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熱々のココア


「おや、起きたのかね」


 やさし気にそう言うと、男はゆっくりと椅子に腰を下ろした。ギシリと木製の椅子が鳴る。


 歳はどれくらいだろうか。頭や髭は白く染め上げられてはいるが、俺が知る同様の人々に比べていくらか若々しく感じられた。とはいえどアイシャはおじい様と呼んでいるので、それなりの歳ではあるのだろう。


 アイシャは、おじい様の分も淹れてくるわ、と部屋からそっと出て行った。それを見送ると相応に落ち着いた調子で男は口を開いた。


「私はローレン。あれは孫のアイシャだ。君は……自分の事がわかるかね」


 はい、と頷く。


「俺は216(ニーロ)。その……助けてくれてありがとうございます」

「そうか、ニーロというのか。どうだね体のほうは」


 まだ全身が痛く怠いことを伝える。ローレンは一つ頷くと、ちらりとアイシャの出ていたドアを横目に見た。


「あれから話は聞いているかもしれないが、君はこの吹雪の中でうちの玄関先に行き倒れていたんだ」

「はい、それは聞いてます。一緒にいた友人とははぐれてしまったようで」

「こんな雪の山道をどうしてそんな恰好で歩いていたんだ?」


 言われて気が付いた。研究所の中で来ていた服装のままだ。薄い寝巻のようなそれは、まるで保温性がない。この季節など、よほど日当たりがよい場所でない限りは凍え死んでしまう。雪山など以ての外だ。研究所の中でも寒さに身を震わせていたというのに、よくぞ助かったものだ。


 ローレンからの問いにはどう答えるべきだろうか。流石に研究所のことは言えないが、かといって上手な言い訳も思いつかない。ローレンの目が少し細まり、訝し気な色が光る。ずい、と姿勢を前に傾けると、声のトーンを一つ下げた。


「何か、言えないようなことなのか」


 怒気とまではいかないが、それは強い口調だった。何を答えるべきかわからず沈黙してしまう。風の切る音と窓がかたかたと揺れる音だけが部屋に響いた。


 しばらく、そうしていた。どれくらいの時間がたったのだろう。いや、実際の時間はそれほどだろうが、それはとても長く感じられた。バツの悪いまま伏せっていると、かちゃりとドアが開く。お茶を淹れたアイシャが戻ってきた。空気の凍った部屋が、いくらか和らいだ。


 ローレンはアイシャからカップを受け取ると、紅茶を口に含んだ。ごくり、と喉を鳴らす。先に口を開いたのはローランだった。


「おおかた、研究所から逃げて来たんだろ」


 言いながら、目は鋭く睨んだままだ。見透かされていた。だが、否定する言葉も出てこない。嫌な汗が額に浮かぶ。倦怠感がより増したようにも思えた。


「あそこで何をしてるのかは知らないがね、たまにお前みたいに逃げたしたやつがこの辺りを通る。この時期は珍しいがな」


 心臓の音が大きくなる。早くなる。俺は、と微かな音が喉をこする。一度、ごくりと唾を飲み込む。


「俺は、また研究所に戻されるんですか?」


 やっぱりか、と呟いたローレンの声は少しだけ和らいだものになっていた。


「心配するな。急に来た上に何やっているかわからない奴らには、わざわざ協力することもない。それに、奴らが誰かを探しに来たことなんて今までないからな」


 そう言うとニヤリと笑う。どうやら、彼は研究所そのものについて良く思っていないらしい。また、彼の口ぶりからすると、これまでも脱走者を匿っていたことがあるのだろう。


「しばらく休んでいくといい。体力がついたら友人とやらを探してあげなさい」


 グイ、とカップの残りを飲み干すと、ローレンはゆっくりと腰を上げた。一つ二つ、アイシャに目くばせをすると部屋を後にする。ギシリギシリと床をきしませる音が遠のく。


 緊張に固まった肩から、急に力が抜ける。マグカップはまだ手に持ったままだ。重さを支えていた指が少し痛い。そっと口に近づける。そっと啜ったそれは、もうすっかり冷めてしまっていて、僅かに温もりを感じられる程度のものだった。


「冷めてしまいましたね。もう一杯お入れしますか?」


 アイシャの言葉に小さく頷くと、残りを一息で飲み干した。空になったマグカップを渡す。


「そんなに急がなくても大丈夫ですよ」


 とほほ笑む。一人部屋に残されると、また風の音が耳に届く。過去にもここに匿われているというのならば、それほど研究所からは離れていないのかもしれない。


 あの日、215(ニーゴ)と二人で最後に受けた実験。恐らく、俺たちが何かの能力に目覚めた実験。215が施設にいるのならば、助け出さなければならない。そのためには力がいる。まずは、目覚めた能力が何かを確かめなければならない。この雪の中で逃げられたのだ。きっとそれなりには強い能力なのだろう。


 別れた友人に思いを耽っていると、ギィ、とドアが開く音がした。背でドアを押すアイシャの両手には、それぞれ湯気の立ったマグカップが握られていた。


「実は、さっきのココアは私が飲もうとして準備していたの」


 少し恥ずかしそうに、アイシャはマグカップを差し出す。


「気にしないさ。ありがとう」


 受け取り、口をつける。先ほどより少し熱い気がする。油断の代償に、俺の舌はしばらくの間ひりひりとしていた。

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