もう一人、雪の中
街道に出てすぐの道、ガルナーレまでを結ぶ細い一本道まで出た。壁や建物で遮られることもなくなり、沈みそうなオレンジの光が淡淡しく照らし、ハロルドの額を流れる大粒の汗に反射した。
細い道といっても車くらいはすれ違えるだろう。移動関係の能力者や馬が荷物を持って行きかうこの道の上で、ハロルドだけが気合で歩を進めていた。
「手伝ってあげたら? ニーゴ」
フィーアが皮肉めいた目線を僕に送る。もちろん、彼からは僕が見えていないことは彼女もわかっている。今僕が荷物を受け取ったら、急に荷物が消えたように見える。彼は腰を抜かすだろう。
「僕はお昼にいっぱい荷物達と触れ合ったからね。フィーアこそ、僕を引っ張りまわしたパワーを見せるときじゃないかい」
顔を見合わせてクスクスと笑う二人。おいおい、とハロルドが呆れ顔で息を吐く。
「フィーア、家はどの辺なんだ? 町の南ってことは知ってるけどよ、結構距離があるのか?」
流石に疲れているようで声に力がない。ええ、と軽く頷いて街道脇にそれた道の先を指さす。その先では生い茂る木々で薄暗く影が落ちている。ハロルドはあんぐりと口を開けた。その隣で僕も驚いていた。
「森の中なのか? 冗談だろ」
すげえとこから通ってるんだな、ハロルドの声がまた一つトーンを落とした。それも無理はない。僕たちの位置からフィーアの家がかけらも見えないのだ。確かにほんの少し奥まったところにはあるが、家から街道が一望できる程度には開けていたはずだ。
そのこわばった表情に笑いが隠せないようで、フィーアは大丈夫よと道を進んだ。
しばらくするとそれまでは緑の壁のように見えていた木々の一部が少しずつ薄らいでいることに気が付いた。その奥に見慣れたドアがうすぼんやりと見えてくる。
「この家はね、私と一緒にいないと見えないみたいなの」
いたずらっぽく跳ねるフィーア。思いのほか目的地が近く、ハロルドも露骨に安堵の表情を浮かべていた。ドサドサリと、玄関に荷物を降ろすと、じゃあな、とハロルド。
「不思議な家に住んでんだな、フィーア。まあいいや、俺は帰らせて貰うぜ。クタクタだ」
ハロルドが去った後僕たちは荷物の仕分けに精を出したのだが、何しろ中々の荷物量。なんだかんだぐったり疲れてしまった。軽い食事済ませるが早いか、フィーアはさっさと寝室に向かう。僕も寝てしまおう。
人々の活気に当てられたのか、疲労が程よい幸福感となって僕を眠りにいざなった。
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時は少し遡る。
とある山小屋の窓を風が叩いた頃の話。
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「何事ですか、おじい様」
少女の声が聞こえる。聞いたことのない声だ。
「いや、風が窓を叩いたらしい。驚かせてすまない。アイシャ」
今度は男性の声。しわがれたそれは、積み重ねた年月を感じさせる。こちらも聞いたこのない声。新しい研究員か何かだろうか。いや、それにしても似つかわしくない。
薄らと目を開く。木製の天井が見える。やはりここは研究所ではないのだろうか。あの時、最後の実験の後から記憶がない。全身が痛い。酷い倦怠感が血流を巡るようで気分が悪い。
「あら、お目覚めですか?」
心配そうな声がする。視界の端に人影が写りこむ。
慌てて起き上がろうとする俺を制し、少女は柔らかい笑顔を向けた。それに促されるままゆっくりと上体を起こし、ベットの淵に背をもたれる。
「まだ無理してはいけないわ。この吹雪の中で倒れていたのですから」
吹雪の中。何があったのかは覚えてないが、俺は研究所から脱出できたようだ。
ハッ、とひとつの顔が浮かぶ。そうだ、215はどうしたのだろう。引きつる顎で少女に声をかける。君、と絞り出した喉には鋭い痛みが走った。その声が聞こえたのかどうかわからないが、少女は穏やかな表情のまま湯気の昇るマグカップを差し出した。
「私はアイシャ。あなたは?」
もしかしたらここは実はまだ研究所内で、これも何かの実験の一つかもしれない。一瞬嫌な予感が頭をよぎったが、その少女の笑顔にはおよそ悪意は感じられなった。カップのココアをず、とすすると、喉から温度が体全体に広がるように感じた。喉の痛みもいくらかましになった。
「俺は216。なあ、俺以外に誰かいなかったか? 小柄の男なんだが……」
いいえ、とアイシャは首を振る。俺がこの小屋の前で倒れていただけで、足跡も一人分しか無かったとのことだ。
「お友達なの?」
アイシャが心配そうに髪を揺らす。ああ、と俺は首を軽く落とした。そうか、俺一人だけが脱出してしまったのか。あいつは俺より一回りは小さい。支えてやらなければと思っていた。
ここがどこかはわからないが、あの施設を脱出して吹雪の中を駆けてきたのだとしたら俺は何かの能力に目覚めたのだろう。記憶が曖昧なせいでどんな能力なのかわからないのが困ったとこだが。
「どうした、アイシャ」
先ほどのしわがれた声がした。ギシギシと床がきしむ音が近づく。現れた人物は声の通り、白銀の髭を蓄えた白髪の男だった。