも太刀打ち出来ない大捕り物を担うが定め。故に、恨みも買い易い。
櫻の花弁は政界の大物や軍部の上層部の前に降るのが殆どであるからして、テロリスト、其れも複数犯と見られている。或いは、化物使いか。何方にしても、優雅なる手口とは裏腹に、引き裂かれた肉塊と成ったモノが転がる残虐な犯行現場からして、凶悪犯の遣る事と思われていた。
小林准将は、自ら囮に為ると志願していた。
流石は英雄、老いて猶現役で在ると。否、今が最も華である、男の中の漢であると軍部内は沸き立った。
たった独り。小林准将を除いて。
櫻の花弁が舞うのは、月の無い夜と決まっている。
闇夜に朧に光る花弁が揺らめく、此岸の物とは思えぬ幽玄なる光景は、死を控えた者が観る夢幻かと見紛うと言う。
小林准将は新月の夜、昏き夜道を警護無しで闊歩していた。
思惑が確かなれば、必ず奴は己を狙って来ると信じて。
ふわり。
一片の花が舞い散る。
そう、件の櫻の花が――
斬。
小林准将は腰の刀を目にも留まらぬ速さで引き抜き、櫻花を切り裂く。
微かに甘く果敢ない馨を残して、花弁は無残にも散った。
「……出て来い。貴様」
一寸先も闇の、其の暗がりの中に小林准将は声を掛けた。
声を掛けた方から、ひらひらと、淡く蛍光する蝶が舞う。黒い蝶ながら、不可思議なる光を纏った蝶を観て、小林准将は確信した。
「――櫻月華蝶。貴様、隠れても無駄だ」
「流石は名高き小林准将。全てお見通しかい?」
緩。
宵闇の蝶々が具現化した様な男が突如、現れたかに見えただろう。小林准将以外には。
歳は小林准将と同じ程。白衣を羽織っていて、白髪雑じりの長い黒髪を、銀の蝶の髪留めで括っている。
知っているからこそ、暗闇でも其れが分かる。
「何か言い給えよ。旧知の仲じゃないかぁ」
「櫻月華蝶。表向きは闇医者兼情報屋。だけでは飽き足らず――政府には裁けない政治犯を殺害して回る、テロリスト。今の貴様は其れ以外の意味は持たぬ」
櫻月華蝶と呼ばれた男の、ふわふわと掴み処の無い笑みが、准将の言葉に応えるが如く、歪んだ三日月の形に口角が吊り上がる。
嘗て――軍部で天使が舞い降りたと謳われた、軍医の鑑。奇跡の癒し手の面影等無い。
ぎり。と、小林准将は奥歯を噛み砕く程に喰いしばる。
「……今は、貴様と俺は、殺し合う仲だ」
「ふぅん? 出来るのかい? 甘ったるい君が。嗚呼、なんて優しく気高い君だっただろう! 昔を思い出すね? ね?」
「止めろ。貴様はもう昔の貴様では無い」
「なんで?」
にい、と嗤った櫻月の狂気を含んだ口元は、確かに其の名を呼んだ。
「くろちゃん」
と。
櫻月の声だけは、昔の様に澄んでいた。
「ま。良いよ。今日は挨拶だけのつもりだ」
白衣の裾を翻し、櫻月は余りにも無防備に背を向けた。小林准将には斬れない事を知っているかの様に。
「又。精々、愉しませておくれよ。昔馴染みの間柄だ。じっくりと君は甚振って殺してあげよう」
ふ、闇の中の気配も遠退き、小林准将はふと己の手を観た。
刀を握っていたのに、斬る処か、振り被る事すら出来ずにいた。小林准将は、ふ、と小さく笑みを浮かべて、己を自嘲したのだった。
「花。今ではお前は俺を斬る理由が有る。然し、俺には無い」
桜月花湖。其れが櫻月華蝶の本名。
そして、小林准将の本名。小林九郎――くろちゃん――と桜月が呼んだ名は呼ばれなくなって久しい。
「花、何度でも来い。同胞を殺すお前を俺は斬れん」
気が付いているのだ。小林九郎も。
桜月の操る櫻の花弁は、腐り切った腸の者しか殺さぬ。
そして、『櫻月華蝶』からすると、最早『小林准将』は、殺すべき対象であると。
「くろちゃんと花から、随分と変わったな……」
二人が離れた十年。
其の十年間が、二人を変えた。
其れでも、二人は再び繋がったのである。
血肉の躍る、紅い糸で。




